『障労通信No.21』(04.12.25)に書いた文章です。
 2000年6月、解雇5年目にしてやっと新美弁護士に出会って、裁判提訴に至ったのですが、そのときの事情などを『リハ裁判No.41』(2000年2月11日付け)の文章を引用しながら述べています。なお、文中の日付は2000年です。

 「リハ裁判」一審判決をうけて、直ちに控訴。そして、1月31日付けで「控訴理由書」提出……というわけで、1月19日もあわただしくすぎてしまった。5年経っても、職場復帰の見通しが立たず、このまま解雇が既成事実となってしまいそうな状況が、ますます強くなってきていた。

5度めの1月19日がやってきた。
 2日前の阪神大震災と共に、決して忘れることのできない日――徳見の「解雇」の日がまたやってきた。
 そして9回めの2月26日――リハセンターでの転倒事故の日がやってくる。そのころの徳見は、原職復帰のために通っていたリハセンターで事故にあい、しかも3年の休職期間も残り1年余りとなって、「何としても原職復帰をしたい、しかし、それができなくなってしまうのではないか……」、そのような不安、あせりの中でリハセンターに対して、リハビリ再開を要求していた。しかし、リハセンターはリハビリ再開を拒否し、徳見はやむなく裁判提訴に至ったのである。
 徳見が、リハセンターに期待していたのは、残り少ない休職期間の中で、原職復帰に向けて、「専門家」が患者(徳見)と共に検討し、考えてくれるのではないか、ということだった。しかしリハセンターにとって、患者(障害者)は「情報収集の検体」だけでしかなく、「検体」が「もの申す」と、排除するだけだったのである。
 解雇1か月前に「解雇予告」が出されて以来、運動と並行して裁判を提訴することも考えていたが、相談した弁護士は「労働裁判としては勝てない」という判断であり、また徳見自身が、「自分に『能力・ライセンスがある』のに解雇されたから、解雇は不当」という裁判はしたくない、という気持ち――自らが「能力主義」を否定しながら、それを前提にした主張はできない、ということなどから、いったい、どのようにしたら裁判ができるのか分からないまま、裁判に踏み切ることもできず、今日にいたっている(徳見・「障害を理由にした解雇」の不当性を、法律的に構成するのは非常に難しいらしく、弁護士をさがし続けているのです)。
 徳見の本当にしたかったことは、原職復帰──労働者を使い捨てにする合理化、職業病、「専門職」の問い直し、そして障害者を分断・排除する学校教育現場で、障害者となった徳見が、中から闘い続けたかった……そのための原職復帰なのである。「原職復帰ができないのなら、リハ裁判に何の意味があるの……」という気持ちを、何度も口にしているのである。
 すでに徳見が原職を離れてから10年以上経ってしまった。実質的な原職復帰はできないにしても、仕事を奪った当局およびリハセンターへの怒りは消えていない。「運動」としての「解雇撤回」の道が閉ざされてしまっている現在、残されているのは、「裁判」しかないのかもしれない …と、解雇5年をむかえて思う今日このごろである(『リハ裁判No.41』00年2月11日)。

 奈良町の施設問題で知り合った新美隆弁護士に、徳見の「解雇問題」について相談すると、「これこそ裁判提訴すべき……」と言ってくれた。新美弁護士は、「労働問題にくわしい」だけではなく、差別や人権の視点で問題を掘り下げて闘っている弁護士で、徳見の解雇問題も、「働けない労働者の解雇問題」だけではなく、「障害者差別の問題」としても受け取ってくれたのである。
 「悪い判例を残しては……」という徳見の懸念については、「私なんか、『悪い判例』をたくさんつくってきたよ!」といって笑い飛ばすのだった。
 こうして、やっと、解雇5年目にして、この年の6月、「解雇無効」の裁判(障労裁判)を提訴するに至ったのであった。
 解雇撤回を求める「障労裁判」は2回おこなわれた。しかし、当局は「立ったり座ったりできない」という主張以外には、具体的な解雇理由を示すことができなかった。
 リハ裁判は、11月13日の第5回控訴審で結審となり、判決は翌年の1月31日となった。

 この年の3月から、徳見はチターを習い始める。

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