11.6シンポジウムの記録と集会決議


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93.11.6 障害者の労働問題を考える

森田明弁護士
 私のほうからは、今日のシンポジウムにいたったいきさつと、若干の問題提起をして、むしろメインはこの後の報告が中心になります。それを踏まえた上で、最後にまとめ的な発言をしたいと思いますので、ここでの話は、ごくさわりの部分ということになります。
 今日の集会のきっかけとなったのは、徳見さんの事件です。
 はじめに私が徳見さんから相談を受けたのは、リハセンターで職場復帰をめざすリハビリをやっている最中に転倒事故にあった、ということが直接のきっかけです。そして、リハセンターのいろいろな問題をとりあげて裁判を起こすことになっていくわけです。
 その一方で、徳見さんのもともとの職業病と、リハビリ中の事故による症状の悪化のための職場復帰の問題、これがリハセンターとの交渉の過程から並行して問題になってきたわけです。
 一応、転倒事故による症状が落ち着いた段階で、徳見さんのほうからは、介助者つきの職場復帰ということを要求してきました。障害は重くはなったが、一定の条件を整えることによって、働く可能性はあるのではないか、そういった可能性を試させてほしい、という要求を出してきましたが、徳見さんの職場である学校保健会(市の外郭団体)は、全然これを受け入れようとしません。結局は障害者が働く場合の条件である「自力通勤・自力勤務ができない限りは、障害者を受け入れていない、したがって、働いていた人であっても、それができなくなった以上は、辞めていただきたい」という対応をとってきたわけです。
 実はその問題が解決しないうちに、リハセンター相手に裁判を起こしてきた関係で、リハセンターの裁判の中身が、ちょっと他の裁判と違ったものになっています。
 普通、事故などで障害が重くなった場合は、「重くなって働くのが困難になった部分」を損害とみるのです。つまり{何%仕事ができにくくなったか}ということで、損害を算出するのですが、徳見さんの裁判の場合にはそうなってはいません。こちらとしては、あくまでも「働かさせろ」ということを要求しているのですから、働くための条件整備として必要になる部分――それがリハセンターが負うべき責任ではないか、ということで、介護費用の部分を損害として請求しています。そういう、ちょっと特別なたてかたをしているわけです。
 裁判としては、そういう形でスタートをして、それとは別に学校保健会と、職場復帰の交渉をつづけてきたわけですが、その後もずっと平行線をたどったまま、今日に至っています。

 徳見さんの問題は、仕事をする中で障害を負い、それが悪化してしまった人を、職場からほうり出してしまう、という問題ですが、その背景として、「障害者を職場に受け入れる」といっておきながら、「自力通勤・自力勤務」といった条件をつけているために、実は非常に限定された人しか受け入れていない、という実態があります。そのために、徳見さん以外にも、働く中で健康状態を害していった人が、職場の中からほうり出されている、そういう実態がいろんな形であるようです。
 日本でも「障害者雇用促進法」があって、たてまえ上は「障害者を職場に受け入れる」といってはいますが、実際には職場に合った障害者しか受け入れようとしない、そういう姿勢があるのではないか。普通に働ける間はいいのですが、一定の条件を満たさなくなると、職場からほうり出してしまう、という発想があるように思います。
 その発想を逆転して、「障害者であっても、障害に合わせた職場を確保していく」そういう方向での権利を確立していく必要があると思います。これは、ある意味では、障害者ではない普通の労働者にとっても、働きやすい職場を作っていくということの延長線上にある問題ではないか、と思います。
 つまり、「労働者にとって働きやすい職場をつくっていく」ということを、結局「いろんなタイプの障害を持った人であっても、それを受け入れて行く職場条件をつくっていく」ということと、同じ平面上で考えていかなくてはいけないのではないでしょうか。
 それと同時に、条件整備をしても、「健常者とおなじレベルでは仕事をできない」というタイプの障害者もいるわけです。そういう人たちをも、同じ平面で受け入れて行く発想がもうひとつ進んだ形で必要になってくるでしょう。
 しかし、ただ単に「いろいろな形で補ってやることで、いわゆる普通の労働者として働けるから、そのための条件整備をすればいい」というだけでは問題は解決しないでしょう。それでは、やはり「労働能力」というものを、一つの決められた基準でのみとらえていき、「そのレベルに到達できるかどうか」という発想になってしまうわけです。
 そうでなくて、一人一人が「自分の個性に合った能力を十分に展開できる」ような、「自分が望むような形で社会に参加できる」ような状況を作って行く必要があるのではないかと思います。そのためには、いろいろと解決しなければいけない問題があると思いますが、今日のシンポジウムで、そういった方向性を一緒に考えていけたら、と思っています。

司会(中宮) それでは、脳性マヒで、今日まで地域で活動し、そして川崎においで、ケアセンターという障害者の施設を開設して地域で闘っている小山さんほうから、最初に提起していただきたいと思います。

小山正義
 私は子どもの頃から脳性マヒと言う障害を持って生きてきたわけです。そういった意味から、本来「障害者が労働をする」ということに、35年間否定をし、障害者運動を行なってきた立場から、「障害者が働くと、障害者が労働すると、どういうことになるか」、そういう立場から問題を提起していきたいのですが、今回の課題でそういう話ができるかどうかわかりませんが、とりあえずお話をして行きたいと思います。
 まず、歴史をさかのぼって労働について考えてみたいと思います。
 人類の文化は大きく分けてふたつに分けられるのではないかと考えるわけです。西洋文化と東洋文化にですね。西洋の文化は牛や馬を追い羊類の家畜を飼い、季節ごとに牧草を追い求めながら生活を維持させる事を主としてきた遊牧民の習性の影響を受けていると考えるのです。
 東洋の文化は田畑を耕し、穀物や野菜などを作り生活をする。その事を維持させてきたのが農耕民文化といっても間違いないだろうと思います。
 遊牧と農耕という形で、労働の質と形も違ってきます。そういうふうに、いずれの文化は自分が生きることに迫られて労働を行ってきた。といっても過言ではありません。
 そういうわけで、労働のあり方は、大きく分けてこの二つに分けられるのということをまず言っておきたいと思います。
 人間のおこなう労働がいろんなふうに規定されるようになったてきたのは、農耕文化の発展の末だということを、私は言いたいのですが、やがて川や海辺に住む人々の手によって、流通や文化の交流が盛んになり世界は発展していくわけで、そして時代が発展していく中で、「私有財産制」というやっかいなものが出てくるわけです。そのへんから、近代労働、つまり労働を提供することによって見返りを得る(賃金労働)ようになっていくわけです。つまり、一人の人間が労働を提供して、その上に立って他の人間が生活して行くわけですから、労働する人は何十倍も苦労をし働くわけです。したがって、使われる人はいっこうに楽にならなりません。「庄屋さんはかなりもうかる」とか、「土地をたくさん持っている人はもうかる」とかいうことになっていきます。
 そのころは、障害者が健全者のように働くなどということはほとんどありません。
 無論、昔むかしも、障害者は存在していました。障害者は(武家社会になる前の話ですが)「神」的な存在になっているわけです。たとえば、農耕文化の当初、竃や囲炉裏の火種をおこすのに持ちいったのは、木と木を擦り合わせ柔らかい枯葉などに移し燃やすと言う大変に時間と労働を要した訳で、一旦、起こした火種は大変貴重なものでした。絶やさないように火種を見守る人がそこには居ました。今でも農村の奥地の農家等の竃の前に祭られている、〈ひょっとこ〉の面を見られる事があります。この<ひょっとこ>が、火を守る人(男)火を守る男=火男=語源が訛って(ひょっとこ)と呼ばれ、(脳性マヒ者だったと推測される)火を守る神として竃などに祭られ、重要視されていた人物のひとりとして存在していたわけです。          田んぼのなかの〈一本足の(カカシ)〉は切断者となります。こうして障害者はその持つ障害の要素要素で重視され、農耕文化の歴史の中に障害者の存在が有ったとされます。 (古事記・広辞苑に書いてあったので、略、間違いないのではないかと思います)
 力と力の争い、権力争いがはじまった頃から、障害者は必然的にじゃまもの扱いになっていきます。
 ということで、現在でも「障害者の抹殺論」というのがあります。その象徴が「優生保護法」です。そのように、法的にも障害者は抹殺されてきた時代は今日でも続いているわけです。
 間もなく戦後50年になりますが、つい14〜5年前ほどから、「社会参加と平等」という国障年の歌い文句であったわけですが、「障害者も社会の一員である」という幻想を持たされて、一生懸命働かされてきました。それは、「養護学校義務化」になってから、いっそうひどくなりました。義務化がはじまってから、神奈川県においても、やたらに地域作業所ができてきました。地域作業所の本当の役割は、養護学校の受け皿なのです。
 つまり、「障害のあるなしにかかわらず、全ての者が学校へ行けるようになった」のですが、その学校を終わってからどうなるか。障害者を一般企業が雇ってくれるわけではありません。そのための受け皿として出てきたのが地域作業所であり、共同作業所なのです その地域作業所・共同作業所で、朝から晩まで、汗水たらして働いている障害者の人たちはどうなっているか。それこそ最低賃金制にもひっかからない、すずめの涙程度の、一か月25日働いても、わずか1500円とか、2 ・3000円位、そんな金額しかもらえない状況に置かれております。ところが、障害者の人たちは、養護学校なり、リハビリテーションの論理などに則って、「働くことはいいことだ、ほら働け」という意識を植えつけられて、そのあげく、送りこまれるのが地域作業所であり、共同作業所である、ということです。 そんなわけで、地域作業所や共同作業所などは、障害者が生きる保障としてはなってない状態に置かれているのが実態です。
 たとえば、私のところに。先日相談にきた人は、ダンボール会社に勤めていて、一生懸命働いているが、もらっている賃金はわずか15万であるといいます。しかも。2〜3年、経っています。ところで、12万というと、生活保護や障害者基礎年金を受けている人、私もその一人に等しいですが、障害者基礎年金2級で平均、月7万と、そのうえ、生保を受ければ、12万くらいはもらえるわけです。考えてみると汗水流して働いていても12万、のんびり生きても12万という感じになるわけです。
 障害者というのは、まだまだ、健全者から遥か彼方におかれているのが、障害者の労働の現場であるわけです。
 そのように障害者は、割の合わない条件におかれているということで、私は35年間「青い芝の会」で運動の中で主張して来ました。「障害者は働かない方が良い」というのです「障害者が働くとろくな目に合わない」と35年間言い続けてきました。
 「仕事」と「働く」と「労働」という言葉があります。「仕事」というのは、本来(江戸時代の話になりますが)「職人芸」なのです。「金になってもならなくても、自分のやる仕事は他の人よりすぐれている」職人というのは、そういう意識を持って「仕事」をしていました。「働く」というのは、語源の通りで、「自分は汗水たらして、はたを楽にする」ということです。「労働」とは「賃金労働」で、いわば「奴隷的労働」であります。 そういう事で、障害者が働くということは、障害者が労働をするということは、必ずしもいい結果をもたらさないということで、私の提言を終わります。

司会 続いて、横浜市の歯科衛生士で、さきほど森田さんのお話にもありましたように、今裁判闘争を闘いながら、現職復帰、介護者つき復帰を闘っている徳見さんのほうから提起していただきたいと思います。

徳見康子
 小山さんから、障害者が働くということに対して批判がありました。確かにそうです。ただ、私は、「障害者であることをもって、社会から排除してはならない」「障害者であるからといって、生きていけないような状況を作ってはならない」ということを、あたりまえの要求として、闘っております。
 私が職業病(頚腕症)になって、すでに15年ちかくたちます。職業病になってから、職場の中で、「私の体の状態に合わせて、仕事量を減らし、仕事の中身を変えていってほしい」ということを、10年間、自分の治療と共にやりつづけてきました。
 職業病の治療を10年間やったあとに、頚(くび)の脊髄の萎縮がおこりました。歩くのがだんだんもどかしくなってきました。そのうち、筋肉の萎縮が出てきて、それが頚の脊髄の萎縮によるものだということで、頚の手術を受けました。そして病院でのリハビリを終えて、「職場復帰に向けてのリハビリのためには、集中的な訓練が必要だ」ということで、自宅近くの横浜リハセンターにまわされました。
 私が、勤務している職場は、横浜市学校保健会といい、教育委員会の外郭団体です。そのころの私の上司の何人かは、トントンと出世し、市の中枢部に行き、そして定年後は、私の転倒事故があった横浜リハセンターのかなりトップ的なところに、天下りしております。
 そういう意味で、私が職場でどんなことをやってきた人間なのか、そして、どんなことを仕事の中で改革していったのか、すべて分かっているわけです。そんなリハセンターというゾーンに、「職場復帰のためのリハビリ」に行きました。
 さきほど小山さんのほうから、リハビリ批判が出されましたが、横浜市の福祉の中枢機関である横浜リハセンターのリハビリは、障害者として自立して生きるための術(すべ)あるいはそのための訓練・指導とは全くかけ離れた中身でした。
 行政や社会にとっては、「人間として生きるに必要な基本的なことは、一人で食事ができ、トイレやおふろにはいることができ、どこかへちょっとだけ行けることであり、それができないものは、他のことをするに値しない」ということを、リハセンターは教育します。そして最後のふるい分け(作業所行き、授産所行き、職場確保努力型、原職復帰、これらすべてができない人は在宅……などというランク分け)をするだけなのです。
 さて、リハセンターに通う前の私は、ロフストランドという杖2本と、足を固定する装具はめて、移動していました。そして、車の運転をしていました。
 ただし、職場復帰には、非常に困ることがありました。それは、私が歯科衛生士として、歯科指導で使う道具――今日、ここに、みなさんにはグロテスクに見えるかもしれませんが、学校での歯科指導に使う大きな歯の模型と歯ブラシをもってきました。この歯の模型と歯ブラシ、これを立ったまま両手で持って使いこなすことができません。
 みなさんがほとんど右利きだと想定して、私が歯ブラシを持ちます。向かい合わせですから、私は歯ブラシを左手に持ち、歯の模型を右手に持ちます。さて、みなさんに見えるようにするには、両手を伸ばして、こうして頭の上にかざします。このくらいの位置です。このくらいの位置で、両方の手で作業しないと、後ろのほうの生徒には見えません。
 このくらいの高さで両手を伸ばして歯のみがきかたを、「こんなふうにやっちゃいけないよ、少なくとも、こうやったり、こうやったり、歯の抜けてるところはこうやってやろうね」というふうに指導します。
 頚の脊髄の萎縮が始まってからは、作業する左手で歯ブラシを持つとふるえます。だから、いろんな作業ができません。歯みがきの指導をするときは、20分くらい、腕を上げっぱなしになります。今は、このくらいの状態ですが、もう少しすると、震えがきて、手を挙げていられなくなり、たぶん歯ブラシをつかんでいることができず、作業もできなくなります。
 また、これくらいの高さで手を伸ばしてやりつづけるためには、ずっと立ち続けなければなりせん。しかも両手に、杖をもっているので、作業はできません。
 さて、これはどうしたものか、歯科衛生士として、私は困りました。悩みました。そこで、リハセンターに相談しました。職業リハビリの私から望む指導なりポイントがほしかったのです。今考えると、たいして難しいことではありません。「自助具」や作業台を使ったり、生徒がカーペットに座ったりすれば、見えるわけです。
 しかし、リハセンターのOTの人たちの判断は、「徳見さんは左手を、健常者に近い筋力になる訓練を望んでいるのだ」という価値観になります。「あなたの障害を受容するために」というはっきりした言い方はしませんでしたが、リハセンターでやられたことは、「何メートルを何分で歩けるか」とか「何周歩けるか」「何周でダウンするか」「階段は何往復できるか」。そして、「車イスで歩かせてみたら、1周めは何分何秒だった。杖を1本にしてみたら何分何秒だった」。様々な条件でのデータを集めるのでした。
 データがある程度そろってから、本格的に、私の職場復帰に向けての(さきほど実演した)作業をどうするのか、というポイントにはいるのだろうか、と思ったら、その後のリハビリ期間のプログラムは、「おしっこ・うんこ・おふろの動作確認を自宅でする」などというような内容でした。
 「動作を確認することがリハビリなのか」ということで抗議し続けること3週間、その最中に、リハビリの道具が転がり落ちてきて、今の車イス状態になりました。
 今の状態になって、また生活形態が、全部大きく変わりました。今まで自力でどこへでも行けた状態から、今は自分で車イスをこいで移動することもほとんどできません。「それではどうしたらいいんだ」ということで、これは障害者にとって、当然のことかもしれませんが、健常者をオルグして(頼んで)自分のまわりに、介助人というという形で、何人かに、自分の生活の介助を頼みました。そして、介助者つきを、あたりまえの状態として、生活しております。
 私にとっては、介助者は家族でなくてもいいのです。町の通行人であってもいいし、職場の管理職でもいい。そして、学校へ行ったときには、小学校の生徒でもいいのです。私を介助してくれる、というか、あたりまえに、いろんな障害があったり、いろんな個性があったり、また私みたいな者がいてもいい。いろんな者がいてあたりまえ、そしていろんな介助者がついている障害者の生活もあたりまえ、という形で、職場のほうに介助者つきの職場復帰要求を出しています。
 ところが、横浜市の外郭団体ですから、横浜市の施策にのっとった形で、すべて事がはこばれます。もともと障害者が採用されるときに、「自力通勤」――自分で職場まで自分一人で向かうことができる能力。そして「自力勤務」――自分一人で勤務する能力、これが採用条件になっています。
 この採用条件も、非常に差別的なことで、横浜市の市労連段階で当局に対して、ずっと交渉しているところですが、この「採用するときの条件」を、私の首切りの条件にもってきたのです。
 会社に就職するときには、採用時の年令制限があります。何歳から何歳まで、と。そして、いろんな条件があります。「その条件に合わなくなったから、あなたは首切りだよ」という攻撃は、健常者の場合にはありません(定年制という形ではありますが)。しかし中途障害者である私の場合は、障害者の採用条件をもって解雇をしようとするのです。
 何度かの当局との交渉の中で、それだけの理由での解雇は不可能と考えたのか、最近はそれ以外に、解雇の理由をいろいろ具体的にあげてきました。たとえば、「徳見さんは車イスだから、立って、両手を挙げて子どもの口の中を開くことはできない」――立てないから車イスなのです。でも車イスであってはいけない、というのもおかしいと思います。
 また、両手を挙げて(さっきの大きな歯の模型と歯ブラシを出しました)検査できないからダメだ、といいます。歯磨き指導だけではなくて、子どもの口の中を検査するときも、両手を挙げます。くちびるを親指で押し開いて、こうやって見ます。私は、右手はできますが、左手はくちびるを押し開くことはできません。
 作業できる手が1本だからいけない、というのです。くちびるを広げるのに倍かかります。しかし、倍かかったっていい、3倍かかったっていい……それだけきちんと見ることができると私は思っています。そして、何も立ったりして検査しなくてもいい。子どもと私が、両方で座って検査することだってできます。そういうことも、当局は何も考えません。
 それが何なのか、なぜなのか、と考えてきました。考えていく末に、やっぱり「障害者はこの世の中(健常者の社会)の中に、いること自体を、行政がいやがっているのではないか」。それが分かってきたのです。
 私の職場は、横浜市の教育委員会の外郭団体ですが、教育委員会の障害者締め出しの仕事の一つに、就学時健康診断というのがあります。名目は、「健康状態の早期発見・早期治療、早めにその人の身体の状態の悪いところを見つけるんだよ、それを平等にクラス分けをするために割り当てる、そのための検診なんだよ」と教育委員会は言います。実質は、障害者排除・隔離・選別のための検診だとは言いません。
 養護学校義務化がされて、そして横浜では、養教センターというものが教育委員会の中にあります。そして小学校にあがる前の障害児たちは、横浜のリハセンターの療育部門に送られます(リハセンターが拡大して、横浜市内に何個所かに療育部門ができました。さらに増えつづけています)。小学校にあがる前から、「あなたの子どもは、養護学校に行く対象です。あたりまえの地域に生きる人間ではありません」と、横浜市の施策の中で、親たちは教育されます。
 そして、小学校へあがるときに、わさわざ遠くはなれた、1時間半もかかる養護学校に行かされます。あたりまえに、地域で、地域の小学校に行くためには、大きな闘いが必要になっている現実があります。それら選別・分断・排除を強制しているのが、教育委員会なのです。私の直接の職場は、その外郭団体である横浜市学校保健会であり、「早期発見・早期治療」に基づく予防歯科の仕事をしております。
 そして、その仕事の中で職業病になり、そして現在は障害をもって生きている……それは私自身隠す必要はないと思っています。隠しようもないことです。しかし、早期発見・早期治療の仕事をする職場にとっては、こういう者がいたら、きっとまずいのでしょう。これはあくまでも私の想像ですが……。
 そして、職業病闘争のころからずっと感じてきたことですが、労働の状況は、社会の状況によって合理化させられてきます。それとの対峙の中で、労働組合と当局との闘いがあります。横浜市においては(それはどこの民間の会社でもそうだと思うのですが)ますます合理化が非常にきつくなってきました。その中で職業病になったり、精神病になったりする仲間たち、そしてけがをする仲間たちがたくさん出てきました。
 そのとき、障害者があたりまえに職場に残り続けたとしたら……、しかも、健常者並みの労働能力を全然もたない障害者を解雇しなかったら、職場の合理化は進められないのです。だから、私みたいな障害の者が、「どうしても働き続ける」と言ったときに、「いいですよ」という条件と状況を作ってしまったら、労働者の合理化をどんどん進めることはできません。結局、「こんな障害者が存在しては困るのだ」という状況があるのです。
 しかし、「私のありのままの状態で仕事を考えていってほしい、仕事をつくり変えること自体があたりまえの権利なのだ」と要求し、自力通勤・自力勤務できない状況でも、自分から退職はしません。そのことが、健常者の労働強化の一つのくさびになるのではないか、と私自身思っているのです。
 そういう意味で、私は現場に踏みとどまって、あたりまえに、ずうずうしく、生き残って、中で闘っていきたいと思います。そして横浜市の中で、障害者の政策そのもの、障害者の隔離・選別・分断・排除という形の状況に対して、中で闘って行きたいと思っています。
 これからも、私の解雇攻撃への闘いに、よろしくご支援のほどお願いいたします。

司会
 徳見さんの問題は、対当局との関係で、いま言われたような状況がせまっておりますので、これからも注目していただきたいと思います。
 つぎに、兵庫の芦屋で、高見さんが(この人は職業病から精神障害になった方ですが)郵政省を解雇されて、その問題で闘っています。それを共に闘っている神矢さんからその闘いの報告をしていただきたいと思います。

神矢
 「高見さんを支える会」が兵庫県の芦屋を中心に活動しています。今日はその「代理」として、高見さんからも、「よろしく」と言われています。どこまで「代理」できるか分かりませんが……。
 ぼく自身のことをちょっと言います。昔、14年ぐらい前になりますが、1978年の暮れから、1月にかけて、約2か月間、全国の郵便局で「反マル生闘争」という大闘争があって通常郵便はもちろん、年賀状もほとんど配られず、そのため、お年玉の抽選日が1月15日なのですが、これが31日までずれ込んでしまう、ということがありました。
 組合つぶしのために、郵政省がかなり攻撃をかけてきて、「職場に職員はいても、組合員はいない」「組合員から反動と呼ばれて、一人前の管理者だ」という労務政策があって、それに抵抗して全国で闘って、1979年の4月28日、いわゆる4.28処分ということで、ぼくは懲戒免職になりました。懲戒免職を受けたのはたくさんいまして、そのときは、解雇3名、懲戒免職は58名。ぼくは品川区の大崎郵便局というところで、50人くらいの集配の職場ですが、そこだけでも懲戒免職が2名、停職12か月が5名などと、めちゃくちゃにやられて、今、解雇撤回闘争をやっています。
 全逓が連合にはいったために、「労使一体に、反処分闘争は邪魔」という理由で、3年前に、その全逓からも切られて、自力でがんばっています。その中で、高見さんの闘いと知り合いました。
 高見さんの話に移ります。高見さんの病気は「抑鬱(よくうつ)状態」といいます。
 郵便局には、いろんな仕事があって、郵便課の人は、ポストから集めてくる郵便物を、郵袋(ゆうたい・郵便物を入れる袋)に入れ、これをまた郵便車に積みこむ作業をするのですが、これが、1袋20〜30キログラムぐらいの重さです。これを組合では減量するようにやっているのですが、袋の数が少ないほうが効率がいいために、どんどん詰めこんでしまうのです。それで、腰痛になったりします。
 ぼくらは郵便配達の仕事ですが、自分の配達する地域では、だいたい2000通から3000通ですが、時には4000通ということもあります。ビル街では5000通、6000通の郵便物を受け持つこともあって、その区分作業が大変です。その中で、いわゆる「頚腕(けいわん)症」といって、郵便物を持っている左手のほうに、しびれが出てきたり……。また、たとえば、最近、郵便物も大型化してきて、両手で持たなくてはいけないようなものとか、すべりやすい郵便物がたくさんでてきています。すごく腕に負担がかかるのです。
 したがって、郵便局の場合は、頚腕症、頚肩腕(けいけんわん)症、それから腰痛が、必ずどこの郵便局でも何名もいます。高見さんはバイクの振動病で腰痛になりました。
 頚腕・腰痛症というのは、症状の進行の程度によって、第1度から第5度まであって、第4度あたりになると、自立神経失調症という形で発症してくるのです。そして、第5度で抑欝状態になります。これは、腰痛でもそうですが、夜、腰が痛くて寝ていられないとか、頚腕の場合だと、夜寝ていて、腕を使わないようにしていても、無意識のうちに、ふとんを持ち上げたりして、痛みが強くなったりします。子どもや赤んぼうなどを持ち上げたときに、さらに腰痛や頚腕が悪化したりして、結局、なかなか眠れないという状況が続きます。
 また、職場の中で、労働強化がすさまじい勢いで、今、進んでいます。郵便課(郵便内務)の人では、郵便の到着が夜に集中するため、16時間勤務がやられています。夕方の5時から朝の9時くらいまで……。それをやると、間に仮眠時間があったり、次の日は「明け番」というのがあったのですが、「それでは効率が悪い」ということで、2つの勤務を続けてやります。5時から夜中の12時まで、その後、2時間だけ職場に拘束して、仮眠を取らせるが、賃金は払わない。そして夜中の2時からまた8時間働かされるのです。
 最近は。一軒家がつぶされて、マンションがどんどん建っているために、郵便物がこの10年間で約1.5倍になっています。それなのに人手はむしろ減っているという状態ですから、頚腕や腰痛などで、病休をとろうとしても、仕事に穴があいてしまうので、まわりの組合員もそうなのですが、迷惑がるのです。そういう風潮があります。頚腕にしても腰痛にしても「なまけ病」じゃないか、とみるような雰囲気があって休みづらいのです。
 そういうわけで、やっと診断書をもらって6割勤務をやっても、それすらきついとか、まわりに迷惑をかけている、という意識があって、精神的にまいってくるのです。「自分は本当に職場にもどれるのだろうか」とか、いろんな悩みが出てきて(もちろん痛みもあ」がって、そのため、夜眠れなくなって、夜と昼の逆転がおきます。身体のなかに「体内時計」があるのですが、それが完全に破壊されてしまいます。
 夜眠れない、明け方になって、やっと眠れて、昼働けない……そういう状態が続いて、これが抑鬱状態に発展していきます。高見さんの場合は、入局したのが77年ころで、それから3年間くらい仕事をしているうちに、そういう状態になりました。それで、結局、休職にはいるわけです。
 休職といっても、とびとびに休んだのですが、郵政省のほうは、とびとびで休んでも、同じ病気で休んだ場合は、それを休職という扱いにします。賃金は6割給付です、それが合計3か月になりますと、「休職処分」というのが発令されるのです。
 そこから3年たったら、徳見さんの場合は「休職任期満了」で、いまは欠勤ということですが、郵便局の場合は、信じられないことに、休職期間が3年間過ぎると、退職しなければいけないというのです。労使共にそういう感覚をもっていて、3年間の休職期間が切れた段階で、局を辞めていく、というのが通例だというのです。休職3年間で辞めた人は、本当に膨大な数がいるわけです。
 高見さんの場合も郵政省は、都合2回の休職処分の発令のあと、そういうふうに数え上げて、「3年間たったから」というのです。「自分は働き続けたいのだ」と要求したときに、91年に免職処分を出してきたのです。そのあと、すぐに高見さんは、人事院に提訴して争ったのですが、その段階で、郵政省は、「条文をよく調べてみたら、3年たったら、休職を解いて職場に戻さなくてはいけなかった」「障害者を免職にするには、2名の医師の診断書が必要だが、それがなかった」といって、処分を自ら撤回をしたのです。
 撤回はしたものの、郵政省では、頚腕・腰痛からはじまる抑鬱状態、「精神病者」がどんどん生まれてきていて、その人たちを排除して若い労働力を雇っていかなくてはいけない、という差別構造というか、雇用事情があるために、やはり高見さんをクビにしなければいけないのです。どうしたらクビにできるか、ということで、「差別欠格条項」が出てくるのです。
 差別欠格条項というのは、「障害者が就いてはいけない職業」というものがあって、それが 430くらいあります。国家公務員法ももちろんそうです。ボイラーの資格でも、特級と1級の資格は、精神障害者は、とることができないし、クレーンの運転手の免許をとることができません。また、労働者が「武器」にしているような「労働安全衛生法」というのがあります。職場環境を良くするために、職場で「労働安全委員会」をつくり、ぼくらも使ったりするのですが、その労働安全衛生法あるいは労働安全規則の中にさえ、次のような条文があるのです。「精神障害のために、現に自身を傷つけ、または他人に害を与えるおそれのあるものは、職場で就業を禁止しなければならない」というのです。
 「欠格条項」というのは、精神障害者を職場から排除していく規定であって、それに引っかけて、高見さんを職場から放逐・排除していこうとしました。そのために、彼が「精神病者である」という診断をとるために、彼がかかっている主治医ではなくて、「郵政省の指定する医者の診断を受けよ」という業務命令を出しました。「2名の医師の診断があれば、免職にすることができる」という規定が人事規則の中にあるのです。
 しかし、高見さんの主治医も人事院で証言したように、医師と病者との間に信頼関係があってはじめて、治療が前に進んでいくわけですし、クビきるために新たな医師を選択せよ、などというのは、医療以前の問題なのです。
 当然彼は拒否をします。すると、さらに「業務命令です」として、それを4回くり返したとき、「業務命令に従わないから、懲戒免職処分に処す」ということで、昨年(92年)の9月に免職処分が発令されたのです。
 今年はじめて、人事院で公平審査をやりました。その中で、彼の職場の芦屋郵便局の組合の支部長も証言に立って、芦屋の郵便局の中でも、たとえば足に障害のある人を貯金課に強制配転して(貯金課というのは足を使っていろんなところに募集に行くのですが)退職に追いこんでいった事実、あるいは「職務軽減が必要」と医者からも言われている頚肩腕症の人が、業務命令の中で 100パーセントの労働を強制されている事実、また頚肩腕症の後やっと職場復帰した女性を、深夜帯の労働に入れ込んでしまっている事実、さらに去年ですが、自殺者も出ている事実などを証言しました。支部長自身も、腰痛・頚肩腕症の中で苦しみながら、職場から追い出されることがいやで、6割勤務を職場に申し出ることができない状況だ、と語りました。
 高見さんの主治医も、「郵政省が新たな医者にかかれということ自体が、障害者を排除する以外の何ものでもないし、許せないことだ」と述べています。
 ぼくらやはり、徳見さんもそうだし、高見さんもそうだと思いますが、実際に職場に戻っていくことを通して、郵政省あるいは自治体などが、「障害者を職場から排除することによって成り立っているのが、今の労務管理あるいは労働実態なのだ」「高見闘争は職業病・公務災害からはじまった、まぎれもない職場課題なのだ」ということを突き出していけるのではないかと思います。
 そういうことで、高見さんの闘いと共に、徳見さんの闘いについても、本当に勝っていく闘いとしてやっていきたいと思っています。

                  討論
司会
 3人のパネラーの方から、それぞれの現状、闘いを報告していただきました。今日の趣旨は、中途障害者の労働問題を中心にすえましたが、それに留まらず、小山さんからは、「青い芝の会は、今日まで、障害者が労働をすれば、必然的に差別・分断を招く」ということで、青い芝のテーゼとしてはそのようにずっと考えてきた、という報告がありましたし、あとお二人の方からは、現状の労働現場の厳しい状況が、障害者にとってどういう状況なのか、という報告があったと思います。
 会場の方からのさまざまな意見を受けて、論議していきたいと思います。

根本
 横浜市の中福祉事務所で働いている根本と申します。とくにまとまって話しができるという感じではありませんが、いつも私が思っていること、お話しを聞く中で気づかされたことなどを、とりあえず少し話させていただきたいと思います。
 今、徳見さんのお話などを聞いて思うのですが、会社などでは労働を提供するということだけではなく、ある人が全人格的に職場に合致していくように、雇用関係の中で要求されてしまっている、そのような社会的な関係になっているんだということを、改めて気づかされています。
 といいますのは、たとえば、徳見さんのお話に歯科衛生士の仕事のことがありました。そう言えば「僕も小さいときに、歯科衛生士の人から話を聞いたことがあるなぁ」って思い出しました。自分が話しを聞く子供の方の目で、歯科衛生士の仕事のことを考えてみれば、徳見さんが話されたマニュアル化した強制されたやり方ではなくとも、たとえば徳見さんが車イスならば、子どもたちの教室に入り「みんなこっちへ寄ってらっしゃいよ」って言って、子どもたちに前にきてもらい一緒にフロアーに座りながら話せば、徳見さんが手を上に高く挙げなくとも子どもたちに見えるわけです。それに模型の歯を立て掛ける道具を用意すれば、十分歯科衛生士の仕事がやれるのではないかと思うのです。
 そもそも「歯を磨くということは、どういうことなのか」ということにもいろいろ考えなければならないことがあると思うのです。子どもたちは「日常生活の中での歯」ということや「歯の意味」とかそのような全体を理解していく中で、結果として家でも歯をうまく磨けたり、上手にやれたりと、一人一人がなっていけばいいわけではないでしょうか。子どもたちの全体的な成長を考えて、そのなかで歯のことを考える、歯を磨くことを考えるとすれば、実はそれこそ歯科衛生士の仕事であるような気がするのですけど、教室式に座って聞く、立って説明するみたいな形式的なことは、ある場合にはぶち壊したっていいわけです。徳見さんが車イスで話しているうちに、それを聞いている子どもたちから「どうして車イスに乗っているの」という話しが出て、そこから話しが広がるとしたら、子どもたちの全体的な成長という観点からすればむしろ願ってもないことではないでしょうか。
 ですから、僕には徳見さんが車イスのままで、いま徳見さんがやれる方法で歯科衛生士の仕事を行うことに何の問題もないように見えるのです。
 ところが、子どもたちは、机の前に座ってちゃんとお話を聞くという「学校の中の子ども」であることを要求されています。自分の実生活に跳ね返して体験していくということではなくて、「ともかく聞く」という関係を、そういったことが生徒の役割であると強いられているわけです。そしてまた、歯科衛生士さんの役割というのも、ともかく型にはまった「キチッと立ってやること」といった、会社、組織が雇っている中で位置づけられ、序列づけられたものがあると思うのです。
 つまり、その歯科衛生士さんと子どもたちとの出会い方のなかには、一人ひとりが「何を学びあっていけるのか」「自分の生活を豊かにできるのか」ということと、ぜんぜん関係のない、学校と会社の組織のありようがガチッとあってそれが前面に出ていると思うわけです。
 やはり、神矢さんのお話しの中での高見さんのことや、今の全逓職場の話しも、「ひどいなぁ」と思います。そこで労働者が要求されているのは「合理化」などという次元の話しではなくて、「精神」をも含めて企業に捧げ尽くすということです。そこのしんどさをのりこえてやっているのが管理職だし、やっていこうとするのが管理職になろうとしている労働者であるといった秩序が組織の中にあるような気がします。つまり、組織と個人の関係が非常にアンフェアな関係にあって、企業が個人を一方的に吸い尽くすような感じを持っています。
 そのようなことを改めて感じましたし、障害者の労働という問題を考えるときに一つの大きなテーマになるのではないかと思っています。

徳見 
 さっき職場の話をしましたが、私が今の介助者つきの生活をする前、杖2本と装具をつけて生活していた時期の、当局に対する要求の一つに関して述べたいと思います。
 私の歯科衛生士としての指導や検査にまわる対象は、一般の小学校だけです。教育委員会は、自ら障害児を養護学校に集めておきながら、養護学校は歯科保健指導の対象外の学校です。希望のチラシもまかないのです(歯科保健指導は、学校へ募集のチラシを配布し学校が希望を出すことによっておこなわれます)。
 それと、一般の学校の中で、養護学級という枠のなかに障害児が入れられているところが多いのですが、「養護学級は歯科保健指導をやらなくてもいいよ」という学校がたくさんあります(なぜか私の担当している学校ではそれがありません)。いま、横浜では、集めて、分離して、選別して、隔離しておきながら、障害児は歯科保健指導の対象ではありません。
 それで、私は、そこで「集めていること」そのものへの批判とは別に、「何で障害児に歯科保健指導を受ける権利がないのか」と追求しました。養護学校の、たとえば障害児の親や本人が、「歯の指導を受けたい。歯磨きを一緒にしたい」と言っても、「それは対象ではありせん」ということで、希望の用紙も配られません。
 養護学校や養護学級にも、他の学校と同様に、歯科保健指導が受けられるように(これは「権利」なのか。行政がやるのだから、押し付けになってしまうのかもしれません)、募集をすべきです。
 私は、こういう身体の状態になる前から、「何でそこも対象にしないのだ、みんなと同じ格好で、同じスピードでやれないからこそいろんな方法を考えようとしています。だから、私にそこでの指導をやらさせてほしい」と言ったら、「それは教育委員会としては考えておりません。そういう対象としてみておりません」ということでした。

相田
 「リハビリを考える会」の相田です。パネラーの皆さんの発言を通して、今の労働現場の実態、あるいは小山さんのほうから、「障害者にとって労働とは何か」という非常に根本的な視点を提起されていると思うのですが、小山さんの提起を踏まえながら、言いたいと思います。
 ここに横浜市が出している『勤労横浜』という雑誌がありますので、読んでみました。現在の障害者の人口動向、就労実態が、簡単に数字で出ているのですが、身体障害者の方が約 270万、精神薄弱者が25万、精神障害者が 108万となっています。これは3年前の統計ですが……。そのうち、実に70万人の身体障害者が就労しています。精神薄弱児は、これは関東ですが、約10万人となっています。精神障害者のほうは、統計がどうも出ていないのです。
 労働現場の実態というのは、実に70万という規模で、就労が強制されているわけです。ところが、就労のパーセンテージですが、ほとんど頭打ちで、これ以上増えないのが現状です。
 この資料を見ましても、企業に対する障害者の雇用促進のキャンペーンがはられてますし、1.6 パーセント条項ですか(障害者が1.6 パーセント雇用されていないと、罰金をとるわけですが)、そういうことをやっても、ほとんど頭打ちであるという状況が出ているわけです。
 それに対して、「総合的な職業リハビリのさらなる強化」という方針を、この『勤労横浜』の文章でも述べています。「なぜ就労がふえないのか」という理由を、「リハビリがまだ不十分である」といい、ノーマライゼーションという言葉をときどき使っているのですが、その意味よく理解しないで、「日本の場合には、職業リハビリテーションをもっと総合的にやらなくてはいけない」ということで、問題がたてられているのです。その一環として、職域の開発の問題とか、徳見さんのほうからの介助人制度(ジョブ制度みたいなものになると思うのですが)とか、さまざまな諸制度を提起しているのですが、結局のところ、リハビリテーションの観点からいろんな制度を作っても、今の障害者の就労のパーセンテージはあがるとは思えないのです。
 根本的には、障害者の能力を賃労働というかたちで引き出すわけですが、そこの考えが根本的に変わらない限り、障害者の就労が増えることは、絶対にないのではないか、という気がします。徳見さんや高見さんもそうだと思うのですが、中途障害者が膨大に生まれてきているのですが、一方で、職場から生まれてきている中途障害者をどんどん排除しています。
 これが進行している中では、そうでなくても賃労働から外れている障害者が、雇用されるなどということはありえないわけです。
 ここで、発想の転換か必要になるわけです。小山さんが冒頭に提起された「障害者に対して〈仕事と賃労働〉あるいは能力を要求すること自体が、根本的に間違っている」というところから、やはり出発すべきなのではないか、と思うのです。
 そういう意味で、当局との交渉の中で、「障害者もいろんな能力がある。こういう時間働けるのだ」ということで、要求するということは必要だとは思うのですが、しかし、根本的には、中途障害の場合は(高見さんの精神障害にしても)、労働者の責任ではないわけです。結局資本の側が作り出したものですから、労働者には一切責任はないわけです。「中途障害になった労働者がどういう能力を持っているのか」「今後仕事を続けられるか」という争いではなくて、資本が作り出した中途障害に対しては、資本が責任をとらなくてはいけないのです。だから、当然解雇してはいけないし、解雇する権利はないのだということで、問題をたてなくてはいけないのではないかと思います。
 実際に交渉の場では、「中途障害者や精神障害者が、どういう能力があるのか」というところで、争いになってしまうわけですが、そこを労働者の側が乗り越えることが必要なのです。
 たとえば横浜市では、道路掃除など、集団で脳性マヒの人やダウン症の人など、そういった方も含めて、組織的にやっていますが、そういう仕事を、若いうちに、健常者並みに強制していくと、ほとんど30代、40代で二次障害が進行してしまって、すりつぶされてしまうのです。そういう意味で、雇用率が何パーセントという数字などは、ほとんど無意味なわけです。数年の強労働を強いられて、障害者自身が、障害が悪化して、結局排除されていくという結果になるのです。
 そういう意味で、絶対に雇用のパーセンテージが上がるということはないのです。「障害者がどういう労働能力を提供できるのか」ということには関係なく、「障害者が職場にいなくてはいけない」、あるいは「社会にいなくてはいけない」ということを、労働者の側が資本に対して提起できるのか、あるいは運動として作れるのかということが、根本的に必要になるのではないか、と思うのです。
 そういう意味では、小山さんの言う「障害者をなぜ働かせるのか」という、これは「青い芝の会」の提起ですが、障害者が仕事をすることを否定しているのではなくて、健常者の側が、障害者に賃労働あるいはそうした労働を要求する必要はないのであり、そういう人が職場にいていいのだということなのです。
 そこの意識の転換を、ぼくら、労働組合なり労働者に接する中で、どこまで運動化できるかということが、要(かなめ)になるのではないか、という気がするのです。労働運動というのは未経験なので分からないのですが、いわゆる「ノーワーク・ノーペイ(働かなければ給料をもらえない)」、実際いま、徳見さんは給料が出ていないために、非常に深刻な事態だと思うのですが、そのノーワーク・ノーペイを、障害者あるいは中途障害者に、労働者の側が適用しているのではないか、資本との関係の中でも、そこでの話にしか留まっていないではないか、という感じがします。
 その辺のことが、この場で話ができればいいと思います。

小山
 私の言ったことは、誤解を招くことが多々あると思います。今の障害者の置かれている現状は、健全者が働く条件のもとで労働そのものがある状況の中で、それに対して、障害者が合わせなければ雇用につながらない、といった実態があります。
 交通事故その他で、途中で障害を抱えた人は、今まで働いてきたわけです。
 やはり、今後も働きたいわけです。そういう人については、私たちは、何も否定はしていません。
 ところが、そういった中途障害者の思いを断ち切っていったのが、労働現場であり、皆さん、健全者を始めとした労働者の皆さんです。
 こういう、健全者だけが働けるような労働の条件を変えていかなければいけない。
 つまり、社会が障害者のほうに合わせていかなければいけないのです。労働もその一つです。「障害者に合った労働をやってもらう」ということが必要なのですが、現状はそうではありません。「障害者雇用」といううたい文句はありますが、現実の労働の現場は、すべて健全者しか、働けないようになっています。ですから、片手のない人が、片手がないままで働けるかというと、それは不可能です。すべて健全者に合わせて、労働現場があるわけです。そういった状況が変わらなければいけないのです。

伊藤
 川崎市職労の伊藤といいます。視覚障害の労働者という立場と、視覚障害者雇用運動をやっている立場で、あまりちゃんとまとまらないのですが、述べさせていただきたいと思います。
 先ほどから、「労働能力」をどう考えるかということがでていますが、実感として、やはり「能力があるから雇用しろ」というのではなくて、「障害者を排除しているような職場とか労働現場をどうするのか」という立てかたをしないと進まないのではないかと思うのです。
 5〜6年前くらいまでの視覚障害者の雇用運動は、とくに視覚障害者の場合は、あんま・ハリ・キュウという職種があったのですが、それを離れたところでの雇用事情ということになると、たとえばワープロやパソコンが使えるようになったり、音声合成装置をつけて、そこそこ文章を書けるようになったわけですが、「そういうものがあって、文章を書けるのだから雇用しなさい」と言ってきたわけです。
 ところが、実際労働現場にはいって、最近のハイテク関係の技術革新をみると、やっぱり、どうあがいても、視覚障害者がそういうものを使っても、健全者に比べれば能率が落ちるものです。
 合理化・スピード重視の労働現場で、そういうものを使っていくとなると、ハンディがあって、排除ということにつながってきます。
 そして、どのシステムを使うかによって、仕事の内容にできないところがでてくるという現状があるわけです。そこで最近は、ヒューマン・アシスタント、先ほど言われた「介助者つきの雇用を進めていくべきだ」という動きが出ていて、労働省でも、これは民間企業の例ですが、「事務的職種で働く視覚障害者の場合、10年に限ってアシスタントをつける補助金を出しましょう」という政策が組まれております。
 しかし、アシスタントをつけるというのは、企業にとっては、合理化という点からは賛成できないわけで、それをどうして雇用させるかといったら、やはり、「障害者が職場にいなければおかしいのだ」と言っていくしかないのではないか、と思うのです。
 障害者の側から「雇用」をどう考えるか、ということですが、私も含めて、学校を卒業して就職したいと思ったときに、健常者はみんな就職していくのです。「独自な生き方があるのではないか」と言われればそれまでですが、やはり「同世代の人が多く働いている社会の中で、同じように働きたい」というのが、自然の要求ではないか、という感じがして、やっています。
 「労働運動の中での障害者の位置」についてですが、とくに最近では、賃上げ闘争といったことが議題になっていて、どうしても「障害者を仲間として迎え入れる」ということに関する取り組みが弱いのではないか、という気がしています。
 それがなぜなのか、よく分からないのですが、健常者である労働者の日常的な要求が「給料」であるのは分かるのですが、「障害者を迎え入れる」ためには、やはり「労働のあり方」そのものを問う労働の合理化の現状を問い直すという動きが必要です。「そういう問題をどう考えたらよいのか」といういう問いかけが、今の組合運動では弱くなっているのではないか、という気がします。
 労働組合として、そういう労働問題について、あるいは「障害者を仲間として迎え入れていくことについて、取り組みが弱いのではないか」ということなどについて、もし、実践報告などありましたら、よろしくおねがいします。

司会
 いま、さまざまな意見が出ました。司会ではありますが、発言させていただきたいと思います。
 89年前後に「東欧の崩壊」という事態がありました。いわゆる「左翼」の人間は、マルクス主義をかじっていたか、影響をうけていたと思います。その中で、「〈労働〉がどういう位置をしめていたのか」ということを、ちょっと考えてみました。たとえば「剰余価値は労働が生み出す」とか「社会参加のもっとも根源的なものは労働である」というように、「労働がきわめて、社会生活の中で大きな位置をもっている」といわれてきました。しかし、いま、時間短縮の問題があり、また、比較的労働者の占めるパーセンテージが、第一次産業・第二次産業より、第三次産業・サービス産業で増えている中で、社会生活の場において「労働をどう考えたらいいか」ということは、「マルクス主義」においても、あまり深く追求されて来なかった領域ではなかったか、と思うのです。
 実際、ハンディキャップをもっている人はすべて、年金などの「手当て」という形で、「労働の現場ではないところ」に位置づけられたということが、資本主義でもそうだし、社会主義でもそうだったと思うのです。
 そういう意味で、もう一度、「労働というのは本当に自分たちの生活にとって、どういう位置を持っているのか」を問いなおす必要があるのではないか。社会参加とか社会の中で、そこから賃金をえて生活の糧を得ているということでいえば、今も昔も変わらないわけですが、その社会生活の中における労働の位置というか、見方というか、全体の中で、人間関係――さきほど「共生の中で労働ということをもう一つとらえてほしい」という発言がありましたが、つまり「生産活動の中心」ということではない視点で、「労働」をとらえていくことが必要になってきているのではないか、と論議を通じて感じました。

森田
 先ほどの相田さんの、「〈ノーワーク・ノーペイ〉という考え方は、障害者には、そもそもあたらないのではないか」という発言は分かるのですが、ただ、ぼくはもともと「障害者と障害者でない部分とを切り離す(あるいは区別する)ことはできないのではないか」、つまり、「中間領域」というか、連続性を持っているという考えをもっていて、「〈ノーワーク・ノーペイ〉が適用される人と適用されない人がいる」という考え方になると、やはりそれもおかしいと思います。
 それがおかしいとすると、いわゆる健常者の領域も含めて、ノーワーク・ノーペイの発想とは違った形で(あるいは労働とか生産活動とは違った形で)「労働なり生産活動への参加」を位置づける、あるいは「参加するかしないか」を含めて位置づけ考え方が必要ではないかと思います。
 そこで、今、司会の方が言われた、「生産に直接関与するかどうか」という観点とは別の形での社会への参加の仕方があるのではないか、という感じがしています。それは今までの基本的な発想――いわゆる労働というものに対する考え方――とはずい分違った考え方になると思うので、適当な言葉が見つからないのですが、要するに「生産活動に関与することによって財貨をもらう」ということを基準に考えていくと、そういう形での生産活動に携われない人は、結局その人自体の「価値」を安くみられてしまう、ということになるわけです。
 だから、そうではなくて、やはり、「その人その人の個性に応じた形での社会の参加、あるいは自己の実現」というのがあるのですないか――この自己実現というのは、「生産に関与する労働」という形もありうるし、逆に「労働しない」という形での自己の実現の仕方もあり得るわけです。
 そういうものを取りこんだ形で、社会で対応・維持していけるようなシステムをつくっていかないといけないのではないか、という感じがしています。今までの発想からすると、「働く人」と「働かない人」に分かれ、「働かない人が働く人の世話になる」という考え方になってしまうのですが、そういう考え方ではなく、それぞれが自分の立場で、この社会を形成していけるようなシステムをつくっていかなければいけないのではないかと、非常に漠然とした話なのですが、思っているので、そのへんについて、何か御意見があれば、と思います。

根本
 「障害者が労働現場から排除されている」「それはどうしてなのか」ということについては、いろいろな切り口があり、先ほどの方のような「それはこれこれの社会体制だから」というような切り口もあっていいと思います。
 そのところで僕が気になるのは、「それだけなのだろうか」というのか、もう少しミクロで身近なところでの関係のありようが、組織と個人の関係のありようを形作っていくような方向についての問題なのです。会社なり組織の中に、小さな身近な共存関係があって、たとえば労働者どおしが「大変だったね」と帰りに一杯飲んでそこで会社の話しでもして、個人的な関係が会社の組織を結果的に支えていくみたいな循環したところがあるように思うのです。もちろんそこも含めて社会が作ったものだといえばそうなのかもしれませんけれど。しかし、このような身近なところでの関係のありようが、組織と個人の関係のありようを形作るということをもう少し見ていかないといけないのではないか、あるリアルさが大切だと思うのです。
 ある問題については法律的に変えていかなければいけない、社会を変えていかねばならないということはその通りだと思います。ただそこには「将来的に誰かが作る」「みんなで変わっていく」というニュアンスが入り込んでくる感じがします。今現在の問題として「今のあり用を今の場所から問うていく」というところを重視し、そのような姿勢を加えていかなければならないと思うのです。
 司会の方が言った「労働の質」みたいな話と、ちょっとずれたかもしれませんが、「くくられていく居心地のよさ」みたいなものの存在と危険性を、労働者は持っているのではないか、というふうに思うのです。
 2、3年前横浜市役所の労働組合で第1回目の障害者の組合員の集会が持たれたときだと思いますが、その報告の中に「コンピュータを利用して、障害者の労働者が社会に参加していく」という集会参加者の意見が載っていました。とにかくコンピュータに期待するというか、「まだ役所の中は遅れているね」みたいな話が、載っていたと記憶しています。
 労働現場でコンピュータが合理化として作用しているのは明らかであるし、しかし反コンピュータ闘争が組める状況ではないということを踏まえるわけですけれど、先ほどの川崎市職の方の報告で「障害者が職場に入っていったときに、職場の感じが変わっていく」ということがありましたが、そのような側面ともう一方で、人間関係が求心的な職場の雰囲気の中で、障害者の職員がむしろ積極的に合理化を先取りして求めてしまうということもあるのではないでしょうか。たとえば「もう少しコンピュータなりパソコンなりが入れば、もっとスマートに労働ができるのではないか」というようにですね。
 ですから、問題は非常に複雑だと思います。
 地域で障害者の作業所を作ろうとすると住民の反対が起きる、その反対運動を地域のボスみたいなのがまとめていき、障害者の作業所を排除しようとします。それに対して行政も、作業所を作ろうとする方もなかなか抵抗できずに、最終的には作業所ができたものの重要なことで妥協をすることになったりと、まるめこまれていったりします。まるめこまれてことが進展するときにかならずといっていいほど「地域住民の合意」とか「みんなの和」とかいった言葉が、キーワードになっていきます。しっかりと主張する、対話を大切にする、理解をし合う、ということがまずあるのではなくて、力の強いほうに向かった「みんなの和」という議論を曖昧にした不透明な姿勢というものがあって、それは労働現場にもある「みんなの和」とどこかでつながっているように思うのです。そしてそういったことは、障害者と健常者にきっちり分けられなくて、どこかくくりこまれているだけになっていく、というように感じるのです。
 ですから、やはり個別的なこだわりというのか、主張する、対話を大切にするということが必然的に少数者になる傾向がある以上、少数である運動・闘い・生きざまを、そのことをそれだけで、つまり何かの前段ととらえることなく大切にする必要があると思うのです。将来何かが実現するとだけ展望してしまうと、そこに向かって突進するというような単純化は、大切な部分が抜け落ちてしまうのではないかと思いながら聞いていたのですが……。そんなふうに感じました。

佐藤
 デンマークとかスウェーデンの「高福祉社会」といわれる国では、「社会制度、社会保障が発達している」ということになっているのですが、それはたとえば、女性が、家事労働とか老人の世話のような、必要労働でありながら、無償であるということで、かなり運動して、結局ホームヘルパーを始めとする「社会的労働」として、公費でおこなわれるようになりました。つまり公の労働になるわけです。
 たとえばデンマーク・スウェーデンなどは、生産労働はごくわずかです。つくりだす価値のうち2〜3割ぐらいしかないということです。ほとんどがサービス労働で出来上がっている社会です。それでけっこう国の経済はうまくいっているわけです。
 私は町田なのですが、町田の福祉事務所に障害者がいます。その人は、障害を持っている人が相談に来たときには親身になって話が聞けるわけだし、助言もできるわけです。そのことによって、他の職員も影響を受けることになると思うのです。
 そういう意味で私は女性の置かれている状態と障害者の置かれている状態は、ほぼ同じではないかと思うのです。
 そのような観点から考えるならば、障害者が障害者として持っている感受性とか労働のきめ細かさとか柔らかさとか、そういう特徴があると思います。比較していえば、健常者はおおまかすぎるとか……。日本の社会は、効率だけを価値に置いていますから、それに合わないものは全部排除されるわけで、そういう意味では。健常者も排除されているわけです。
 というわけなので、それぞれの職場にどんどんはいっていって、内部から変えていく、ということが大事なのではないか。それから、女性の運動も含めたそういう関係を大事にして、「どういうふうにして、全体としてシステムを改革したらいいか」「突破口はどこか」というようなことを考えることが、大事ではないかと思います。

伊藤
 川崎市職労の伊藤です。前の方の発言の中で、労働現場の仲間との関係、「くくられたところでの共存」という言葉がありましたが、それに関係して、「労働運動が労働運動だけの中にはいりこんでいってしまっては、そういうところは解決しないのではないか」と思うのです。先ほどから理念的な問題がでているのですが、やはり能力だけの視点ではだめだと思うのです。
 たとえば「Aさんの就職運動」を例にとりますと、とくに公務員採用なんかですと、大々的に交渉に行ったりするわけですが、交渉に行きますと、やっぱり、「Aさんはこれができるのだから、こういう職場に採用しなさい」と言わざるを得ない、という現実があるのです。それは完全に能力主義にのっかっているわけで、そういうふうにのっかっていかなければいけない現実と、「それじゃいけない」という理念的な問題と、どうしていったらいいのか、というのが、日ごろ悩みとしてあるわけです。
 そして、「将来展望をみつめたところで、どうやって風穴をあけるか」ということを考えたときに、やはり、たとえば先ほどから出ている「養護学校義務化」というものを、労働運動は視野にいれなければいけないのではないでしょうか。つまり「養護学校なり、盲学校・聾学校などと、教育段階で分けられていて、どうして労働現場で一緒にできるのか」という単純な問題なのですが、そこをやはりおさえておかなければいけないのではないかと思います。
 私は「福祉系」といわれている大学で学んだ経験があるのですが、健常者で、たとえそういうものを志そうと思っている人であっても、実際に障害者に接していかなければ、どういうふうに対応していいか分からないだろうし、こういった、学内でもビラは配布されるわけですが、積極的に配った人が読もうとするのではなくて、黙って渡したり、誰かに読んでもらってください、ということをするわけです。
 それはやはり理解できていないからで、そういう中で、教育段階から障害者を普通学校へという運動している団体があるわけですが、やはりもう一度そういうところと共闘しながら、進めていかないとだめではないかと思います。

司会
 最後にパネラーの方々から一言お願いして、今日の集会のまとめを森田さん、よろしくお願いします。

徳見
 今日のシンポジウムの働きかけで、ビラを7000枚くらい配りました。とにかく準備期間が非常に短い中で、やってきたわけですが、7000枚のビラをまいたという事実、まくことができたという事実こそが、私にとっては非常に意味があった、と思っています。これには、自治労横浜の本部の方、そして各支部で、賛同してくださった執行委員の方たちが、協力してくださいましたし、横浜リハセンター前でのビラまきには、私の裁判の支援をしてくださっている方々も協力してくれました。
 単にこのシンポジウムの出発点が、この出発点だけで終わらないように、という根本さんの言葉が非常に気持ちの中に残っています。
 ときどき、私、言うことですが、「徳見は、ただ生きているだけだよ」と……。生きていることの中で、いろいろな人との関わり合いが生まれるし、「いろいろな人がいて、あたりまえの世の中なのだ、ということが、この世の中で一番大事」ということを始終言っています。
 これから、とにかく体力との闘いになると思います。ときどき休憩して、みなさんに連絡のとれないこともあると思います。それも、私の生きているそのものもみつめてください。
 そして、今日はいろんな観点のお話、考え、ありがとうございました。

神矢
 さっき眠れないという話をしましたが、48時間ずっと眠れなくて、そのあと24時間ずっと眠り続ける、という不規則な生活になっているわけです。そういうところで、もし今やっている人事院で、復職をかちとったとして、もう一度仕事ができるのか、職場で労働ができるのかどうか、すごい不安な材料としてあると思うのです。
 今月の11月30日と12月1日、この2日間で、この公平審の日程は終わって、あとは判定待ちで、戻るか戻らないかが決まるわけです。
 精神障害者の場合は、復職にあたって、審査委員会というのが必ずあって、これは他の疾病なんかと違って、精神障害だけ「精神障害者復職等審査委員会」という審査を受けなければいけない、というのがあるわけです。そういう制度の問題や、さっき言った、精神障害をもちながら職場に戻れるのか、という、労働環境の問題、あるいはそこで働く、資本の側ばかりではなくて、そこで働く労働者の実態、差別・分断という状況、くさびを深く打ちこまれているという現実があって、そのへんのところから考えていきながら、ぼくらとしては、来年の春ぐらいには判定が出ると思いますが、闘っていきたいと思います。

小山
 今日は、私としては、今まで取り組んだことのない問題でした。そこで言えることは、障害者にはいろんな種類の障害があって、働きたいという思いもあるわけです。
 その思いを大切にしてほしい、そういう気持ちがあります。しかし、労働を強要してもらいたくない。強要されたために、私たちの仲間は、若くして障害が重くなっています。 ややもすれば、健全者幻想を描いて、若い頃に働くわけですが、すべてが若い頃に、努力をした仲間達は、40歳をすぎると、脳性マヒのうえに頚椎を痛めて二次障害を背負い、障害が重くなり、苦しんでいるのが現状です。
 そういう仲間がいっぱいいます。これが事実です。そういうことで、私は、これからも「障害者は働くべからず」と声を大にして言っていきたい。この、「障害者は働くな」ということが、必然的に障害者の労働条件が改善されていく、そこで障害者が働いてよかったと思える時代がくると思っています。
 しつこいようですが、この日本の社会で、働き手が不足している、その中で、何も障害者が働くことはない、と思っています。

森田
 とにかく、議論がほとんど煮詰まった形でされていない、新しいテーマです。したがって、あまりまとまりませんが、2、3感想めいたことを述べてみたいと思います。
 一つは、さきほど私の方から、非常に抽象的な話に聞こえたかもしれませんが、「〈労働〉とは違った価値を考えていかなくてはいけないのではないか」ということを話しました。それだけではあまりにも漠然とした話だと感じるでしょうが、ぼくらの仕事からすると、ある意味でそれは非常に現実的な問題なのです。
 というのは、今、裁判で損害賠償の請求をすることになりますと、その請求の根拠はいくつかあるのですが、大きな割合を占めるのが「逸失利益」なのです。その人が亡くなったとか、ケガをしたことによって、働く能力が減ってしまったとして、その減った部分を損害という形で計算をし、その金額を請求をする、という考え方です。
 その場合、どういう問題が生じるか、というと、たとえば、重度の障害者、あるいは更生施設にいる障害者といった、一般的にみて「仕事をすることが難しい」という人については、そういう人を傷つけたり、殺したりしても、負わされる損害賠償責任というのは、普通の収入を得られる人に比べて、安く見積もられてしまいます。
 つまり、賠償されるべき人の命の価値が、労働能力という観点で違ってきてしまう、何千万という金額で違ってきてしまいます。それは非常に大きな問題だと思うのです。しかし、それに代わる論理というのが、なかなかみつかりません。慰謝料の部分を増やすとか、ちょこちょこっとした修正でなんとかやっているのですが、とにかく「かせげない」人間に対しては、その人を殺したとしても、賠償金が低い、安くなってしまう。そういう理屈が現にまかり通っているのてす。
 したがって、それとは違った意味での「人間の価値」というものを提起していくことで、現実的な問題として、損害賠償を請求する価格自体を変えていかなければいけないと思います。
 もちろん、それはすぐに解答がみつかるというものではありませんが、人間の価値を、生産能力で計るという考え方は、やはり見直していかなくてはいけないのではないかと思っています。

 今日最初の小山さんの発言を興味深く聞いたのですが、「障害者」に対して、「一人前に認められたいならば、一人前に働け」として仕事をさせる発想というのは根強くあったようです。障害者の側も、やはり社会の中で認めてもらうために働きたいということで、あらゆる努力をして働くという流れはあるだろうと思います。
 それに対して、「一定程度働くための条件整備」というような言い方で、いろいろなものが作られてきたわけですが、やはりそれは、「社会の中で認めてやる代わりに、それなりに働け」という発想が当然強かったと思います。それに対して、小山さんたちが、「べつに働いたりしなくても、当然人間として認められるべきだ」という問題提起をした意義は非常に大きいと思います。
 今度の徳見さんのケースは、それとは違った観点から、新しい問題提起をしたのではないかと思います。
 要するに「障害をもっていても、自分の生き方の一つとして、選択として、可能な形で仕事をしてみたい」といい、「そういう要求に対しては、可能な限り、社会はそれを柔軟にうけいれるべきではないか」という主張です。つまり、「働かされる」ことに対して、一つは「働かなくてもいいんだ」という形で、拒否する権利が認められるべきだし、もう一つは、「自分が働きたい形で働く」……そういう新しい観点での「権利(この言い方が適当かどうか分かりませんが)」として、そういう生きかたも認められていいのではないでしょうか。
 徳見さんの生き方は、そういう問題提起として受け入れるべきではないか、というふうに思っています。
 基本的には、社会の中で、単純に目先の金銭評価で労働を考えるのではなくて、いろいろ柔軟な形で、実にいろいろな個性を持った人たちの、いろいろな形での働きかた、自己実現のあり方、それを広く認めさせていくという観点が必要だと思います。
 その第1歩として、とにかく我々の一番身近なところでは、徳見さんの問題があるわけです。今のままの徳見さんの身体に合った、徳見さんの要求に沿った形での職場復帰を実現をしていくことが、今の労働というものの考え方を変えていく第1歩になるのではないでしょうか。これをあいまいなままに、徳見さんを解雇させることを認めてはいけません。
 非常にたくさんの宿題を残した集会になったと思いますが、ぜひ、それぞれの立場で考えて、可能なことをやっていただけたら、と思います。

司会
 森田さんに、今日の集会をまとめていただきました。会場から多くの意見をいただき、すべてが貴重な意見だったと思います。今日のシンポジウムだけでは、なかなか消化し切れない課題を含んでいたのではないかと思います。このことについては、今日のシンポジウムをステップにして、さらに深められていけたらいいな、と考えます。
 最後に「集会決議案」を自治労横浜のほうから、提起していただきたいと思います。

庄山
 自治労横浜の旭支部で執行委員をしている庄山です。本部の国弘中央執行委員が、所用で、途中で退席しましたので、代わりに朗読をいたします。

                集会決議

 障害者が労働しようとするときに、様々な差別に直面しており、そのような現実が、本日の集会で報告されました。
 労働災害・労働の合理化などで、中途障害になった人々は、労働現場から差別され、苛酷な労働を強いられ、あげくの果てに、排除・首きりにあっています。障害者の労働を保障する場として考えられている作業所等の現状はどうでしょうか。低賃金問題をはじめ、障害者の生活を支えるものになっていないのが現状です。障害者は結局、年金・生活保護等に頼らざるを得ず、たとえ少額の賃金を得たとしても、今度はそれをも生活保護費からカットされてしまうのです。
 こうして、障害者は、生活の保障もなく、人権を侵害されているのです。
 また、横浜市学校保健会に勤務する歯科衛生士である徳見康子さんは、過重な労働条件の中で職業病(頚肩腕症候群)になり、その後、頚椎の手術を受け、横浜市総合リハビリテーションセンター(リハセンター)で、「職場復帰に向けて」のリハビリ訓練中に事故にあって、現在、リハセンターの責任を追求して裁判で闘っています。
 徳見さんは、このリハセンターでの事故のために、「休職期間3年」が昨年4月に切れてしまい、現在は「欠勤扱い」という不安定な状況に置かれ、収入も全くありません。さらに、当局は、事故のために車イス生活になった徳見さんの「介助者つきの職場復帰」を「障害者の採用条件は自力通勤・自力勤務」であること、また、「健全者と同じように働くことができない」ことを理由に認めていません。
 私たちは、このような当局の対応は、障害者へ明白な人権侵害であり、差別であると考えます。
 こうして、徳見さんの例からも明らかなように、障害者が一般の労働現場で働こうとすれば、人一倍の努力を強いられるのが現状です。障害者が、単に労働生産性だけで、その「能力」が問われるなら、その労働現場は人間の生活空間ではなく、選別と排除がまかり通る闇の空間でしかありません。
 このような状況は、労働現場が、健全者本位の労働価値観によって成り立っているからです。私たちは、社会が障害者に近づくことを望み、障害者を採用する条件を改善することを強く望みます。
 そして、ただちに徳見さんの要望に従い、職場復帰を認めるとともに、障害者が安心して働ける職場環境を整備するように、要求いたします。
    1993年11月6日
                   11.6シンポジウム実行委員会・参加者一同

司会
 拍手で確認していただきたいと思います。この決議を市当局に提出したいと思います。今日のシンポジウムはこれで終わります。

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