1994年1月4日(火) 自主出勤第1日

 御用始めの日を期して、自主出勤闘争に突入! 当日朝、自治労や市従の組合ビラまきに合流し、「自主出勤宣言」のビラを、市庁舎前でまく。8時46分、介助者・支援者そして自治労の役員も含めて、総勢6人、教育委員会の中にある徳見の勤務先・学校保健会へあいさつに行く。
 すると、学校保健課の課長が、「話は会議室で……」ということで、1時間ほど、当局の考えを聞く。その話は大略次のようなものであった。
 ――昨年12日27日、学校保健会の理事会を開き、協議した結果、「徳見さんの身体の状態が分かるような」診断書を出してほしい。その上で検討したい。なお、これは「業務命令」ではない。
 この提案に対しては、すでに「職場復帰願」提出時(92年4月)に診断書を提出しているので、返答を保留し、終了後ただちに教育委員会へ、新年と自主出勤のあいさつにまわり、ビラを全員に渡す。
 ビラまきを一緒にやってくれたアーやん(信州大・学生)の感想。

 部屋に入ってあいさつをすると、職員が、入ってくる教師を迎える生徒のように起立するので、かわいかった。でも2年前までは(高校生だった)私もやっていたこと。その時はあたりまえに思っていたのを思い出してちょっと冷や汗……! 管理されることに不満を持ってはいても、小学校のときからの習慣で、管理されることにマヒしちゃってるんだなと反省(アーやん)。
 あいさつまわりが終わると、本庁舎へ。市長に面会を求めて、秘書課へ。ビラを渡して引き上げる。

1月5日(水) 自主出勤第2日
 8:40ころ、学校保健課へ。入口近くに会議用のテーブルと椅子7脚ほどあり、その上には「出勤簿」が置いてある。支援者・介助者含めて4人が、その椅子に座り、各自作業をしていると、長島係長がこわい顔をして近づいてきて、「ここは会議用の場所だ。業務の邪魔だからどいてほしい」として、排除にかかる。徳見は断固これを拒否。やむなく(?)おっかない顔のまま係長は退散。途中1時間ほど、「会議がある」とのことで、テーブルを離れる。
 今日の徳見さんの話し方はうまかったなあ。小市民の私は、あんな時、ついひるんでしまう。「あっ、そうですか」とか言って、まるめこまれてしまう。でも、徳見さんを見て、元気がでました(アーやん)。
 10:30ころ本庁舎へ。昨日に引き続き、秘書課へ。「学校保健課の佐藤課長に話を聞いたが、話し合いの途中なので、まだ市長に話す段階ではない」という。徳見は、自らの立場を訴え、「ぜひ市長に伝えてほしい」と話す。応対に出た内田さんは「今日、必ず市長に伝える」という。明日、その結果を聞きにいくつもり。
 次に、7階の民生局へ。「障害者団体」の定期刊行物の場合に、低料金で郵送できる制度(低料第三種郵便)あり、その適用を受けるためには、「公の機関が障害者団体と認定すること」が第一条件となっている。そこで民生局障害援護課へ。応対に出た、清水係長は、その制度のことはまったく知らず、しかも「障害者団体とは、障害者だけで構成された団体」などと的外れなことをいう。何ともおそまつな認識ぶりにあきれてしまう。
 徳見の娘の友だち・ミーちゃんの感想。
 民生局の清水さんに、私とアーやんは「そっち」よばわりをされてしまいました。やっぱり一人の市民なんて、「そっち」でしかないのでしょうか。学校保健課でも「いるだけでじゃま」という言われ方をされてしまいました。横浜市民なのに……(ミーちゃん)。
 17:00 退庁し、「リハ裁判」の打ち合せのため、森田弁護士事務所へ。

1月6日(木) 自主出勤第3日
 8:30出勤。長島係長に出勤のあいさつをして、介助者を含めて3人、すぐに来客用のテーブルに座る。しばらくして職員がいつもの通り、テーブルの上に出勤簿をおくが、どういうわけかすぐに他の場所に移してしまう。10:30ころ「会議で使う」というので、テーブルをあけて本庁舎の秘書課へ。
 部屋へ徳見が入る姿を見たとたん、担当の係長2人、一瞬ギョッとした顔つきで、茂木係長があたふたと徳見のところへかけつける。まさか今日もくるとはまったく思ってもいなかったらしい。「市長への報告はどうなったのか」との質問に、「市長に伝えたが、市長はふ〜んというだけ」という。本当に伝えたかどうか疑問だが(徳見のことなど、市長に伝えるはずはない?!)それにはふれず、再度、市長に徳見の実態を伝えてほしい旨申し入れる。なお、市長に直接「要望書」を手渡すまでは、毎日秘書課に顔を出すつもりである。
 15分ほどで引き上げ、7階の民生局へ。昨日の「低料第三種郵便」の件で、障害援護課・森課長訪問。郵政省の通達にある「主たる構成員が心身障害者であること」を確かめるために「会員名簿の提出をせよ」という。「障害者のプライバシー侵害を平気でおこない、選別・管理することしか考えない民生局に、名簿を提出することを認めるわけにはいかない」と拒否し、見せるだけなら、と言うと、「どうぞご勝手に。認定しないだけだ」という態度。「権力」を持つものの傲慢「さを感じる。実際問題として、「リハ裁判の会」が、毎月数万円の郵送料を負担せざるをえない現実の中では、何としてもこの「権力」をつきくずさなければならない。17:00退庁。

1月7日(金) 自主出勤第4日

 今日は、朝、ホームヘルパーさんが来る日である。横浜市のホームヘルプ協会の規定で、利用者(徳見)がいないときは、ヘルパーさんは、仕事をしてはいけないことになっているので、午前中は自宅で「家事サービス」を受ける。
 13:00出勤。学校保健課・長島係長にあいさつ。「民生局や秘書課から、何か連絡がありましたか」と徳見。完全無視をするかと思ったら「いや、何もありません」という返事。
 14:00、自治労本部で、森田明弁護士も含めて、1/4の「診断書の提出を」という当局からの申し入れについて、協議
 終了後、秘書課へ。茂木係長が徳見を見て飛んで来る。何も言わないうちに、「昨日は、市長が記者会見などで忙しくて、話をしていません」といいわけをする(そういえば、今日の朝刊に「高秀市長、4月の市長選に出馬表明」と出ていた)。すぐに「徳見担当」の内田係長がやってきて「とにかく徳見さんの意向を伝えます」というので、「月曜日にまた来る」ことを表明して、5分ほどで引き上げる。
 学校保健課に戻ると16:00。以後退庁時まで、「来客用テーブル」で、各自事務作業をする。
 当局は「一切無視」で、「いずれ疲れてやめるだろう」という見通しでいるのだろう。
 17:00退庁。

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  こうして、「自主出勤闘争」がはじまった
 初日のビラまきのあとの「当局との会談」は、組合(自治労横浜)の本部役員と支部長(教育委員会支部)の立ち合いで行なわれたが、
 「第1次自主出勤」は、94年1月4日の「御用始め」から、6月10日まで、延べ106日間、『ニュース』は、21号まで発行した。
 1月4・5日に登場している「あーやん」は、当時信州大学の1年生。正月を横浜の実家で過ごすために帰省中であった。また「ミーちゃん」は、徳見の娘の友人で、自主出勤につきあってくれた。
 こうして、自主出勤中は、ほとんど毎回、誰かが徳見のいる教育委員会の学校保健課にきてくれた。

 徳見は、6月13日に、脊髄の検査のために入院した。89年1月に脊髄の手術をしたときに、「4〜5年後には再手術が必要になるかもしれない」と主治医に言われており、職場復帰に備えての「検査入院」であった。7月8日まで、1か月近くの検査入院で、結果は「当面、再手術の必要はない」ということだった。
 また、リハセンターでの転倒事故の影響については、「症状からみて、脊髄に微細な損傷がおこった可能性はあるが、立証は困難(というより、不可能)」であるようだ。
 退院後、脊髄造影剤の影響が長く残り、激しい頭痛に襲われ、体調がなかなかもとに戻らず、自主出勤再開に踏み切ることができなかった。そうこうしているうちに、その年の12月20日、当局から「1か月後の1月19日をもって免職」という解雇通告を受けて、95年1月4日から、「第2次自主出勤」に踏み切った。
 


7日 協議 自治労本部役員と、徳見の所属する「教育委員会支部」の役員、そして森田弁護士が出席して、1月4日に当局が要求した「診断書」を提出すべきかどうか、検討する。徳見としては、解雇を正当化する理由にされることは明らかなので、躊躇しているのだが、組合としては、「話し合いの土俵」として、当局の要求を受け入れる必要があるという判断のようである。当局が組合の役員に「いつまで(自主出勤を)続けるのか」と質問したという。組合本部の側としては、徳見があまり当局と「事を構える」ことは望まないらしく、「出勤できることが示せればいい」ので、せいぜい1週間か、長くても1か月程度を考えているらしい。
 今後の闘いには、組合の「支持」が不可欠なので、「こちらの線で(診断書を解雇の理由にしないという確約をとった上で)、診断書を提出する」ことになる。