自主出勤闘争日誌 | この日誌は、1994年1月から、「自主出勤闘争ニュース」として発行されたもの。 |
1994年1月4日から、徳見は横浜市教育委員会学校保健課へ「自主出勤」しました。6月10日まで半年間おこない、脊髄の検査のため、いったん中断。その年の12月20日に、「1か月後の1月19日をもって解雇」という通知があり、翌95年1月4日から、再び自主出勤を再開。そして、1月19日、ハンストをおこないながら、自主出勤を続けました。
その間、前の週の動きを「自主出勤闘争ニュース」というビラにして、市役所周辺にまき続けました。徳見が、どのようにして、職場復帰のための闘いをしてきたのか、当局が、どのような対応をしたのか、これは、その記録です。
▼94年1月4日に、市庁舎前でまいたビラ
第1号 1994年1月4日
第2号 1月10日
第3号 1月17日
第4号 1月24日
第5号 1月31日
第6号 2月7日
第7号 2月14日
第8号 2月21日
第9号 2月28日
第10号 3月7日
第11号 3月14日
第12号 3月22日
第13号 3月28日
第14号 4月4日
第15号 4月 18日
第16号 4月25日(4.25 弁明の機会 1)
第17号 5月9日
第18号 5月16日
第19号 5月23日
第20号 5月30日(5.30 弁明の機会 2)
第21号 6月6日
第22号 1995年1月4日(12.28 解雇予告)
第23号 1月9日
第24号 1月16日(1.19 解雇通告)
第25号 1月23日
第26号 1月30日
第27号 2月6日
第28号 2月13日
第29号 2月20日
第30号 2月27日
第31号 3月6日
第32号 3月13日
第33号(最終号)3月28日
1994年1月4日 8時45分 横浜市教育委員会に出勤予定 横浜市学校保健会・歯科衛生士 徳見康子 昨年4月25日に「休職期間」が切れて以来、「介助者つき職場復帰」をかかげる私に対し、横浜市学校保健会当局は、「自力通勤・自力勤務が絶対条件である」という理由で拒否し、「欠勤扱い」という状態のまま、今日に至っております。何度かの交渉の後に、今年の3月になって、以下の5項目の理由を追加してきました。 (1) 検査する場合、距離があるので、車イスでは難しい。このように、「仮に徳見が職場復帰したとしても、働けない」という理由を追加して並べ立ててきたのは、「自力通勤・勤務」という条件が「障害者の採用条件」であり、それをだけもって、「中途障害者の解雇条件にするのは、やはり無理がある」ということに、当局も気づいた証拠でしょう。 いずれにせよ、これらの理由で私を職場から排除しようとするのは、「障害者は健常者と全く同じ条件で働かなければならない」という発想に立った「障害者排除・切り捨て」の論理にほかなりません。 「能率・効率」のみを重視した現在の「健全者中心の労働現場」における「合理化・生産性向上」の中で、次々と「障害者」が生み出され、そして排除されています。しかも、残念なことに、その「健全労働者」が「効率の悪い障害労働者」を排除する傾向さえみられます。 したがって、職場が、そして社会が、障害者を受け入れ、障害者のペースに合わせて、ゆったりとした「ゆとりある」労働環境・生活環境を作り上げることが、いま求められているのではないでしょうか。 私もまた「健全者」と同じようには働けません。しかし「それがなぜ悪いの?!」と言い続けたいと思います。 そして個人的には、2年近く欠勤を強制されて、すでに貯えもなくなってきました。したがって、来年の1月4日の「仕事始め」の日をもって、出勤することにいたしました。 出勤にあたっては、当局の妨害もさることながら、介助体勢が不可欠です。長い闘いになります。皆さまのご支援・ご協力をお願い申し上げます。 1993年12月 |