1994年5月16日(月)自主出勤第83日
朝から自主出張のため、学校保健には出勤せず。
自主出張報告 5月6日(本誌16 号)九段坂病院からの紹介で、11:00 江戸川区の小岩駅近くにある「岩井病院」へ。頸椎のMRI 撮影。徳見の頸椎が写っているフィルムを持って帰宅。昼食後、国分寺の「本町クリニック」へ。徳見の頸椎に関する「主治医」となっている杉井ドクターに、フィルムを見てもらいに行く。(今号の5月20 日の項参照)
5月17日(火)自主出勤第84日
8:00 市役所本庁舎前で『自主出勤ニュース
No.17 』を、すけっと係3人と共に配布。小さなダンボール箱のカンパ箱を足もとにおく。横目で見て通る人もいるが、前回に引き続き、今回もカンパは0円。
いつも秘書課で応対に出る茂木係長が『ニュース』を受け取る。徳見の前に出ると、いつも暗く落ちこんでしまう茂木さん、今日もうつむいたまま、徳見の顔を見ないように過ぎる。徳見のために暗くなったのなら、茂木さん、お許しあれ!
「市長に会わせてほしい」という徳見の要求を、茂木さんは、いいくるめ、ごまかし、何とか追い返そうとする。 「市長に会わせるために、前向きに検討する」姿勢が全くみられず、「だめだ」の一点張りは、学校保健会が徳見の職場復帰を拒否するのと全く同じで対応である。
徳見が茂木さんを「批判」するのは、行政マンとして「市民の側に立つのか」を問うているのだ。茂木さん、どうか「市民の側に、そして障害者(徳見)の側に立って」考えてください……。
ビラまき終了後、学校保健課に出勤。
「徳見の机(来客用テーブル)」では、給食係長と栄養士さんが接客中。30 分ほど「通路」にて自主勤務の後、「リハ裁判」弁護団会議のため退出。次回の裁判(第9回・今月26 日)の対策を協議。
2:30 再び学校保健課へ。「徳見の机」をいっぱいに使って、『リハ裁判ニュース No.13 』の帳合(ちょうあい・頁をそろえること)・発送作業。平穏無事に勤務を終えて、17 :00 退庁。
5月18日(水)自主出勤第85日
午前中ホームヘルパーさん。
2:00 学校保健課に出勤。「徳見の机」は、佐藤課長が接客中。本庁舎地下の自治労事務所で、『自主出勤ニュース No.17 』発送作業。1時間ほどで終了し、7階の民生局へ、先日約束した「リハセンター関係の資料」を受け取りに行く。
前回応対に出た山田さんは留守で、杉澤係長が対応してくれる。彼も何度かの「交渉」や「リハ裁判」の傍聴などで、しばしば顔を合わせており、面識がある。
すぐに杉澤さんが約束の資料をテーブルに置く。(前回、山田さんが、「貸し出しはできない」と言っていたので)あまり期待もせずに、「コピーしたいから2〜3日貸してほしい」と申し入れると、思いがけず「いいですよ」との返事。
印刷された「公開の」資料なのだから、当然といえば当然なのだが、行政にいじめられ続けてきた徳見にとっては、この「親切」は意外でもあった。
徳見が資料を「リハ裁判」のために使用することは明らかだから、杉澤さんの行為は〈敵に塩を贈る〉ようなものだ。「こんなことして、杉澤さん、始末書をとられないかなぁ」と心配してしまう。
つまりは「市民の側に立つ」かどうかで「貸す」「貸さない」という違いとなるのだ。杉澤さんありがとう。今後とも「市民のため、障害者のため」の視点で行政を推進してください!
4:00 学校保健課に戻り、昨日と同様に「徳見の机」に『リハ裁判ニュース』をいっぱいに広げて帳合・発送作業。
5:00 教育委員会ビル前で『自主出勤ニュース
No.17 』配布。今日は残業が多いせいか、定時に帰る職員がいつもより少ないようだ。
5月19日(木)自主出勤第86日
午前中ホームヘルパーさん。
10 :00 福祉事務所の生活保護係長平野さんと「地区担当員」の神保さん二人が、「調査」のため来訪。
「行政」に対する徹底的な不信を持っている徳見としては、「またまた情報収集……」と身構えてしまう。そして、神保さんが広げた書類の中に、徳見の『自主出勤ニュース』のコピーがあるのを目ざとく見つけ、「やはり情報収集!」と思いこみ、抗議をする。
神保さんも、「売り言葉に買い言葉」で、「生活保護はプライベートなことに踏み込むもの」と応酬し、一時険悪な空気も流れる。
しかし「本当の援助は、福祉事務所が徳見の職場復帰を助けること」という徳見の言葉に、平野係長が「支給が決定すれば、学校保健課に話に行く」と約束してくれたので、徳見もその言葉を信じてホコを収め、以後順調に「調査」が進められる。
ところで、平野係長にとっては、「こんなに〈元気のいい〉徳見が、なぜ職場復帰が認められないのか」分からないらしい。「いろいろ仕事はあるのに……」と、不思議顔で首をかしげている(学校保健課の佐藤課長さん、そのうちおじゃまするはずの平野さんに、分かりやすく説明してください!)。
「行政の言う通りにやったら、障害者は殺されてしまう」と抗議し、「なぜ生活保護をとらねばならなくなったのか」を、時には涙を見せながら訴えると、福祉事務所の二人は「深い理解と共感」を感じてくれたらしく、「家賃補助は、規定では40,950 円だが、徳見さんの場合は、障害等級2級だから、61,500 まで出せる」と言ってくれる(5月6日に「申し込み」に行ったときには、そんな説明はなかった!)。
さらに、「他人介助」の制度があり、その「特別基準(103,050 円)」の適用ができるかもしれないから」といって、手続きの方法を教えてくれる。
そのうえ、「(銀行の預金が少なくなって、支払いができないため)電話も、ガスもとめられてしまう」という徳見の「相談」に対して、「生活保護の前渡金」を出してくれる。
「行政は障害者の敵」とばかり思っていた徳見にとっては、昨日の杉澤さん(民生局)といい、今日の平野さんや神保さんといい、「市民のため」「障害者のため」を本当に考えてくれる職員がいることを知ったのは、この上ない喜びだ。
しかしながら「保護と追放がセットになっている」制度を主軸として障害者の生活を決定していくと、「施設」か「在宅隔離」……。いずれにせよ、「行政の管理下に置かれる生活」の現実にどこまで思いを馳せることができるだろうか。
そして「障害者が自立できるための社会の変革」と「障害者を社会に適応させることが障害者の自立」とする価値観の違いに、どこまで気がついただろうか。
5月20日(金)自主出勤第87日
徳見は、91年2月26 日に横浜リハセンターでリハビリ中に転倒事故にあい、車イス生活になったのだが、その後リハセンターのリハビリ拒否と、それに付随して、徳見の頚の手術をした主治医から診療拒否をされた。
やむなく独自に医者を探して、経過観察・リハビリなどを続けてきた(国分寺の本町クリニック)。「障害はあっても介助者さえあれば勤務可能」な状態であり、休職期間が切れる前から職場復帰を求めてきた。
学校保健会当局は、「欠勤」を強制し、2年以上も放置したままだ。
当局は「徳見さんの身体の状態が分かる診断書」の提出を求めたり、「弁明の機会」を設けたりして、解雇する機会をうかがっているようだが、今のところ「クビにもできず、職場復帰も認めず」という状態のまま、相変わらず徳見が「自主退職」するのを待っているようだ。
長期戦を覚悟した徳見は(定年まで自主出勤だ!)、生活保護の受給で経済的な裏づけを得るとともに、転倒事故以来の懸案であった「脊髄の状態」を確かめるために、主治医の勧めに従い、「九段坂病院」で検査を受けることになった。
そして今日、午前中その病院へ。6月に「検査入院」をすることになる。期間は多分2週間程度になるだろうが、徳見にとっては「リフレッシュ自主休暇」となるはずだ。
14 :15 学校保健課に出勤。「徳見の机」では、佐藤課長・長島課長補佐・岩間指導主事・学校保健課係員の4人が会議中。したがって「通路」で自主勤務。20 分ほどして自主出張。
自主出張報告 「健康福祉センター」。薬害スモン被害者・古賀照男さんの「薬害を語る」集会に参加。終了後、森田明弁護士などと「障労」の編集会議。
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