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徳見調書(主尋問)
                                            
速記録(平成14年9月12日 第8回口頭弁論)
事件番号 平成12年(ワ)第2100号
本人氏名 徳見康子
原告代理人(森田)

甲第6号証を示す
まず初めに,原告が作成にかかわった書類関係の成立の確認をしていきます。「陳述要旨」という表題の書類ですけれども,これはこの裁判の第1回の期日のときに,あなたが口頭で陳述をした内容を文書でまとめたものですね。
  はい,そうです。
この内容は正しいということでよろしいですね。
  はい。
甲第12号証を示す
表題が,「パンフレットの提出について」と書いてありますけれども,これは,ここに書いてあるように,あなたが2000年秋に東京晴海で行われた国際福祉機器展というところでもらってきたパンフレットをとじたものですね。
  はい。
これは,ここにあるような改良された車いすとか,そういったもののパンフレットですね。
  はい。
甲第13号証を示す
これも同様に,横浜駅西口の福祉プラザというところに置かれていたパンフレットをもらってきたということですね。
  はい。
これも,車いすであるとかあるいは立った姿勢で維持できるような補助具といったもののパンフレットですね。
  はい。
甲第31号証を示す
これは,地図に書き込みをしたもののようですけれども,証拠説明書にありますが,この地図はもともとの地になっている地図は,横浜市教育委員会が作成をした地図で,小中学校が地図の中に記載されていると,そういうものですね。
  はい。
それについて,それを基に電動車いすで通勤可能ではないかと考えられる範囲という ことで,自宅から半径6キロメートルの円というのをかいたわけですね。
  はい。
これは,この図の上のほう,これは半円ですけれども,円が欠けた形の一番大きな円,これが自宅から6キ口ということですね。これは,自宅から直接車いすで通えるのではないかということで引いてあるわけですね。
  はい。
それと,それ以外の円ですけれども,これは,地下鉄の駅で,車いす用の設備がある駅から半径3キロメートルの円をかいて,その中を黄緑色に塗ったということですね。
  はい,そうです。
この黄緑色に塗った中の学校数が,188校ということになるんでしょうか。
  はい。
その趣旨で,この地図の左上のほうに「188校」とあるんですね。
  はい。
それ以外の,つまり市内の小学校ですかね。
  はい。
で,着色した部分から除かれる部分というのが,緑色で書いてある157校ということですね。
  はい。
そういう趣旨で作成したものですね。
  はい。
甲第32号証を示す
これは,被告が提出したビデオについてのあなたの意見をまとめたものですね。
  はい。
これは,あなたが作成したものですね。
  はい。
甲第44号証の1を示す
これは,三戸さんという方からあなたあての手紙ですね。
  はい。
この方はどういう人なんでしょうか。簡単に言っていただけますか。
  中学校の教師をされています。脳性麻痺という形の障害者です。障害を持って教師をされている方のお手紙です。
甲第44号証の2ないし4を示す
その後のこれが,三戸さん関係の新聞記事ですね。
  はい,そうです。
甲第63号証を示す
これは,92年3月25日にあなたが提出した要望書,これは,休職期間が切れる前の時点で雇用の継続を求める要望書ということですね。
  はい。
甲第52号証を示す
これも92年で,4月10日の同じ趣旨の要望ですね。
  職場復帰願の要望書です。
いずれもあなたが書いたものですね。
  (うなずく)
甲第54号証を示す
これは,94年の3月15日という日付になっていますが,これは保健会あてに出した書類ですね。
  はい。
これは,この年3月17日の面談についてのものですけれども,その内容は後で聞きますけれども,これはあなたが書いたものですね。
  はい。
甲第56号証を示す
これは,上の隅のほうに「ワーカーズ」と書いてありますが,ワーカーズというのは新聞のようなものですか。
  はい。
甲第58号証を示す
これも,あなたが書いたものですね。
  はい。
甲第60号証を示す
これは,95年1月13日に要望書を手渡した様子をビデオに映したものから写真にしたということですか。
  はい。
嶋田さんという人が作ったんですね。
  はい。
甲第61号証を示す
これは,あなたが作った陳述書ですね。
  はい,そうです。
あなたの経歴については,この1ページの第1というところに書いてあるとおりでよろしいですか。
  はい。
あなたが,歯科衛生士の資格を取った後で学校保健会に就職しようと思ったのは,どういう理由からでしょうか。
  歯科衛生士の資格を取る前に,在学中に学校に歯科衛生士の就職先のものが―杯寄せられます。その中で,公衆衛生,公的な歯科衛生指導をやれる職場から幾つか募集がきました。私自身は,昔から子供が大好きで,歯科衛生士として学校保健会のような,子供たち相手に公衆衛生指導を,歯科衛生士という技術を生かしながら仕事ができる職場があった,そこを受けたわけです。
甲第6号証を示します。学校保健会での仕事については,甲第6号証のところに整理して書いてあると思いますけれども,ここに書いてあるとおりでよろしいでしょうか。
   はい。
1つは,口の中の検査,これは児童の検査をするわけですね。
   はい。
それと個別や集団での指導というのがありますね。
   はい。
このやり方ですけれども,これは被告のビデオにもありましたけれども,あなたならあなたが,ある日ある学校に行って,今言ったような業務をやっていくという形になるわけですかね。
   はい。
学校での歯科衛生士の仕事のやり方としては,今のようなやり方以外にもあるんでしょうか。
  それは横浜市内の。
横浜市以外でも。
  横浜市以外の市町村においては,私が現職当時,交流があったり,研修等で相互に提供し合った他都市の歯科衛生士の様子を伺ったことがありますが,横浜方式と横須賀の方式,やり方はかなり違うところがありました。
具体的に,横須賀のやり方というのは一例でしょうけれども,どういうやり方をしていたんですか。
  例えば横浜では,検査の日は検査,集団指導の日は集団指導,そのほかに個別指導とか,その他学校保健委員会とか等ありますが,検査と集団指導とをセットで横須賀ではやっております。ちなみに1時間目,1年1組に歯科衛生士1人でなくて2人で入ります。1校時の中で,検査をして集団指導をするというやり方です。そこで横須賀では2名で入る方法をしているのは,1人が指導者として教室の教壇に立ちます。もう一名の歯科衛生士は,机と机の間を回って,細かい動作の手直し,子供の様子を見る役目をして,2人でセットに入っているというやり方を当時からしてました。
今言われたような横須賀市のようなやり方と,横浜市の学校保健会がやっていたようなやり方とでは,歯科衛生士さんにかかる負担という意味ではどうなんでしょうか。
   主に作業姿勢の問題なんですが,横須賀の場合は,検査で同じ格好,形,姿勢をし続けるというのが非常に少ないです。横浜の場合,例えば4月の何日かに,A学校で検査をしたとします。その次の日も検査になります。その次の日も検査になります。そうしますと,続けて連続腕を上げ続け,非常に中腰になりがちな姿勢で仕事をしながら,作業姿勢が続いてしまうということです。
今は,やり方の違いということでおっしゃいましたけれども,あなたが勤めている間に,横浜市学校保健会の中で,歯科衛生士さんの仕事の業務の負担というのは増えていったんでしょうか。
  業務の負担というよりも,主に検査業務の密度が増えていったということです。
密度が増したというのは,どういう意味でしょうか。
  先ほどの話と重なってしまうかもしれませんが,私が就職した当時は,1つの学校に1年間に行ける日にちが,17日とか19日とか,たくさんの回数行くことができました。1年間に行ける日にちの中で,1学期,2学期,3学期と検査をし,そうすると3日間消化するとします。残りを1クラスずつ集団指導という形で行ったり,PTAの指導だったり,個別指導だったりという形で,年間を通しての検査の密度がそれほど多くなかったのです。ところが本当は大変うれしいことなんですが,歯科保健事業が,非常に希望をしてくださる学校がどんどん増えてきました。1つの学校に行ける日数が5日になったときにです,検査を5日のうち3日間費やすとします。そうしますと,全体の密度が,当初19分の3であったのが5分の3という形で,検査の密度が多くなった,それに伴う無理な姿勢が増えたということです。
乙第38号証を示す
これは,被告のほうでお調べになった,学校歯科保健活動についての比較表なんですけれども,これによると,平成12年度ですけれども,横浜市の場合は,歯科衛生士1人当たり3万1811名を担当してるということのようなんですが,これは,ここに書いてあるほかの指定都市と比較しても非常に多いわけですね。
   はい。
2枚目を見ますと,神奈川県内の主要都市と比べても多いということは分かりますね。
   はい。
今例に挙げた横須賀市というのは,ほかの市のほうでは多いほうなんですけれども,それでも横浜の6分の1程度なんですね。歯磨き指導の中に検査が入っている人数,多いみたいですかね。そういった中で仕事をしていく結果として,労災の認定を受けるということになったわけですね。
  はい。
頚肩腕障害ということなんですが,具体的にはどういう症状が出てきたんでしょうか。
  腕を上げているときに,最初は左から出ましたが,首から肩,腕の中に電気が走るような激痛が走ります。それと同時に首,肩,背中,腰が,鉛板が入ったような凝り,疲労感,疲れやすさ,そういう症状が出ておりました。
労災認定を受けた後ですけれども,労働基準監督官から職場状況についての勧告か何かされたんでしょうか。
  口頭で伺いました。
どういうことですか。
  私あてというよりも,学校保健会という職場に対する行政指導をすると。歯科衛生士が1人当たり児童の検査をする場合,1日につき500名以下に抑えるという行政指導をするということをおっしゃっていました。
それは,1日につきという言い方でいいんですか。
  はい,1人当たり,1日,検査業務は午前中に行います,午前中に500人以下に抑えろという指導です。
実際 その後で500人以下にしようという方向になっていったわけですか。
  はい,そうです。
徳見さん自身は,職業病ということで,休んだ後職場に戻って,戻った後はどんなやり方をしていたんでしょうか。
  これは,労基署の指導とかお医者さんの指導により,私自身も治してきた,工夫してきたことの中に,なるべく首を緊張させない,のぞき込まない,静的動作の緊張をなるべく気を付けるように,じっとして緊張して力を入れる,それには,手の上げ方,手を肩から上にやればやるほど,静的緊張,筋肉の疲労含めて現れるので,肩からなるべく上げないような形,それから意識的に手を時間をかけて上げ続けていなくて,すぐ手を下ろす,上げる,下ろす,上げるという,動かす時間を作りなさい。
今のようなことに気を付けるために,具体的に検査をする場合のやり方を変えたりということはあったんでしょうか。
  はい,具体的には,私自身の工夫したのは,私が座って検査をする,見やすい高さの低学年においては立ってやることもありますが,生徒の人数の多さにもよりますが,ほとんどの学校では,私が座る,両サイドに児童が座るように,双方が座って検査を行うように工夫しました。
両サイドに児童が座るという意味は,交替で見ていくという意味なんでしょうか。
   はい,そうです。
片方見ている間に,片方が入れ替わることができるということですね,
   はい。
そういうことによって,スピードを落とさずに検査ができたということですか。
  そうです。
今あなたのほうが座って検査をしたということですが,そういうやり方をすること,あるいはする人というのは,それまでには全然なかったんでしょうか。
  いろんなやり方が,それぞれ工夫してやっていることが見られています。両サイドにいすを置いて検査をしている者は,私だけだったと思います。
座ってやるということは,そのときのあなたに限らず,ほかの人もやっていたということですか。
  はい,立ったり座ったりです。
それは,児童の背の高さなどに合わせてやっていたということですか。
  児童の背の高さというよりも,きちんと正しく見える位置に,口,目を置くという高さの調節です。
そのために座ったほうがよければ,座ってやることもあるということですね。
   はい,そうです。
それと,変わったこととしては,そうすると1日に検査する人数なども,前よりは減ったということですね。
  そうです。
その後,横浜市のリハビリセンターに行ったわけですけれども,これは,どういう目的で行ったんでしょうか。
  私が長期に休むようになったのは,首の手術をしなくてはいけないという時期からになりますが,首の手術を終え,医学的な処置そして医学的なリハビリを全部終え,症状が固定された段階で,職場に対して私が原職復帰したい、そうするためにはどうしたらいいかということを主治医に相談したところ,現職復帰するためだったらば,医学的なリハビリだけではなく,もっと専門のところに紹介するという形で紹介されて行きました。
そうすると,具体的に,歯科衛生士としての仕事をやっていく上でのいろいろな補助具であるとかやり方の工夫であるとか,そういった面でのアドバイスが欲しかったということなんでしょうか。
  はい,主にそうです。
リハビリセンターでの訓練中に,ロールにぶつかって転倒するという事故があったわけですね。
  はい。
その事故の後で,あなたの障害の内容は,どういうふうに変わったんでしょうか。
   障害等級の変化はありませんでしたが,事故前は,私自身,両つえをつき,足に装具ははめていましたが,自力で外出することができました。長距離のところについては,自分で車の運転をして外出をしていました。事故後どこが大きく違ったかというと,利き足の右足が,負担をかけると筋肉疲労というか,筋肉がつってしまうという症状がかなり頻繁に出ました。今まで運転していろんなところへ,市内だけじゃないんですが,行っていましたが,その当時の介助者含めて、運転はできるんですが,実用的ではない,運転の途中でつってしまうという危険な事態を考慮して,実際的には,外出が自力では非常に不自由になった,そこの違いです。
1つは,車いすに乗る生活になったということと,自動車の運転が現状あるような車では難しくなった,したがって操縦することが難しくなったということですね。
   はい。・
したがって,遠出をする上では,だれか介助に付いてもらう必要が出たということですね。
  はい。
この転倒事故については,損害賠償請求の裁判を起こしましたね。
   はい。
そのときには,損害の内容としては,どういうものを請求したんでしょうか。
   ほとんどが,他人介助に要する費用の請求をしました。事故前と後の違いの請求の中身です。
働けなくなったから,その分の損害ということではなくて,働くのに,介助が必要になったから,その介助にかかる費用を請求したということですね。
   はい,そうです。
この裁判は,結局請求は認められなかったわけですね。
  はい,残念ながら認められませんでした。
現状で,あなたは,職場復帰を求める前提として,被告学校保健会のほうに介助費用の負担を求めるという考えはあるんですか。
  そういう気持ちは毛頭ございません。
つまり,介助に要する負担は自分のほうで何とかしようという前提での復帰を求めているわけですね。
  考え方の中で,リハセンターに対する他人介助の費用が認められませんでしたので,これは一般的な国,地方公共団体の制度の問題として考えておりましたので,職場の問題,職場に対して介助者費用を出してくれという考えはありませんでした。
今おっしゃったのは,例えば今は事業主に対して,障害者を雇用するに際していろんな補助がありますね。そういう形で賄ってもらうのはいいけれども,それとは別に,あえて被告のほうに負担してもらわないと困るということではないわけですね。
  ありません。
解雇に至る経過について伺いますけれども,初めにお示しした証拠の中にもありましたけれども,まず1992年の4月25日というのが,休職の期間が満了する時期だったわけですね。
  はい。
その休職期間満了を前にして,雇用を継続してほしいという要望は何度も出していたわけですね。
  はい。
それに対して,学校保健会はどういう応答をしていたんでしょうか。
  雇用が継続できるような検討というのがなされませんでした。
継続できない理由については,具体的な説明はあったんですか
  具体的な説明というよりも,こちらから,どうやったらやれるか,どういうふうに工夫したいか含めて検討してほしいということを,当局はどうやって考えているのかということを引き出したという,積極的に当局からお話があったわけではありません。
結局余り説明のないままに,休職期限が満了してしまったということでしょうか。
  はい。
その後は,いわゆる欠勤状態ということになったわけですね。
  はい。
乙第41号証,乙第43号証を示す
まず乙第41号証のほうですが,これは94年の1月4日,つまり期間満了になった翌々年になるんですかね,に出している要望書ですね。
  はい。
乙第43号証ですが,これはちょっとさかのぼって93年の8月に出している要望書,これは,いずれも介助者付きの職場復帰というものを要求してるわけですね。
   はい。
この中で共通して指摘しているのは,それまでの間の話合いの中で,学校保健会のほうが雇用継続を認めようとしなかったということと,あと,それに関して学校保健会が言っていたことということで,5点ほど挙げていますね。
  はい。
5点挙げられているんですが,これは学校保健会のほうが雇用を継続できない理由として,@,A,B,Cという形で挙げてきたものなんでしょうか。
  話の中から,こちらがまとめた項目の内容です。
あなたのほうの受け取り方としては,例えば,乙第43号証に書いてあるように,「『ダメだからダメ』を繰り返すばかり」というふうにありますけれども,そういう印象だったわけですか。
  はい,そうです。
ただその中でも,理由らしい理由という形であなたのほうで整理したのが,この5点ということですね。
  はい。
そのことについて,ちょっと聞きますけれども,まず@として「検査する場合,距離があるので,車イスでは難しい」というふうにありますね。
  はい。
この点はどうなんでしょうか。
  どうしてこういうふうになったのかというのが,ちょっと理解できません。
あなたは,実際車いすに乗った状態で検査をしてみたりということはしてるわけですね。
  はい。
それは,できていたわけですね。
  はい,現在うちで,訪ねてくる子供たちにそうやっています。
Aの,子供の口を開けるのに両手を使うので無理であるという点は,どうでしょうか。
  左手を酷使する,腕を上げ過ぎなければ大丈夫です。これも分かりません。分からないというのは,なぜ無理というふうに判断したのか,分かりません。
学校では児童数が多いので,徳見が仕事をやること自体無理ということなんですが,これは意味が分かりますか。
  これの意味があんまりよく分からないんです。こういう言い方をされたということは分かります。
それに関連するのかもしれませんが,Cのところで,飛んだり跳ねたりする子供が大勢いる中で,転倒事故がまた起こる心配がある,現場の教師は責任が持てないということなんですけど,この点についてはどう思いますか。
  仕事で子供たちの中に入ったときに,子供たちが飛んだり跳ねたりという経験をしたことが余りないんです,まず。私がしゃべると聞いてくれたりしてまして,仮にこういうことがあったとしても,車いすというのは非常に転倒にしにくいので,安定してますので,これもちょっとよく分かりません,どうしてこういうふうになるのか。
それと今のCのようなことを言うのであれば,およそ車いすを使うような人は学校の中にはいられない,ということにもなりかねませんよね。
  そういうふうに見えます。
Dとして,徳見は今のように体が悪くなる前から休み休み検査していたのだから,今の状態ではとても無理であるということですが,これはどうでしょうか。
  確かに休み休み検査していたことが何日かありました。それは首の手術の前に仕事をすぐ休むということがなかなかできませんで,体の許す範囲で,ぎりぎりまで学校巡回をしていました。学校巡回ができる最後のほうで痛みが耐え切れなくて,首や背中を温めながら検査をしていた学校が何校かありまして,そのことかなとは思いますが,首の手術をしてリハビリをして症状固定をしましたので,こういうことは症状固定の後はありませんので,これもよく私には分かりません。
納得がいかないということですね。
  はい。
この1993年8月に学校保健会の役員が替わっていますね。
  はい。
このあと佐藤課長という人と,前回証言された長島係長という方が担当になったわけですね。
  はい。
この担当者が替わってから保健会の姿勢のほうに変わったところはあったんでしょうか。
  前任者のときはいつも平行線でずっときたわけですが,佐藤,長島管理職になったときに,今までとトーンが上がって,この問題で決着を早急にしたいという空気が私には感じられました。
それとその翌年,94年の1月4日からいわゆる自主出勤というのを始めるわけですけれども,これは具体的にはどういうことをしたんでしょうか。
  仕事に行く場合に,毎日とにかく通います。そして職場にいます。私自身は毎日通って,しかも介助者を募って行くという姿,行けるよという姿,そして1日も早く原職復帰したいという気持ちがあるという姿勢を見ていただきたかったんです。その中でどのような工夫をという検討をもしていただくことを含めて,そういう姿を求めた,見ていただきたかったことです。
長島証人の証言ですと,学校保健会の事務所は別にあるのに,学校保健課のほうに来られるのは筋違いであるといったような証言があったんですけれども,この点についてはどうなんでしょうか。
  学校保健会の歯科衛生士と嘱託の事務の方がいらっしやるのは,その当時,教育文化センターの地下だったようです。私が現職当時は学校保健課の中にございました。それともう―つ,学校保健会の理事,いわゆる行政の中の責任ある方たちが仕事を提供する責任者として私の状態を見るために学校保健課という場所に行ったのです。
あなたとしては,そういうことをすることで,現場への復帰につながるということを期待していたわけですね。
  現場の復帰に向けての検討をきちんとしていただきたかったということです。
別に学校保健課の業務を妨害するような意図で行ったわけじゃないですね。
  毛頭ございません。
その学校保健課に行ってからは,どこにいたんですか。
  学校保健課の来客用のテーブルをお借りしました。
来客があったりした場合は,どうしていたんですか。
  業務の妨げにならないように席を外しておりました。
乙第31号証を示す
この診断書はいわゆる内科的な診断書ですね。
  はい,そうです。
で,これを出すことになったいきさつは,どういうことでしょうか。
  健康診断をしていただいた結果の診断書です。
乙第44号証を示す
これは平成6年3月25日に出したもののようですけれども,15日付けになっているけれども,実際に出したのは25日でいいわけですね。
  はい。
この中で,さかのぼっての事実が書いてあるんですけれども,まず左の行の真ん中より上辺りに,前課長渡辺氏,係長中山氏からは保健所,予防医学協会,市民病院などでの健康診断を受けよと言われたと。その後,佐藤課長になってから,医師の指定,診断書の内容については限定しないが,職場復帰への状況が分かるように健康状態を書いた診断書を出してくれと,そういうことを言われたわけですね。
  はい。
それに応じて,そういう意味では一般の診療機関にかかって診断書を書いてもらったということなんでしょうか。
  はい。それと私自身,医療職でもでございます。医療職の者が不特定多数の子供たちを相手に仕事をする場合に,こちら側が感染源になってはいけないという証明にもなります。それを含めた形の診断書です。
従来そういう意味では,整形外科系の診断書はいろいろな形で出しているわけですけれども,そういうもっと一般的な診断書というのはなかったと,したがって今回出したということですね。
  はい。
それと,その後,この年の3月17日に学校保健会と会うという話になったわけですね。そういうことを言われたわけですね。
  徳見の話を聞くと……。
甲第54号証を示す
これはまず94年3月15日付けの書類ですが,これはこの日に出しているわけですね。
  はい。
この中身,最初の部分を見ますと,昨日3月14日,佐藤課長,長島係長より伺いましたということで,3月17日に30分ほど話を聞きたい,そういう話があったわけですね。
  はい。
これについて真ん中辺りに,条件として,組合が入らないこと,介助者は1人だけ,テープレコーダー,ビデオカメラによる記録禁止というふうに書いてありますが,これはそういうことを学校保健会のほうが言ってきたということですか。
  はい,そうです。
あなたのほうとしては,逆にこういった点を求めたいということなんでしょうか。
  そうです。
まず,テープレコーダー,ビデオカメラによる記録というものを求めたのはどうしてですか。
  当局はお1人ないしお2人,前回の証人の長島さんは記録係で,かなり記録されていましたが,こちらは記録をしながらというのは非常に大変になるということも1つありました。一番大きな要因は,障害者で,これは教育委員会,学校保健会相手のことではありませんが,市の内部に,当時民生局,現在福祉局というところがありますが,障害者が障害者の政策に対して質間なりお願いなり問い合わせなどで民生局に行ってやり取りをしたときの1つの事件で,民生局の課長さんが障害者に対して暴行を加えたという相談がこちらにありました,障害者御自身から直接です。で,障害者のその方は警察にも傷害事件として届出をしたそうです。そのときに民生局の方たちは,そんなことはなかったと,鉛筆が倒れた程度だったと。お役所が言うので警察に信じてもらえなかったと。それは非常に自分はつらかった,障害者の言うことを信じてもらえないのでつらかったと。あったことをないというのは,これはメモでは実際的に本当の記録はできません。それで私はテープレコーダーとかビデオ,実際にあったことをそのまま記録に残したい。そういうこともあって,もしかすると殴られるかもしれない。あんたらいつまでもこんなことやってんじゃねえよって,怒鳴られたこともありました。それを含めて全部,正しい記録を残したかった。そういう意味です。
それと組合の人の立会いを求めるということですけれども,これは今言ったこともあるんでしょうけれども,ほかに何か理由があるんですか。
  解雇に至る身分にかかわることは当然組合がきちんと入るということが前提だと思ってましたので,その旨,条件で出しました。
この甲第54号証のお願い文を15日に学校保健会に出したわけですね。
  はい。
それに対する何か返事はあったんですか。
  ございません。
この17日にあなたは実際にその言われた場所に行ったんですか。
  はい,そうです。
行ったらどういう状態だったんでしょうか。
  予定された時間の10分前からその場所に行っておりました。でもこれは徳見の話を聞く会というような形で設定されていたようですが,どなたもいらっしゃいませんでした。
このときの話合いが中止になったという連絡は,あなたあてにはきていなかったんですか。
  私あてにはありません。
だれかから,そんなようなことは聞いていたということはあるんですか。
  はい,組合の支部長さんが,3月17日の徳見さんからの話を聞く会は中止らしいよという話を伺ったこともあります。でも私は設定された日にずっと待っていました。
まあ、あなたあてに中止の連絡がないから行ってみたということですね。
  はい。
まあこの文書自体,お願いという文書だし,あなたのほうでこの話合いの機会を拒絶したというつもりはないわけですね。
  ありません。拒絶したときは行きません。
乙第32号証,乙第33号証を示す
その後になりますが,乙第32号証はその年の3月22日の文書で,かかりつけ医(本町クリニック)又は公的医療機関で整形外科医による診察を受け,勤務が可能かどうかについて診断書を提出してくださいと,そういう依頼の文書ですね。
  はい。
乙第33号証ですが,これはそういうふうな通知を受け取って,かかりつけ医である本町クリニックの杉井医師のところへ行って書いてもらった診断書ということですね。
  はい。
これを学校保健会に,その後,提出しているわけですね。
  はい。
この乙第33号証の診断書の意味なんですけれども,この意味について聞くために,今年の6月にあなたと,あと私たち代理人の弁護士とで杉井医師に話を聞きに行っていますね。
  はい。
そのときのことを思い出してほしいんですけれども,まずこ第33号証の左上下肢の麻痺によるという記載がありますけれども,この麻痺ということについてはどういうふうに説明していましたか。
  左の上と下肢,下肢は両方です。
左。
  上肢と下肢。
という意味ですね。
  麻痺そのものの説明をされました。麻痺というのは運動機能による麻痺,それから感覚がないという麻痺,この2種類ありまして,どんな麻痺においても完全麻痺か段階的な麻痺があるという形で,その麻痺という言葉は完全麻痺ではない。運動面の動きで全く動かないときは完全麻痺という言葉を使う。医者だったら,だれでもそんなこと分かる。
つまりここに麻痺と書いてあるのは完全麻痺ではないという意味だということですね。
  はい。
それとこの診断書の最後の部分は,勤務は可能と考えるというように書いてあるんですけれども,これは杉井先生の趣旨としては,勤務が可能であるという趣旨で,この文書全体としてですね,書いたということなんでしょうか。
   はい,そもそも依頼書に基づいて診断書を書いたと。勤務が可能かどうかの診断を診断書の中に入れたと。診断書の最後のほうに,勤務は可能と考えるという形で。
今言った依頼書というのは,乙第32号証のことですね。
  はい,そうです。
これをあなたが杉井医師に見てもらって,要するにこういう依頼に応じた診断書を書いてくださいということを言ったわけですね。
  はい。
乙第32号証のほうでは,勤務が可能かどうかについて診断書を提出してください。それに応じた形で勤務が可能と考えたと書いた,というのが杉井先生の説明ですね。
  そういう判断をされたということです。
この裁判の中で乙第33号証の診断書が1つの大きな根拠になって解雇という結論になったという説明があったということを杉井先生に伝えましたね。
  はい。
そのことについて杉井先生はどういうふうに言っていましたか。
  杉井先生は、この診断書が解雇の判断材料になったということにまず驚かれていました。それと同時に怒っていらっしゃいました。何で勤務が可能と診断したことに対して、勤務できないと判断したのか分からないと。
この乙第33号証の診断書を書いた後で、杉井先生のところに学校保健会あるいは横浜市の学校保健課の人から問い合わせがあったのかどうかということについては聞きましたか。
  この診断書に基づく問い合わせ、訪問はなかったと。この診断書が勤務不可能という形の判断にするかどうかって問い合わせがあったらば,もうちょっときちんと,誤解されたことはないのではないかと。
それとこの診断書を書いた当時,徳見さんの左手が全く動かない状態であるということを,まあ学校保健会の長島さんという人が証言をしたということもお伝えしましたね。
  はい。
その点については杉井先生はどう言っていらっしゃいましたか。
  ええっ,何でそんなことをという,びっくりされた感じで。徳見さんの手が動かないという認識はないと。実際にその当時のカルテを御覧になりました。認識そのものがない中で,更にカルテを見たら,やっぱりちゃんと書いてあるわ,左手の握力は9……。
9キログラム。
  はい,9キログラム,ないしは13キログラム。症状固定しているから大体その範囲ぐらいで力はあるという。それを全く動かないというふうに勘違いされたのは,ちょっと分かりませんと,びっくりされていました。
乙第30号証を示す
これは2年ほど前の平成4年に杉井先生が書いた診断書なんですけれども,ここでは,単独の就業は困難と考えるという書き方をしているんですが,この乙第30号証と乙第33号証とでは意味が違うのか同じなのかということもお尋ねしましたね。
  はい。
その点はどうでしょうか。
  杉井先生は内容的には同じものだとおっしゃっていました。乙第33号証の診断書は,乙第30号証の診断書の具体的な工夫の方法であるという形でおっしゃっていました。
甲第61号証を示す
陳述書の7ページの7項というところですけれども,4月18日に佐藤課長がやってきて,まあ31日の診断書,先ほどの診断書を受けて検討した結果,弁明の機会を与えるというふうに言ったということですね。
  はい。
この弁明の機会というのは,どういう趣旨の場であって,何を聞かれるのか,あるいはあなたが何をしゃべればいいのかということについての説明はあったんでしょうか。
  ありません。
あなたはそれをどういうふうに受け取りましたか。
  弁明というのは,何か悪いことをして罰せられて,罰せられたことに対して釈明をするというような意味かなと思いました。で,私は何か悪いことをしたという気持ちがないので,よく理解できなかったのです。
そうすると,その4月25日に行くに当たって,どんな準備をすればいいのかということは分からなかったわけですかね。
  内容が分からなかったので,どういう準備をしたらいいのか分かりませんでした。
その当日,4月25日の様子なんですけれども,今の7ページの下のほうを見ると,この保健会の会長さんが,弁明などと言わず,いつでも相談にいらっしゃいと。テープだビデオだなどとつまらないことをしないで話合いをしましょうと,そういった言われ方をしたわけですか。
  はい。
会長さんがあなたにそういうふうに言ったわけね。
  はい。
それであなたはどういうふうに思いましたか。
  1回目の弁明の機会のときにも,このようなことを会長さんがおっしゃったと私は記憶しておるんですが,初めて私の,どういう工夫をしてどういうことをするかという検討を相互にする中で,中途障害者が継続して雇用に就けるかということを検討してほしいということを分かってくださるのは,この会長さんの言葉から初めて感じた,その言葉で初めて感じました。
そうすると,まあ弁明の機会と言われてよく分からないまま行ったけれども,会長さんが最初に今のように言ってくれたから,そうすると,その雇用継続について,もうちょっと前向きな話ができるんじゃないかというふうに思ったわけですね。
  そうです。
あなたとしては,どういう話をしたんですか。
  私が直接言えたことは,じゃあ具体的にどういう工夫をして職場復帰に臨んでいったらいいかという具体的な方法を述べることができたと思います。ただ残念な がら途中で打ち切られましたが。
  例えばどんなことを言ったんですか。
職業病の時代に既に,私も児童も双方座って検査をやっていたこと。そして現在,普通のいすから車いすになったこと。普通のいすから車いすに私が変わっただけで,生徒さんに座っていただく,このやり方でそんなに大きく変わらないんじゃないか。それとか座いすとか,検査がしやすいように自助具も考えておるということ。そしてそういう自助具の持ち込みを許していただけないなら,私自身が立ったり座ったりできませんが,座った高さを調節でき得る車いすを購入することを含めて,いろんなやり方で考えているという話を途中までできたんです。
そういう話をしていたところ,佐藤課長にさえぎられたということですか。
  はい。上下が調節できる電動車いすを購入することを含めてという話の中で,そんな空想の話を聞いてもしょうがないという形で切られました。
甲第56号証を示す
これはこの新聞の記者が佐藤課長に取材して書いた記事なんでしょうか。
  そのようです。
このときはあなたはその場にはいなかったですね,取材のときには。
  私のほうにも取材は来ましたが。
このときはいなかったですね。
  はい,課長さんのときにはいません。
この中で下から3段目のところに,佐藤課長の発言として,何かアメリカのほうからいすを買うなんて言っているが,そんな架空のことを言ってもしょうがない。あるいは,だからそんな架空のことには付き合えない。もう決めたことなんだから。といった発言が紹介されていますけれども,大体こういった趣旨の発言をこの4月25日のときもされたんでしょうか。
  第1回の弁明の機会のときに唯一できた話で。
だからそのときのことですから。
  だと思います。
要するに4月25日の最初の弁明の機会のときに,今,甲第56号証から引用して読んだような発言が佐藤課長からされて,その結果,あなたの話は途中でおしまいになってしまったということですね。
  はい。
その日はそれ以上,中身のある話はできなかったわけですね。
  打ち切られた以降は私は,外に出るように言われましたので,その後,分かりません。
その後もう一度,5月30日に弁明の機会を持つという連絡があったわけですね。
   はい。
このとき,どうしてもう一度持つことになったのかとか,じゃあ今度は何を話してくれというのかとか,そういうような説明はあったんですか。
  ありません。
このときはどういうやり取りになったんでしょうか。
  やり取りのほとんどの時間は,職員の身分に関することなので,組合が入ってそういう話はしてほしいということを,何回も何回も私は述べたことを記憶しています。
それは,何度かあなたがそういうことを求めて,それは前から求めているわけですよね。それに対して保健会のほうは何か応答はしたんですか。
  ありました。組合が入るときは本人に不利益があるときだから,今回,必要がない旨言われました。
それに対してあなたはどう言ったの。
  私は首切られるかどうかという状態の中で,これは不利益であるとして組合の立会いを求めたものです。
まさにあなたにとっては最も不利益な話をしているわけだよね。そのことを言ったわけですよね。
  そうです。
だけどそれは向こうは全然応じてくれなかったわけですか。
  はい。
そこで平行線になっちゃったということですか。
  そうです。
証人で出てきた長島さんは,このとき徳見さんのほうが感情的な話ばかりするので話合いにならなかったというようなことを言っているんですけどね,それはそうだと思いますか。
  よく分からないんですが,私はなるべく感情を抑えました。組合の立会いが必要ということだけを繰り返し繰り返し,私は言うだけだったと思います。ところが同じことを何回も言うので,「まるでテープレコーダーを聞いているようだ。人間性が感じられない、徳見さんは」と言って怒られました。
あなたが同じことを繰り返すことになっちゃったのはどうしてだと思いますか。あなたがそれは意図的に話合いを壊すためにそういうことを言ったの。
  意図的に壊すんだったら出席しません。飽くまでも継続雇用の検討をしていただきたいということをお願いしてただけなんです。身分にかかわることですから,組合に入ってほしいと……。
  例えば組合が立ち会わないことについても,何らかの合理的な説明をするとか,あるいは時間を限定するとか,いろいろなそういう何というんですかね,歩み寄りの方向を見せられれば,あなたもそんなにこだわらなかったと思いますか。
   はい。
5月30日の2回目の弁明の機会ですけれども,これはそうすると最終的にはどういうふうに終わったんでしょうか。
  先ほども申しましたとおり,私が同じことを何回も言うというので,途中で打切りになりました。
要するに保健会のほうから,この場は打切りにするからあなたは帰りなさいというふうに言われたわけですか。
  「弁明の機会として来たんだろう,テープレコーダーみたいに人間性が感じられない」と。
最後,終わったところはどういうふうに終わったかなんですけど。
  「話し合いは中止だ」というような……。
そういうことを向こうから言われたわけね。
  はい。
それでその後は,ずっと連絡のないままで,免職の通知がくることになるわけですね。
  はい。
甲第2号証を示す
これが平成6年12月20日付けの免職通知というものですね。
  はい。
これはどういうふうにして届けられたものなんですか。
  佐藤課長が,びらびらと玄関先に置いていったものです。
あなたは直接出ていって,受け取ってはいないわけですか。
  置いてったんです。
あなたとしてはもう会う気はなかった。
  ちょっと残念な通知だったんで。
これを受け取ってみて,どういうふうに思いましたか。
  予想されたとはいえ,具体的に何がどうしたら駄目だからというふうに説明もなかったもので。結論は変えない,職場復帰は考えていないという当局の姿勢は,結論は変えないという中での決定なので,非常に残念でした。どういう検討がなされたかというのも知らされないまま解雇通告を受けたというのが非常に残念でした。
それと まあこの免職通知は,翌年1月19日付けをもって免職するという そういう通知なんですけどね。実際1月19日に免職の辞令がきたわけですね。
  はい。
甲第59号証の1ないし3を示す
これを,それぞれどういう順番できたかを,ちょっと説明してもらいたいんですが。最初に受け取ったのは甲第59号証の2になるわけですか。
  だと思います。直接うちの玄関先に持っていらしたものがこれだと思います。
その次は甲第59号証の1の文書ですか。
  前中に直接持ってこられたのが2で,1は午後に郵便で届いたものだと思います。
この甲第59号証の1は普通郵便で届いたものですか。
   はい。
そうしますと甲第59号証の3はどうでしょうか。
  これは内容証明郵便の知らせがポストに入っていたので,これも郵送なのですが,すぐには取りに行かなかったものです。
後日受け取ったわけですね。
   はい。
そういう順番で受け取ったわけですね。
   だと思います。
いずれにしろ,この19日以降,立て続けにこの3通が届けられたということですね。
  同時に3通が,あなたが首だよというのが3通発行されたということです。
それを受け取ってどういうふうに思いましたか。
  1人の障害者を首にするのに,あなたは首だって,3人の人を首にするんだったら分かるんですが,1人の障害者で,首だよと,3通も,最初から発行の予定をしていたということも含めて,検討がなされなかっただけじやなくて,非常に悲しかったです。
その後の経過を少しお聞きしますけれども。
甲第61号証を示す
10ベージの第7,解雇後というところで,この95年1月に解雇通知がきて,その年の9月に,障害者の労働・差別を考える会という,そういう団体を作ったわけですね。
  はい。
この会として,徳見さんの解雇問題について学校保健会と話合いを持つというようなことはあったんですか。
  何回もございました。
これは結構,繰り返し回数があったと思うんですが,覚えていますか。
  何月何日,どういうことという,細かいことは。
合わせると10回近くになったんでしょうかね。
  かなりの数。
期間としても何年かにわたってということですよね。
  はい,現在も。
もちろん会自体ありますしね。
  はい。
その障害者の労働・差別を考える会が学校保健会と話合いを徳見さんの件でしたときの解雇理由についての説明はどんな様子でしたか。
  時間をかけて検討したということ。それから徳見さんの言い分を,弁明の機会などを通じて話を伺ったこと。この2点の説明だったと思います。
それ以上,具体的な理由というのは全く説明しようとしなかったんですね。
  会としても,どうして徳見さんを解雇したかというのを,当局からは聞き取れなかったと言っております。私もそう思いました。
それと,さっきもちょっと触れましたけれども,証人の長島さんは,解雇当時,あなたは左手が全然動かなかったというふうに言っておられたわけですけれども,これは例えば今の,障害者の労働・差別を考える会の交渉の中でも,そういう話は全然あり  ませんでしたよね。
  左手が全く動かないというのは,何にもありません。
この裁判の中でも,長島さんの陳述書が出てくる前までは,そういったことはなかったですよね。
  陳述書,証言で初めて聞いた……。
実際問題,それはどうなんでしょうか。
  私もびっくりしましたし,杉井ドクターもびっくりしてましたし……。
それは私もびっくりしたんですけれども。実際その解雇当時,左手の機能というのはどの程度だったんでしょうか。
  先ほどカルテに基づいて杉井ドクターが言われた……。
握力の点が出ましたけれども,実際,機能的にはどうだったんでしょうか。
  仕事上でのことですと,歯のいろんなことを説明するのに大きな歯の模型と大きな歯ブラシを使って説明することがたくさんあります。で,右手で通常ですと大きな歯の模型を持ちます。左手で大きな歯ブラシを持っていろんな磨き方を説明したりします。これは生徒さんが右手で歯ブラシを持つということを想定して,私が向かい合わせで左側に持っている様子です。で,最初は左手は震えないんですが,繰り返しずうっとやっていると,肩よりかなり,肩程度だったり,宙に上げ続けていると,力不足で左手が実はその当時から,今もそうなんですが,左手が震えてしまいます。仕事上はそういう状態です。
あなたとしては長く左手を上げた状態だと震えてくるから,そうならないようないろいろな仕事上の工夫をしたいということを言っていたわけですね,その当時から……。
  そうです。
乙第39号証の長島さんの陳述書の5ページの一番下の2行なんですが,「この当時の徳見さんの左手の状態として,左手が震えてしまい,仕事をするにも力が不足していると述べました。」これはまあ必ずしも正確ではないんだけれども,まあ徳見さんが言っていることとしては,それに近かったわけですね。
  手を上げていれば,こういう状態になると。下げていれば別でございます。
ところが同じく6ベージを見ると,一番下の行ですけれども,「左手が全くと言っていいほど上がらないような状態でした。」ということになっていますね。
  はい。
これは長島さんの見た徳見さんの状態ということなんだけど,だから,これは徳見さんの言っていることと長島さんの見方という違いはあるけれども,この内容は違いますよね。
  はい。
今の2つの言い方はね。
  はい。
甲第60号証を示す
まあ作成経過は初めに言っていただきましたけれども,これは要望書という書類を佐藤課長に渡しているところですね。
  はい。
で,このときは左手はどういうことをしているんですか。
  左手も添えて,封筒から出したり,書類を提出している様子で,腕が上がっております。
左手も上げて,両手で渡している。
  両手で渡している様子です。
甲第62号証を示す
これは新聞記事なんですが,この写真に写っているのはあなたですね。徳見さんと書いてありますね。
  はい。
ここで両手で何か書類を持っているんですか。
  両手で持っている写真です。
このときも右手,左手,両手で書類をまあ維持しているわけですね。
  はい,そうです。

そういう形で左手も使っていたということですね。
  はい。
それとちょっと関連して伺いますけど,同じ甲第62号証の下から2段目の最後のところからなんですが,「労働省障害者雇用対策課によると,通勤を容易にする援助者については,民間の事業主に助成金を出す法改正が昨年10月に行われたという。」と ありますが,この昨年10月というのは平成6年の10月ですから,解雇よりも前ということですね。・
  はい。
この助成の中身については,あなた自身,調べたりはしましたか。
  調べました。
ちょっと簡単に紹介してもらえますか。
  この制度は事業主に対する助成でございます。で,雇用されている障害労働者が助成を受けるという内容のものではありませんので,私自身がいろんな資料を,事業主がどういう工夫をすることができるのか,どういう届けをしたらよいのかということを,事業主の代わりと言っては変ですが,事業主だったらどういうことができるのかという相談も,労働省とか,いろんなところに相談に行ったときにも,この制度のことを説明されまして,証拠で出した,上下できる車いすを職場に設置でき得ること。ハンディーキャブのような車いすを送迎する車を無償で貸与することもできること。それから通勤の介助者を事業主に補助するという制度,国か雇用促進協会などのところから助成の制度がある。そういう内容のことです。
まあ見方を変えるならば,学校保健会のほうが,もうちょっと積極的に職場復帰のための,あるいは雇用継続のための条件整備を考えていたならば,そういう制度の利用だって可能であったということになるんでしょうかね。
  積極的というか。
積極的じゃなくても可能なわけですよね。
  きちんと検討してくだされば分かったことだと思っています。
甲第51号証を示す
前に出したほうのビデオですけれども,これは実際あなたが現状で可能な検査方法を試みて,それをビデオに写したものですね。
  はい,その一部なのですが。
要するに,工夫したやり方の一部なんですね。
そうです。
甲第29号証を示す
これはあなたが通勤をするやり方について,可能と思われるやり方を試みた,その記録ですね。
  そうです。
あなた自身,その解雇された当時も,通勤あるいは勤務ということは可能であったというふうに思っているわけですね。
  条件整備がどの程度できるかという内容にもよりますが,例えば車いす1つも駄目だ,認めないというんだったら駄目だっただろうし,学校での様子,自力でどこまでできるかというIつの概念で,私も今でもよく分からないんですが,大勢の方たちと,これは障害者に限らず,たった1人で人間は生きられませんで,お互いに分業したり支え合ったり,工夫したりというのが当たり前にやっている中で,町の作りであったり,職場の作りによっても全然違うし,人と人との関係性によっても当たり前に支え合ってやっていくことを,それを見ないで物事を考えたときに,自力というのは何なのかって,たったI人で生きていくことはできないので,そこら辺を含めて条件整備の問題だけじゃないんですが,今バリアーフリー化がどんどんされています。条件整備がどんどんできれば,いいか悪いかって,それもありますが,例えば今日ここへ入ってきたときに,当たり前に,ちょっといすを寄せようかとかいうやり取りも,これは関係性の問題なんですが,当たり前に,障害者がいてもいいんだ,いろんな人がいるのが当たり前なんだというふうに考えれば,お互いに何とかやり繰りしていく,そういう意味で,それは学校現場で条件整備だけが問題じゃなくて,いろんな人がいても当たり前の人間集団というか……。
余り簡単にまとめてしまうとあれなんだけれども,少なくともそういう条件整備というのは学校保健会の人が言ったような架空の話ではなくて,それはお互い可能な努方をすれば実現できたことであるということですね。
  ……も,含んでです。