1994年1月24日(月) 自主出勤第15日
8:35学校保健課出勤。佐藤課長・長島係長、すでに顔をそろえている。女性職員が「お茶汲み」をしている。毎日、朝コーヒーをわかし、お茶をいれて配り、タ方湯飲みなどの片付けを、女性職員が交替でやっている。他の課でもそうなのだろうか。
9:30帰宅し、ホームへルプサービスを受ける。午後自主出張。タ方までかかり、職場に戻らず、そのまま帰宅。
1月25日(火) 自主出勤第16日
8:00市庁舎前で『自主出勤ニュースNo.3』をまく。4人でまいたので、用意した1000枚はほとんどなくなってしまう。
今日の自治労のビラまきは、当局の合理化による「減員攻撃」に対するものだが、マイクをにぎった本部役員の方は、徳見のビラまきについても、言及してくれた。
「学校保健会の歯科衛生士・徳見康子さんは、休職期間中にリハセンターで転倒事故にあい、その責任を追求している。職場復帰を求めて自主出勤で闘っています。また、職場復帰が受け入れられないままに、休職期間が切れてしまいました。現在、1日も早く職場復帰が認められるように願って、自主出勤をしています。ぜひ、ビラをとっていただき、ご支援をよろしくお願いします……」と、何度も繰り返し訴えていただいた。
今日は、9:00ころ、ビラまきを終えると、学校保健課には顔を出さず、そのまま自主出張。
1:50ころ学校保健課に戻る。見ると金子指導主事が「徳見のテーブル」を占領して、何やら書類をいっぱい広げている。したがっていつものロッカーの前に座を占めることになる。すぐに阿部指導主事がドアから入ってきて、徳見の後ろで、大きな声で「ただいま」と言う。徳見、思わず「お帰りなさい」と返事をしてしまう。
もちろん、「ただいま」は徳見に向かって言ったものではないが、徳見の返事を聞いたとき、阿部さんは徳見の存在に気づいている。しかし、まったく聞こえないふりをして、自分の机に向かって行った。
2時すぎ、秘書課へ。内田係長が出てくる
(茂木さんは、なにやら打ち合せ中)。
1月5日秘書課へ行ったとき、助役室へ行こうとする徳見を、鋭い目付きをしたボディーガード風の男が、徳見に向かって、犬や猫を追い払うような「シッシッ」というしぐさで、手を動かしながら近づいてきた。男は徳見の前に立ちはだかると、内田さんらに、「こいつを外へ出せ」というように目で合図。その間、男は一言も口を聞かなかった。
なぜ、言葉で言わず、手振り、目配せで追い出すように指示するのか。その全身から発する「殺気」のようなものが徳見を威圧し、恐れさせる。こうして障害者を排除するのが、横浜市のやり方なのか?
このような徳見の抗議に、内田さん「それは永田という者で、本人にも確かめたが、徳見さんに対してやったのではなく、職員に合図したもの」という。とにかく「文書での釈明」を求めて引き上げる。
2:30から、「教育委員会臨時会議」が開かれるというので、傍聴に行く。教育委員会の会議は公開なのだ。教育委員、市の関係者ら20〜30人が席について、定刻に、教育長の司会で会議が始まる。
まず1号議題「前回会議録の承認」は、「原案通り承認してよろしいでしょうか」「よろしいです」ですぐ終わる。次いで2号議題「報告・富岡中学校生徒殺傷事件について」は、担当者が、簡単に事件の経過を説明したあと「きちんと生徒・担任を指導していきたい」と結んで終わる。この間2〜3分。
そして、以後の「審議案件] (「横浜市歴史博物館の設置及び横浜市歴史博物館条例の制定に関する意見の申出」と「学校用地の取得申出」)は、「秘密会」ということで、傍聴を許されない。このような審議案件がなぜ秘密なのか、よく分からない。
「公開」とは名ばかりの秘密主義だ。
学校保健課に戻ると「徳見のテーブル」は、金子さんがまだ使用している。しかし3:30ころにはあけてくれたので、そちらに移動。5時退庁まで、平穏に自主勤務。
1月26日(水) 自主出勤第17日
午前中ホームへルパーさん来訪。
1:00学校保健課へ出勤。「徳見のテーブル」は、佐藤課長らが、接客中らしく、使用中のため、課長にあいさつ(お返しはジロッとひとにらみ)。すぐに』自主出勤ニュースNo.3』の増刷に出かける。
印刷を終えて、3:50ころ学校保健課に戻り自主勤務。徳見が教育委員会の「福祉政策」について、「ひとりの市民として」若干の質問を長島係長にすると、ていねいに答えてくれる。長島さん、ありがとう。
5時退庁。教育委員会ビル前で,『自主出勤ニュースNo.3』をまく。長島さんや、外からタクシーで戻ってきた指導主事の阿部さんも、ビラを受け取ってくれた。しっかり読んで、徳見の職場復帰について、前向きに検討してほしいものだ。
1月27日(木) 自主出勤第18日
8:45出勤。「徳見のテーブル」に就き、自主勤務。9:40ころ、本庁の自治労事務所へ。『自主出勤ニュースNo.3』の各支部への発送作業。
10:00ころ戻る。しばらくすると,来客があり、学校給食係長と栄養士が応対。お客さんは、なぜ徳見がテーブルからどかされたのか分からず、けげんな顔で「いいんですか?」。係長、撫然とした表情で「いいんですよ!」
12:00退庁。昼食後、リハビリのため病院へ。リハビリ終了後、そのまま帰宅。
1月28日(金) 自主出勤第19日
午前中ホームへルパーさん。
12:55学校保健課へ出勤。佐藤課長・長島係長・阿部指導主事の3人が、「徳見のテーブル」で食後の歓談。待つことしばしで、午後の勤務時間が始まる。徳見はテーブルに着くが、すぐに来客。30分ほどあけ渡す。
1:30「パート労働者の権利獲得にむけて」闘っている美吉祥子さんが、支援にかけつけてくれる。美吉さんは、4年前「ダスキン・アイムスという零細企業」で労働組合をつくり、「全く同じ仕事をしているのに、パート労働者はきわめて安い賃金で働かされている」として、待遇の改善を求めて闘っている。
現在は、金曜日に営業活動を強制されており、それに対して、「金曜日は抗議の欠勤」をしているという(徳見のやっている「自主出勤」も珍しいが、「欠勤闘争」というのもユニークだ)。
美吉さんたちの会で、パート賃金差別に対しての学習会(2月16日午後7:00川崎市中小企業・婦人会館)があるというので、徳見も参加するつもり(興味のある方は、ぜひご一緒にどうぞ)。
2:30自称「猫の里親」上坂さんも支援に来てくれる。5:00退庁まで、女3人でにぎやかに自主勤務を楽しむ。
24日 自主出張 八王子地裁でおこなわれた「教師いじめ裁判」を傍聴支援。小学校の教師・玉置和枝さんが、校長および教頭から、さまざまないじめ・嫌がらせをうけて、名誉を傷つけられたとして、二人と羽村市(東京都)に対して損害賠償をもとめた裁判である。
25日 自主出張 東京地裁へ「医療過誤裁判」の傍聴支援に行く。この裁判は、東京女子医大で、医学的に不必要にもかかわらず、「本人の同意なく」卵巣と子宮を全部摘出された平栗さんは、1989年1月に提訴。25回の裁判を重ねて、1993年3月、東京地裁での一審判決は、原告・平栗さんの敗訴となった。その後のミーティングなどにも参加して、12:30ころ、裁判所を出て、帰りの車中で、持参の弁当を食べる。 こうして、2時近く、学校保健課へ自主出勤したのである。後は、この『ニュース』にある通り、5時まで学校保健課などで過ごした。 帰宅すると、6時半に、「社会臨床学会」のスタッフ4人(小沢・平井・田中・根本さん)来訪。この4月に横浜市大でおこなわれる社臨の総会におけるシンポジウムに、徳見が「発題者」の一人として参加することになっており、その打ち合わせなのである。徳見の「発言」のテーマや内容をどのようなものにする(なる)のか、などをめぐって、カンビールを飲みながら、カンカンガクガクの議論が、10時過ぎまでたたかわされた。 徳見は、横浜リハセンターでの「できごと」を通して、体験したことを語る。リハセンターの専門家にとっては、障害者・徳見は「分析・評価し、研究・管理する材料――事例にすぎない」こと。そして、「される側」にとって、このような「事例」として取り扱われることが、どんな気持ちなのか。それを「くいぶち」として仕事をしている「する側」の「専門家」たちに、みずからの仕事の持つ「非人間性」を捉え返し続けてほしい……という思いを、「する側・される側」にこだわり続けている、社臨の「専門家」たちに対しても投げかけたつもりなのだが……。 |