1995年1月4日(水)自主出勤第103日(再開第1日)
 8時、横浜市役所前で、解雇通告に対する抗議のビラまき。市会議員の木内博さんとその事務所の与那原寛子さん。また、一昨年「障害の重度化」を理由に横浜市の職員を解雇され、処分は不当として闘っている脳性マヒの白石幸男さんも参加、スケットも含めて5人。
 8時45分、ビラまき終了後、学校保健課へ。直ちに課長の机へ。佐藤課長、市会議員の姿を見て(?)緊張のあまりコチコチになって立ち上がり、徳見一行をむかえる。
 「解雇の理由は何か」という問いに、「学校保健会の総意による結論」で、「立ったり座ったりして歯科衛生士の仕事ができない」などと、小さな声で述べる。徳見や木内さんの追求に、「保健会の結論ですから……」をくり返す。
 40分ほどやりとりの後、半年ぶりに

  解雇通告への抗議

「徳見の机(来客用テーブル)」」に座り、『毎日新聞』の記者のインタビューを受ける。そのころ。町田の佐藤勲さん、横浜市大の若山聡さん、いろいろと徳見の支援をしてくれている川井章司さんなどがかけつけてくる。
 11時ごろ、インタビューが終わり、そのまま「自主勤務」を続ける。やがて、スピーカーから「市長のあいさつ」が流れる。終わると教育委員長のあいさつがフロアーの中ほどでおこなわれ、職員のほとんど全員がそちらへ移動する。
 午後は、中華街で昼食後、学校保健課にもどり「自主出勤」再開。3時30分ころ、佐藤さん・川井さんと共に、教育委員会の各部署をまわり、「座って仕事をしてはいけませんか?」などと「あいさつ」をして、ビラまきをおこなう。いくつかの部署では、徳見の「あいさつ」に拍手がおこり、元気づけられる。最後に学校保健課で「あいさつ」。佐藤課長は、口をへの字に曲げて、ぶ然たる表情で、書類に目を落としたまま身じろぎもしない。長島課長補佐は、書類を広げ、努めて素知らぬ様子だ。
 4時から「新年の宴会」が始まったため、4時過ぎには学校保健課の中もガランとしてしまう。「宴会」は、別の部屋でおこなわれていて、締め切ったドアから、賑やかな声がもれ聞こえてくる。時にはカンビールを片手に、赤い顔をした人が廊下を歩いていたりする。徳見たちはそれを横目に、学校保健課で「留守番」をする。
 5時近く、『毎日新聞』の記者がやってくる。「徳見さんの記述部分で、事実関係の間違いがないかどうか、内容の確認を……」という。言えばきりがないけれど、こんなものなのだろうと思う。「これからデスクで手をいれるかも……」とのこと。さて、明日はどんな記事になるのだろうか。

 さて、ここで、今日に至るまでの経過を簡単にまとめておきたい。

 

 

昨(1994)年12月20日(火)

  解雇予告・徳見家
 

 朝9時5分前ごろ、学校保健課長・佐藤さんから電話があり、「近くにいるから、5分後に寄りたい」という。徳見は「解雇通告だ。受け取らないで!」とスケット(介助者)に指示。ビデオをセットして待ち構えていると、玄関を開けて、佐藤課長が「徳見さんに渡してほしい」と、紙切れを持参する。突き出された紙切れには予想通り「免職通知」とある。スケット「受け取ることはできない」というと、課長「渡してもらえばいいから……」と、玄関に先にポンと置いて出てゆく。
 佐藤課長の後には、長島課長補佐・森田さん(歯科医師会会長)・金子さん(指導主事)の3人のが控えている。

            免 職 通 知

 横浜市学校保健会 
歯科衛生士 徳見康子様

 横浜市学校保健会職員の任免・給与・勤務時間その他の勤務条件に関する規定第3条 第3項第2号により、平成7年1月19日をもって免職する。
             平成6年12月20日
   横浜市学校保健会会長 手束和之

  「自力通勤・自力勤務ができない」から「職場復帰を認めない」といい、「なぜ、健常者と全く同じ条件で働かなければいけないの?」「介助者つきで働いてなぜ悪いの?」という問いには一切答えず、「クビ切り」をしてきた。
 これまで20数年間、歯科衛生士として学校保健会に所属して、小学校の児童に対する歯科指導・検査の仕事をしてきた。それは、徳見にとっては、情熱を持ち、誇りを持ってやりつづけてきた仕事であるだけに、予想されていたこととはいえ、現実に解雇通告をされたショックは隠し切れない。
 92年4月に3年間の休職期限が切れてから、当局は「欠勤扱い」のまま、クビにもせず、職場復帰も認めず、今日に至っている。一昨年、佐藤課長が就任してから、「この課長なら解雇を出すだろう」と予想し、昨年1月4日から「自主出勤闘争」にはいったのだ。
 半年ほどたって、自主出勤の長期化を覚悟し、「手術した脊髄部分の急激な悪化のおそれがないか」検査のために1か月ほど入院した。結果は「その心配はない」ことがわかったが、検査時の造影剤の副作用の改善と体調維持のため、そのまま自主出勤を中断していた。
 それまでの佐藤課長との「交渉」の中て、徳見の「職場復帰要求」に対して、ほとんどまともに(論理的に)答えられず、また、「組合の存在を無視した解雇通告はないだろう」と油断していたことも事実であった。
 いずれにせよ、このように、ひたすら障害者の切り捨てを図ってくる横浜市当局の姿勢を許すことはできない。

補足 6月2日(No.20)の「補足」にも書いたように、所属する労働組合(自治労横浜)は、徳見の職場復帰には消極的(というよりむしろ否定的!?)であり、また「自主出勤闘争」には、批判的な態度だった。徳見の解雇について、当局と組合が「ボス交」したかどうかは知る由もないが、「解雇しても組合は動かない」という読みはあったはずだし、事実、組合は動かなかった。

12月22日(木)
 「リハ裁判」の「戦略会議兼忘年会」の予定で、楽しく過ごすはずであったが、急遽、解雇を許さないための戦術会議に切り替えて、支援をしてくれている市会議員も含めて、解雇通告に対しての今後の対策を話し合う。そして、1年前に「障害の重度化」を理由に解雇された白石幸男さんと共に、解雇撤回に向けて、集会を持ち、支援組織の結成などを話し合い、徳見も、解雇のショックからどうやらやっと立ち直れそうだ。

12月27日(火)
 8時、横浜市役所前ビラまき。今回の横浜市学校保健会による解雇処分の通告に対する抗議と支援集会のお知らせ。
 午後5時から、学校保健課のある教育委員会ビルの前でもビラをまく。「久しぶり!」とあいさつしてくれる人が何人かいて、1月4日からの自主出勤への決意を新たにする。

12月28日(水)
 川崎の「小山事務所」へ。解雇問題について、小山正義さんと協議する。1.19集会で、小山事務局長・加藤彰彦代表で、「障害者の労働問題を考える」会を作ろうということになる。
 今日は、昨年同様「青い芝の会」発祥の地、茨城の「閑居山願成寺」で「もちつき」があるという。小山さんは「守る会の行事ではないから行かない」とのこと。徳見は17:00ごろ大仏奧さん方に着き、願成寺へ。すでに「もちつき」は終わり、ヒロシ一人、山上の「荒れ寺」で、孤立して?「生活」しているらしい様子で、悩みを聞いたり、元気づけたり、「閑居山裁判」についてのアドバイスをしたり……。

12月29日(木)
 パート差別に対する裁判をおこなっている美吉祥子さんの「12時間バトルクッキング」で、飲み・食いかつ語り、夜中の2時半に川崎を出て、長野へ向かう。1月2日まで、自主出勤再開に備えて、温泉や本多節子さん方、松本の知人などを訪問としたりして、英気を養う。

1月5日(木)自主出勤第104日(再開第2日)
 朝、トンちゃんが「毎日新聞の全国版に載っていた」と、新聞記事をファックスで送ってくれる。スペースのわりにはよくまとまっていて、記者の努力がしのばれる。ただ「社会福祉にくわしい加藤彰彦・横浜市大文理学部助教授」の話として「視覚障害など業務が不可能な事情があるのならともかく……」という記述は、「徳見がやっている口の中の検査業務の場合は……」という意味であるが、誤解をまねきかねない表現だ。
 すぐ、加藤先生に電話で、その旨報告。先生「う〜ん、困ったな」と、頭を抱えている様子。徳見のせいで、結果的に加藤先生に迷惑がかかることになっては、誠に申しわけない。
 それやこれやで、10時半ごろ「職場(学校保健課)」に到着。さっそく「徳見の机(来客用テーブル)」で、自主勤務につく。昨日に引き続き、川井さんも来てくれる。
 1時20分ころ、「毎日新聞の記事について、聞きたい」と、朝日新聞の記者に20分ほどインタビューを受けるが、徳見は昨日からの疲れのためか、なんとなく無愛想な対応をしてしまう。記者さん、ごめんなさい!

1月6日(金)自主出勤第105日(再開第3日)
 午前中ホームヘルパーさん来訪(毎週月・水・金の10時から午後1時まで、横浜市ホームヘルプ協会からヘルパーさんが派遣されてくる)。
 1時30分学校保健課へ自主出勤。平穏無事に(当局は一切無視ということ)勤務につく。 体調維持のために、プールへ行くので、4時、退庁する(しかし、今日はプール休みたった。 残念!)。

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