1994年4月 4日(月)自主出勤第63日
午前中ホームヘルパーさん。
1: 20 出勤。途中廊下で長島係長・佐藤課長とすれちがう。連れ立って出かけるところらしい。 「行ってらっしゃい」という徳見のあいさつに、長島さんはかたくなに前を向いたまま目
もくれず。佐藤さんは心持ち頭を下げてあいさつを返したように見えたが、本当は顔をそむけたのかもしれない。
それにしても二人のカタイ表情! まるで「親のカタキを見るような」冷たい目! 徳 見が一体どんな悪いことをしたというのでしょうか……。「障害を理由にクビにするな」といって、職場復帰をもとめることが、そんなに悪いことなのでしょうか?
4: 00ごろ市庁舎秘書課へ。署名 94枚、 442名分を提出。「この署名は本当に市長が見るか」との問いに、茂木係長「とりあえず市民課・公聴課で内容を検討し、関係部署へ……」というあいまいな答え。心を
込めて署名していただいた方々の「声」を きちんときいてくれるのだろうか。
学校保健課に戻ると、課長がいるので、同じ署名を提出する。「会長に、ただ渡すだけ」という課長の言葉に、思わず「え〜っ、それだけ ?!」と叫んでしまう。この人たちにとっては「署名用紙」などは、ただ
の紙切れにすぎないのだろう。
その間に長島さんが戻ってきて、課長と徳見のやりとりをのぞきこむ。課長、長島さんに向かって「課長補佐、受け取りを……」という。どうやら長島さんは、一階級進んだらしい。しかし、うれしそうな顔を全く見せず、相変わらず徳見に向かっては固い顔のままだ。
最後に徳見、「課長サン、あいさつされたら、あいさつを返すのが人間として当然じゃありませんか」と言うと、先生に叱られた生徒のように照れくさそう。職場復帰要求だって、人間として当然の要求なのだが、あいさつさえ返せない人間には、分からないかもしれない……!
4月5日(火)自主出勤第64日
7: 50市役所本庁舎前で『自主出勤ニュース No.13』配布。
9: 00学校保健課に出勤。「徳見の机」について室内を見回すと、佐藤課長・長島課長補佐・平間指導主事・金子指導主事など全員おそろい。1時間ほど自主勤務の後自主出張に向かう。
自主出張報告 「朝ビラ」を手伝ってくれたトンちゃんらを送り、横浜ラポールで、7日の「リハ裁判」傍聴希望の車イスの人たちの送迎用ハンディキャブの手続きをしたり、「川崎市脳性麻痺者協会(川脳性)」の役員会のための送迎をしたり、その中で、施設の中でのセクハラ問題など、考えさせられたり……。
4月6日(水)自主出勤第65日
8: 00横浜市総合リハビリテーションセンター(リハセンター)前で、明日の「リハ裁判」第8回(横浜地裁)のビラまき。総勢7人でまいたので、ビラが足りなくなってしまう!
10 : 00〜1: 00ホームヘルパーさん。
1: 40学校保健課に出勤。「徳見の机」につくと、ちょうど佐藤課長が出かけるところ。「いってらっしゃい」とあいさつする。課長は「気にしつつ知らんぷり」。その後保健課の管理職は不在だったが、夕方佐藤課長・長島課長補佐があいついで戻ってくる。今日は何かいいことがあったのか、二人とも珍しくニコニコご機嫌だ。
5: 00教育委員会ビル前で『自主出勤ニュース No.13』配布。
4月7日(木)自主出勤第66日
「リハ裁判」第8回。「ダスキン・アイムスという零細企業」でパート労働者として働いていた美吉祥子さん(本紙4号に登場)のガイドで、9: 30学校保健課に出勤。「徳見の机」で自主勤務。美吉さんは、パート労働者の差別待遇に対して3月末に裁判提訴(5月
10日・第1回裁判・ 15: 30東京地裁 619号法廷)。そのため1週間ほどして、有給休暇を申請したことを理 由に、解雇を言い渡された。
11 : 00ころ裁判の傍聴者3人が車イスで到着。徳見の机はにぎやかになる。
地裁に向かうため、学校保健課を出ようとすると、長島課長補佐が近くを通りかかる。「明日から1週間ほど自主出張で県外へ出るので、こちらには来ない」というと、相変わらず固い顔のままで課長代理「4時過ぎに話をしたい」。徳見「裁判のあと打ち合わせがあり、戻らない」。課長補佐「それなら、今、5分でいいから……」。「話は組合立会いのうえで……」というやりとりの末、一同の後を追う。
「リハ裁判」は午後1時、横浜地裁。徳見は、「職場復帰のためのリハビリ」を期待してリハセンターへ通ったのだが、結局リハセンターは、徳見の心理状態や、日常生活のあらゆる動作などを確認し、測定・
記録・評価することに終始し、最も必要とし、希望した「職場復帰のための機能回復訓練や、障害に見合った仕事上の工夫などに関する指導」は全くなされなかった。それに対して抗議している最中(さなか)に、訓練用の道具が転がってきて、足にぶつかり、徳見は転倒する。
徳見の病気は、頚(くび)の脊髄が萎縮する「頚椎症性脊髄症」であり、転倒することが最大の危険であることを知りながら、リハセンターの医師はそれに対する対策をまったくとらず、転倒直後、医師がそばにいるにもかかわらず放置したまま!(そのため徳見は車イス生活となった)。しかもそれに対して責任をとるどころか、「そもそもリハセンターの対象ではなかった」としてリハビリの再開を拒否。リハセンターからの「追い出し」をはかる。
これが、「障害者のため」と称し、「横浜市のリハビリテーション施策の中核的施設」として作られたリハセンターの実態なのだ。徳見の「リハ裁判」は、このようなリハセンターの本質を明らかにしようとするものである。
また、徳見の職場である学校保健会は、リハセンターの転倒事故で、自力で移動できない車イス生活になった徳見に、「自力通勤・自力勤務ができない障害者である」ことを理由に、職場復帰を認めないため、徳見は、この1月から、抗議の自主出勤を続けている……。
リハセンターも学校保健会も、ともに横浜市の外郭団体(第三セクター)であり、そのいずれもが、障害者(徳見)を差別し排除する点においては、まったく同じ体質である。これが「共に生きる」を標榜(ひょうぼう)する横浜市の「障害者施策」なのだ!
4月8日(金)自主出張
1月4日から、1日だけ自主年休をとって医者へ行ったほかは、休みなく自主出勤や自主出張、土・日も集会や会議などに多忙を極め、「障害者って、なんて忙しいんだろう」と実感してきた徳見は、さらなる忙しさを求めて(?)地方へ自主出張に出かけることになった。
――というわけで、来週一週間、学校保健課の管理職の皆さまには、寂しい思いをさせてしまう。お許しあれ!
自主出張報告 (1993)年9月、天理市で行なわれた「全障連大会」に、「長野青い芝の会」の本多節子さんと共に参加したが(「リハ裁判すけっと日誌」参照)、今回、当局との長い?攻防に備えて、「自主出張」をさせていただき、長野の本多さんと再会し、天竜村ログハウスや二瀬キャンプ場、和知野温泉など、のんびりと、1週間ほどの「旅」をした。