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長島調書(主尋問)
                                            
速 記 録 (平成14年5月23日 第6回口頭弁論)

証人氏名 長島 清

被告代理人

乙第39号証を示す
この陳述書はあなたから伺った話を代理人の私がまとめて、その上で改めてあなたにも確認をしていただいて御署名いただいた陳述書ですね。
  はい、そうです。
そうすると、あなたの御経歴ですが、平成5年5月14日から平成7年6月6日まで被告である横浜市学校保健会の理事をしていたということでよろしいですか。
  はい、そのとおりです。
あなたが横浜市学校保健会の理事として着任した時点の状況を確認しておきますが、その時点では既に原告の徳見さんは勤務に就いていない欠勤の状態だったわけですね。
  はい、そうです。
徳見さんのほうからは、その時点では職場復帰をしたいという要望が出されていたということのようですが、それで間違いありませんか。
  はい、間違いありません。
その徳見さんから出されていた職場復帰の要望ということをもう少し具体的に言っていただきたいんですが、どういう形で職場復帰を徳見さんは求めていたんでしょうか。
  介助者を付けたままの状態で職場復帰を認めてほしいという要望でした。
乙第40号証を示す
これは「職場復帰に関する申し入れ」という題名で、1993年3月10日という日付になっていますが、日付からすると、これはあなたが着任される前のもののようなんですけれども、こういう要望書が徳見さんのほうから出ているということは着任後にあなたも読んで認識なさいましたか。
  はい、認識しております。
こうした徳見さんからの職場復帰の要望に対して、横浜市学校保健会側はそれには応じられないという対応をされていましたね。
  はい、そのとおりです。
ところで、その徳見さんの体の状態について、陳述書を拝見すると、自由な動作ができず日常は常に車いすで移動したり生活をし、学校保健会での歯科衛生士としての業務には耐えられないようだと前任者から聞いたと書いていらっしやるんですが、そういうことで間違いありませんか。
  はい、間違いありません、
前任者というのはどなたでしょうか。
  私の前に、教育委員会の学校保健課で保健係長の職にありました中山さんという方です。
あなた自身も学校保健会の理事在任中に何回も徳見さんと会って同じ印象を持ったということなんですけれども、あなた自身が実際に徳見さん御本人の姿を初めて見たのはいつごろになるんでしょうか。
  平成5年8月10日ごろだったと思います。
それはどういう機会に徳見さんの姿を御覧になったんですか。
  徳見さんは要望書を持ってこられたと思います、そのときがたしか初めてだと思います。
乙第43号証を示す
これが「要望書」という題名で1993年8月10日付けになっていますが、これが今あなたがおっしやった当時徳見さんが持ってきたとされる要望書でしょうか。
  はい、そうです。
そのときに初めて徳見さんを御覧になったというお話ですが、そのときの徳見さんの状態はどのようなものでしたか。
  車いすに乗っておりまして、介助者の方が車いすを押しておりました。
そのときの徳見さんの左手の状態はどうだったでしょうか。
  全く動かない状態だったと思います。
それが平成5年8月10日ごろというお話ですが、その次に徳見さんとあなたがお会いになったのはいつという御記憶ですか。
  同じ年の8月の23日ごろだったと思います。
これはどういうことで、どこでお会いになりましたか。
  徳見さんが私たちと話合いをしたいというので保健センターでお会いしました。
保健センターという場所があって、そこの場所で会ったということですね。
  はい、そういうことです。
そのときの顔ぶれなんですが、だれとだれが会ったんでしょうか。
  学校保健会側からは私と佐藤さんの2人です。徳見さん側からは徳見さん御本人と介助者の島田さん、それからもう一人おられたと思います。
  介助者というのは、ふだん徳見さんの車いすを押していらっしやる方のお名前なんですね。
  はい、そのとおりです。
その保健センターでの8月23日の様子なんですが、どのような話合いをされたんでしょうか。
  徳見さん側は御自分の要望する条件での職場復帰の要求が出されました。佐藤さんのほうからは、徳見さんの体の状態で  は職場復帰は困難だと思うと、そういう対応をしまして話合いの内容については平行線になりました。
徳見さんのほうの要望というのも、それまでの要望と同じような要望だったわけですね。
  はい、そうです。
陳述書によれば、その後、平成5年12月27日に臨時部会長会が開催されたそうなんですけれども、これはどのような目的で開かれた会議なんでしょうか。
  徳見さんの今まで出ている職場復帰の要望に対して、どのように対応すべきかを協議するためです。
ここでちょっと被告の横浜市学校保健会の仕組みについて確認をしておきたいんですが、職員の採用とか免職とか、あるいは今間題になっているように職場復帰を認めるかどうかという事項について、これはだれの権限で決めることになっているんですか。
  これは横浜市学校保健会の会長です。
甲第I号証を示す
これは学校保健会の勤務条件に関する規程なんですが、この第8条を読むと「職員の任用・休職・復職・免職・退職及び懲戒処分は会長が行う。」となっていますから、これに基づいて伝えるという御趣旨ですね。
  はい、そうです。
ただ規程上、会長というのは分かるんですが、会長が独断で決めるとはちょっと思えないですので、徳見さんの場合、実質的な意思決定はだれ又はどの機関で行ったんでしょうか。
  徳見さんの場合に当たりましては理事会で協議を重ねまして、その結果を踏まえて会長、副会長、更に常務理事、この三役  で検討をしまして、最終的には会長、副会長を含む部会長会で決定をしております。
そうすると、今出てきた部会長というのはどのようなメンバーで構成されるんでしょうか。
  学校保健会には幾つかの部会がありまして、その部会の中から選出をされました部会長と、会長、副会長がメンバーになっ  ております。
平成5年12月27日の臨時部会長会の話に戻りますが、この臨時部会長会ではどのような結論になりましたか。
  徳見さんの職場復帰の可否を判断するために診断書の提出をお願いしようということになりました。
その趣旨は、その時点では徳見さんの症状の詳細が分からなかったということになるんでしょうか。
  はい、そのとおりです。
全く症状が分からなかったということですか。
  いや、これまでの経過から、職場復帰については非常に困難だろうという状況については認識がありましたが、本人の身分  にもかかわる問題ですので、そのときの御本人の状態を詳細に、なおかつ、きちっと改めて確認しようと、そのためでした。
先ほどおっしゃったように、前任者からの引継ぎはあったけれども、更に慎重に詳細を確認しようという御趣旨だったわけですね。
   はい、そのとおりです。
徳見さんにはその時点まで、症状を確認するための診断書の提出は求めてはいなかったんでしょうか。
  求めておりました。
具体的には、どなたがいつどのようにして徳見さんにどんな診断書の提出を求めていたんですか。
  私の着任する以前のことなので詳細についてはよく分かりませんが、前任者の中山さんから、横浜市大病院に行って診断を  受けるようにというお願いをしたというふうに聞いておりますが、それには応じていただけなかったというふうに聞いています。
今の内容は、あなたが中山さんからお聞きになっている内容ですね。
  はい、そのとおりです。
乙第40号証を示す
この乙第40号証の右側になりますが、徳見さんのほうでお作りになった申入書の中でも、「中山係長から、『横浜市大整形外科で診察を受けてほしい』という電話がありました。」という記載がありますね。
  はい。
このことが中山さんからあなたが聞いたことになるんでしょうかね。
  はい、そうです。
念押し質間なんですが、そうした依頼に対して徳見さんの対応は応じなかったということだったんですか。
  はい、応じていただけなかったというふうに聞いています。
乙第44号証を示す
この文書のことについてはまた後でも改めて伺うつもりですげれども、これも徳見さんが作成した文書ですね。
  はい、そうです。
この中の記載を読んでも、中山さんや渡辺さんという方が徳見さんに、保健所、予防医学協会、市民病院などで健康診断を受けるように依頼したという趣旨の記載が書かれていますね。
  はい。
そうした依頼に対しての徳見さんのほうの対応がどうであったか、何かお聞きになっていますか。
  やはり応じていただけなかったというふうに聞いています。
ところで徳見さんの休職期間は平成4年4月25日で満了したようで、翌4月26日からは、ただの欠勤状態になったようなんですけれども、4月26日からその後、随分長い期間こうした欠勤状態が続いているようにも思えるんですけど、これはなぜなんでしょうか。
  職場復帰を判断するために、検討するために、診断書の提出、あるいは病院での診断をお願いしておりましたけれども、長期間これに応じていただけなかったということで期間が経過してしまったものです。
臨時部会長会の後の話にまた戻りますが、徳見さんに対して診断書を提出してほしいということは、陳述書を拝見しますと、平成6年1月4日に徳見さん御本人にも伝えたようですね。
  はい、そのとおりです。
この日は徳見さんのほうでも自主出勤闘争ということで学校保健課に来るようになった最初の日でもあるわけですね。
  はい、そうです。
乙第41号証を示す
この要望書は1月4日に徳見さんが持ってきて読み上げて置いていったものでしょうか。
  はい、そうです。
この中にも記載されているんですが、徳見さんのほうの要望というのは、私の体の状態にあった勤務体制と仕事を提供してほしいという要望が続いていたわけですね。
  はい、そうです。
この徳見さんがおやりなっていた自主出勤闘争について確認しておきますけれども、平成6年1月4日にスタートして同じ年の6月10日ごろまで続いたということで間違いはありませんか。
  はい、間違いありません。
この期間は、ほとんど毎日、横浜市学校教育委員会の学校保健課に来ていたということですか。
  はい、学校保健課に来ておりました。
来ていた時間について、いつごろからいつごろまでが普通だったんでしょうか。
  朝から夕方まで来ておりました。
言わば一日中、学校保健課にいらっしやったわけですな。
   はい、そのとおりです。
来るときの様子なんですが、徳見さんはどうやって来ていらっしゃいましたか。
   徳見さんはいつも車いすに座っておりまして、それを介助者の方が押して来ておりました。
自主出勤という御主張を徳見さんは当時されていたようですけれども、来ていた場所は横浜市学校保健会の場所ではなくて学校保健課のほうだったわけですね。
   はい、そうです。
ほとんど1日、学校保健課にいるというお話なんですが、来て、徳見さんはI日何をしていらっしゃいましたか。
  執務中1日おりまして、介助者の方と雑談をしたりして過ごしておりました。また介助者の方が御自分で持ってきたワープ口で文書のようなものを打っておりました。
つまりほとんど徳見さん自身は雑談で1日を過ごしていたということですか。
  はい、そうです。
自主出勤闘争中の徳見さんの左手の状況はどうだったでしょうか。
  そのときはひざ掛けのようなものを掛けておりまして、左手から腕に掛けてもひざ掛けの下にありました。そのときの状況はよく見ておりませんでしたげれども、状況からいきますと、左手は全く動かせなかった、そういうような状況です。
  つまり直接左手は見えなかったけれども、ひざ掛けが掛けられた状態から、あなたの御認識では左手がやっぱり全く動かない状況のように見えたということですか。
  はい、そうです。
その後、平成6年2月23日になって、徳見さんがようやく診断書を1通提出しましたね。
  はい。
乙第31号証を示す
これがそのとき提出された診断書なんでしょうか。
  はい、そのとおりです。
平成6年3月8日に、また臨時部会長会が開かれたようですが、これはこの診断書の提出を受けて開催されたものですね。
  はい、そうです。
その3月8日の臨時部会長会ではどのようなことが決まりましたか。
  この診断書の記載は内科的な健康診断の結果ということで、歯科衛生士として職務に耐えられるのかどうかということは、これでは分かりませんので、本人の身分にもかかわることなので、それでは本人に直接話を聞いてみようということになりました。
そういうことになって開かれたのが平成6年3月17日に予定された弁明の機会という流れになるわけですね。
  はい、そうです。
そうすると、この弁明の機会を開こうとされた目的は、要するに端的に言っていただくと何になるでしょうか。
  職務に耐えられるかどうかを直接徳見さん御本人の口から聞いて判断しようという目的でした。
ところが陳述書にその辺の事情は書いてありますが、徳見さんのほうで、それについては拒否していたわけですな。
  はい、そうです。
平成6年3月17日は、結局は弁明の機会を予定していたんだけれども臨時役員会になったという話なんですが、その会議の結論はどのようになりましたでしょうか。
  もう―度、診断書の提出を求めようということになりました。
乙第32号証を示す
この平成6年3月22日付けの会長名の文書を徳見さんあてにお出しになったわけですね。
  はい、そのとおりです。
乙第44号証を示す
この文書はたった今見ていただいた会長名の文書に対する徳見さんのほうからの回答でしょうか。
  はい、そうです。
この乙第44号証の日付をちょっと確認しておきたいんですが、徳見さんの手書きの部分には日付として3月15日と書いてあって、下の欄外にはゴム印で3月25日と押してあるようなんですけれども、あなたの御記憶ではこの文書が出された実際の日付はいつでしょうか。
  文書の内容からいって3月25日が正しいと思います。徳見さんの恐らく書き間違えだと思います。
3月15日のほうが書き間違えだと思われるわけですね。
  はい。
乙第44号証が出されたわけですが、その後は結局はどうなりましたでしょうか。
  診断書の提出になります。
乙第33号証を示す
まあ今伺ったような書類のやり取りはありましたが、その結果、今見ていただいている乙第33号証が平成6年3月31日に提出された診断書ですね。
  はい、そうです。
この診断書の提出を受けて、平成6年4月6日に臨時役員会が開催されたようですが、この会議ではどのようなことが決まりましたでしょうか。
  診断書の内容から左上肢、左下肢の麻庫によって自力では動かすことができない、移動することができないということが分かりましたし、またその麻庫のために自分では通勤、あるいは勤務に当たって介助者がいなければできないということも分かりました。そういうことでは職務に耐えられないだろうということは分かりましたが、本人の身分にもかかわることなので、改めて本人と話合いをする場である弁明の機会を持つことにしました。
乙第42号証を示す
これがそのようにして決まった弁明の機会の開催通知ですね。
  はい、そうです。
その弁明の機会の様子を次に伺いますが、その席上で学校保健会のほうから、学校保健会の歯科衛生士の方がやっている歯口清掃検査をできるかどうかという質問が徳見さんに対してなされましたか。
  はい、ありました。
徳見さんはどう答えたか覚えていらっしゃいますか。
  今までのように立ったままでの検査はできないと、子供の口を広げて行うような方法での検査はできないというふうに認めましたが、ただ本人は、児童の口が自分のひざのところにくれば、歯口清掃検査はできるとも言いました。
当時の徳見さんの左手の状況について、徳見さんは御自身はどのようにおっしゃっていましたか。
  そのとき、左手は震えて仕事をするにも力不足だということを言いました。
徳見さん自身がそういうことを言っていたわけですね。
   はい、そのとおりです。
徳見さんが言うような子供の口が自分のひざにくるようにするというのは、具体的にはどのような方法で検査をするんだという御主張だったんでしょうか。
   座いすの首当て付きのような機械に座らせて児童を寝かせるようにすればできるということを言っておりました。
そういった徳見さんがおっしやるような方法での検査は、現実的に当時実現可能なものだったんでしょうか。
  いや、学校での歯口清掃検査については大勢の児童を順次並んで立たせましてその前に立って次々に行わなければなりませんので、そのような方法では無理です。
当時の現実的な状況では実現不可能だったわけですね。
   はい。
陳述書を拝見すると、その後もう一度徳見さんと話し合う場を設けようというような理事の御意向があったようで、平成6年5月30日に2回目の弁明の機会を開こうとされましたね。
  はい、そのとおりです。
これは実際には弁明の機会としてできたんでしょうか。
  いや、徳見さんは感情的な話ばかりされまして、実質的には実のある話はできませんでした。
その結果を伺いたいんですが、徳見さんの職場復帰のことはどのように決まりましたか。
  平成6年8月4日に臨時の部会長会を開催いたしました。その会議の中で、徳見さんの状態では学校保健会の歯科衛生士としての職務には耐えられないということを理事間で確認をしまして免職にすることを決めました。
今御証言いただいた平成6年8月4日の臨時部会長会で本件の免職が最終的に意思決定されたという理解でよろしいですか。
  はい、そのとおりです。
甲第2号証を示す
これが平成6年12月20日付けの文書で、徳見さんを翌平成7年1月19日付けで免職するという内容が書かれた通知書ですね。
  はい、そうです。
この甲第2号証はどうやって徳見さんにはお渡しになりましたか。
  当時の常務理事の佐藤さんが徳見さんの御自宅に持参をすることになりまして、当日私も同行しました。
徳見さんの自宅に持参されたようですが、そのとき徳見さん御本人はいたんでしょうか。
  いえ、その日徳見さん御本人には直接お会いすることはできませんでしたけれども、いつも車いすを押していらっしゃいます介助者の方が玄関先で応対されましたので、玄関内において渡しました。
そういった状況でこの甲第2号証を、言わば自宅に置いてこられたようですが、徳見さんにはその通知内容は、その後、伝わったんでしょうか。
  この免職通知が後日、学校保健課に送り戻されてきておりますので、その内容については徳見さん本人も承知しているはずです。
送り返してくるわけだから、内容は知っているということですね。
  はい、そうです。
その後、平成7年1月19日にも改めて免職辞令というものを徳見さんの自宅に持参してお渡しになったということでよろしいですか。
   はい、そうです。
以上ずうっと時系列で免職に至るまでの経過を伺ってきたんですが、改めて免職の理由を確認しておきたいんですが、端的に言って徳見さんの免職の理由は何でしょうか。
   徳見さんの当時の体の状況では、自分で車いすの移動もできませんし、左手が不自由で使えない、そういう状態では横浜市学校保健会の歯科衛生士としての職務には耐えられないというのが理由です。
先ほどの証言にもあったのですけれども、当時の徳見さんの状態というのは絶えず車いすに座って、それを介助者の方が押しているという状態だったわけですね。
   はい、そうです。
左手は全く動かない状態だったということでよろしいですか。
  はい、そのとおりです。
ところで陳述書にも書いていただいているんですが、あなたは今回この裁判で原告のほうから証拠で提出されている徳見さんの様子を写したビデオテープというものを御覧になっていますね。
  はい、見ております。
そのビデオテープを御覧になって、徳見さんの体の状態についてどんな印象をお受けになりましたか。
  はっきり言ってびっくりしています。
どんな点にびっくりされたんでしょうか。
  私が知っている免職当時の徳見さんは左手、左腕がほとんど動かない状態でしたけれども、左手が動きますので、大変驚きました。
まあ当時のあなたの認識では、徳見さんは左手も左腕も動かないという認識だったわけですね。
  はい、そうです。
左指はどうですか。
  左指も動かない状態だったと思います。
そうすると、あなたが学校保健会の理事に在職していた平成5年から平成7年までの期間の徳見さんの左手の状態というのは、ビデオとは違って動かない状態だったということですか。
  はい、全く動かない状態だったです。
  同じくビデオを見ますと、徳見さんが自分で車いすの車輸を回して動かしているシーンがあったように思うんですが、そのシーンは御覧になっていますか。
   はい、見ています。
あなたが理事に在職していた当時の徳見さんは、そのビデオテープのように御自分で手動式の車いすを動かすことができる状態だったでしょうか。
  いや、全く無理です。
介助者の方が押している状態だったわけですね。
  はい、来るときはいつも車いすに座っておりまして、介助者の方がその車いすを押しておりました。
学校保健会の歯科衛生士の方の職務の主な内容を確認しておきたいんですが、これはどのような内容のものなんでしょうか。
  各小学校を巡回して、児童の口の中を検査する、これが主な仕事です。そういう職務について、なぜ徳見さんの当時の状態ですと職務に耐えられないかをまとめていただけますか。
  児童は身長が高かったり低かったりといろいろですので、歯科衛生士はその児童の身長に合わせながら座ったり、あるいは中腰になったり、体を伸ばしたり、あるいは体の角度を変えたりと、そういう動作をしながら姿勢を確保しながら検査を進めていくわけですけれども、その検査に当たってはいろんな姿勢が要求されますので、車いすに座ったままではこれは無理で、できません。また検査に当たっては児童の唇をめくりまして口を開かせるわけですけれども、左手が不自由で筋力の低下した徳見さんには口を開いて押さえるというような動作も無理でした。
歯科巡回指導の中には、今説明していただいた検査と別に、各教室で行う歯科衛生集団指導というものがあるようですが、それは御存じですね。
  はい。
この集団指導のほうについてはいかがですか。
   集団指導に当たりましても、児童に手を添えるなどして指導をするわけですね。これも徳見さんには無理でした。
徳見さんのほうでは、先ほども出てきましたが、様々な機械とか道具を使用して車いすを使用したままでの検査を主張されていたようなんですが、当時の現実問題としてはそれは可能だったんでしょうか。
  そのような方法では職務遂行は無理です。

   横浜地方裁判所
裁判所速記官 砂川通子