一審判決について (判決後、報告集会での発言より) 旧態依然の障害者労働者観 森田明(弁護士) 障害者差別の大きな壁 新美隆(弁護士) 優生思想に立脚した判決 徳見康子(原告) |
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旧態依然の障害者労働観 森田 明 (弁護士)
裁判は、こちらの敗訴になりました。
ご承知のように、裁判の過程では、裁判長は、原職復帰を前提した和解の勧告をしてきたにもかかわらず、被告・学校保健会側が拒んできましたので、裁判所としても、被告にあまりいい心証を持っていないという流れの中での判決ですから、原告勝訴はほぼ確実と思っていましたので、この結論は、非常に意外でもあったし、残念でもあります。
「解雇は正当」の理由
判決文をよく読んでみると、解雇が正当であるという理由は、「徳見さんの現在の、および当時の能力からして、左上肢の能力が不十分であり、そのため歯垢清掃検査(子どもの唇をめくったり、押し下げたり、口の周りの肉を押し下げるなどして、口の中をチェックする作業)が十分にできない」というものです。
なぜこのように「できない」と認定をしたのか、よく分かりません。
被告は、裁判の中で突然「徳見さんは当時左手は全く動かなかった」などと言い出したのですが、全く動かなかったことについては、裁判所は認めていません。
それでは、なぜ左手で「できない」と裁判所が認定したのかというと、徳見さん自身の証人尋問の中で、部分的に切り取ると、そう思われるようなことを言っているのです。
たとえば「左手の握力は9ないし12グラムである」「左上肢をあげていると、震え等が生じる」と述べています。握力は、杉井先生の検診の記録です。
被告が「全く左手が動かない」というのに対して、「少なくとも当時の検診結果では、こういう結果がでている」「こういう動かし方ならできる」という話を、徳見さん自身がしているわけです。
それをとらえて、いわば逆用して(被告の言い分である「全く動かなかった」ことは認めてないのですが)「でも、9ないし12グラムしかないから、検診ができない」という言い方をしているのですが、このような議論は、これまでの裁判の中ではまったく問題になっていなかったのです。
しかも、「9ないし12グラムだったら、ほんとうに検診ができないのか」ということについては、何も触れていません。そこは裁判所の一方的な判断です。
被告の解雇理由は否定
被告が主に主張していた「車椅子が教育現場にはいってきては困る」「立ったり座ったりできない状態で口の中を見ることができない」という解雇理由は、認めていません。子どもが立っていなければいけないわけではないし、「歯科衛生士のほうが、着席した姿勢であっても、子どもを椅子に座らせたり、子どもの頭の位置を変えさせることで、検診はできる」、あるいは、徳見さんが言ったように「椅子を複数用意して、交代で座ってもらって診る」などという工夫をすることで、車椅子でも検査ができる、ということは認めています。
被告の主張は、そもそも「車椅子を想定したやり方などは、考える余地はない」し、「今までやっていた検診の仕方を変えるようなやり方は認められない」という議論ですから、工夫の余地を認めているという意味では、被告側の主張を否定しているのです。
したがってそれは解雇理由にならないという前提になるはずです。そこまでは認めたのですが、最後に「唇をめくったりする作業ができないので、解雇は正当」といっています。
裁判所の判断の仕方は、歯科衛生士の検診のやり方を2つに分割して、車椅子に乗った姿勢での検診――姿勢の問題と、実際に口を触るという部分とに分離をして、車椅子に乗ってやることについては、やり方を工夫することで可能である。しかし、口に触る部分は、工夫の余地がないというのです。
こうして、前段は認めておきながら、後段の「くちびるをあけて……」の話になると、具体的な可能性をまったく判断しないで、いきなり結論を導いています。
旧態依然の障害者労働観
我々が、この裁判で主張したことは、「障害者になった徳見さんに、前と同じ仕事ができるかできないか」という問題ではありません。
障害を持ったとしても、その人にふさわしい職場環境を整えることで仕事ができるのであれば、雇用主はそうする義務があるのです。
これは最近の障害者施策の中では当然のこととして認められているところでもありますし、裁判例の中にも、そういう流れはあるわけです。
つまり、障害をカバーするような工夫や方法があるはずだし、雇用者はそれを検討する必要があり、その検討をぬきにした解雇は、そもそも手続き的に違法である、という考え方がほぼ定着しつつある、といってもいいと思いますが、そういう考え方については、この判決では正面からの判断はしていません。そういう論点設定自体をしていません。
そのような意味で、この判決は、旧態依然とした障害者の雇用に対する考え方――健常者と同じことができなければ、解雇されてもやむを得ない、という考え方が基本になっています。
「はじめに解雇ありき」の判決
ご承知のように、この裁判では、裁判の期間の半分以上を、事実上の和解のやりとりに費やしてきました。
その中で裁判所は、「徳見さんを原職に復帰させるように」と相当強く言ってきました。その姿勢から考えると、この判決は180度違った立場の判断の仕方ですし、しかも、そういう和解勧告をしたという痕跡を、みじんも感じさせないような判決です。
もちろん私も、少ないとは思いましたが、負ける可能性も、あり得ないことではないとは思いました。ただ、仮に負けるとしても、おそらくそのときの理屈は、「解雇当時の障害者雇用(解雇)の考え方としてはやむを得ない」けれど、「でも現在の社会情勢の中では、それは通用しない」という、そういう議論になるのではないかと思っていました。
そうだからこそ、裁判所は、被告に復職のための和解を求めてきたのではないでしょうか。
しかしながら、この判決は、そういうことすらも言っていません。要するに「当時も今も、解雇は当然だ」というような形で正当化してしまっています。
最近の判決の傾向でもありますが、いったん結論を出してしまうと、それに合うように主張の整理や事実認定をしてしまうという傾向があります。それが、この判決の中でも如実にあらわれています。
たとえば、徳見さんの障害の内容については、それほど詰めた立証は、双方ともできていません。これは本来解雇した側が立証すべきことなのですが、それが立証されてないにも関わらず、「解雇当時、左手の障害で児童の唇を開けない」し、「その障害は今でもある」という認定を、非常に独断的おこなっています。
このようにみてくると、裁判所は、「解雇は正当である」という結論を先に出しておいて、徳見さんにできない理由を探して、「これはできないのではないか」と思った部分を見つけだして、それに合った証拠をむりやり引っ張ってきたという感じがします。
そういう意味では非常に不自然な判決になっています。また、こちらの組み立てた議論――解雇理由を十分検討しなかったことの不当性などについても、正面から判断をしていません。
非常に、ひねくれた形で結論を出している判決だと思います。
障害者差別の大きな壁 新美 隆 (弁護士)
「和解」と判決のズレ
判決の期日が、1月22日に決まっていたのに、変更になって今日の判決を迎えました。
裁判所は、かなり意気込んで、「原職復帰を求める和解を勧告する」と言い切って、時間をかけて何度も被告に検討を要請してきました。
しかし、この判決は、2〜3日もあれば書けるぐらいの内容ですから、その気持ちが、当初は残っていたのでしょうが、あるときからガラッと考え方が改まってしまったのではないかと思います。
裁判所の和解の試みと、この判決との間に、最大限、裁判所の立場に譲歩して整合性を考えてやるとすると、「障害をもった人が職場復帰をするためには、職場の人たちが、それなりの対応を自発的にやることがプラスアルファーにならない限りは、復帰は困難なのであり、だから、裁判所が一方的に判決で復帰させるとなると、また考え方が違ってくるのだ、それだから、和解と判決は食い違ってもいいのだ」という判断があったのではないか、としか思えないのですが……。
裁判所が解雇の理由をつくった
この判決をみても、「障害」とは何なのかということが、理念としても考え方の基本的な姿勢としても、まだ裁判所の身についていないと思うのです。
障害とは「個人が持っているマイナスの面」とみてしまってはならないのです。社会の中で障害者が生まれてきて、それを社会全体の中で(職場も小さな「社会」ですが)、全体の中で共同責任として自分たちが担っていくという考え方からすれば、障害者のできないところをあげつらって、「ここができないんだ」と否定するのではなく、「そのできないところをどうやってみんなでカバーして支え合っていくか」ということを考えない限りは、障害者の権利とか障害者の雇用などは、いつまでたっても実現しないのです。
今回の判決の最大のポイントは、裁判所が解雇の理由を探し出したことにあります。
当初の解雇理由は、徳見さんが車椅子になったということでした。それだけで十分に解雇の理由になる考えて、学校保健会が、95年、もう9年前に、非常に安直に解雇したのです。しかし、今回、裁判所は、その車椅子の問題は、解雇の理由にならないと、はっきり否定しているのです。車椅子に限らず、作業姿勢についても、座ってやることもできるし、いろいろ工夫すればやれるのだと言っているのです。
こうして、実質的に、被告が当初解雇の理由にしたところは、否定しているわけです。そのうえで、「子どもの口の中という非常に微妙で傷つきやすい部分の作業が、歯科衛生士の口腔検査では必須のものだから、完全に左上肢をコントロールできない人は歯科衛生士の仕事はできない」と、被告の主張とは別の理由をもってきて、解雇を正当化したということになります。
「障害」とは何か
ところで、訴状でも引用したのですが、ある高等学校の体育の先生が脳出血で倒れて、体育の実技指導ができなくなったために解雇された裁判がありました。「実技指導もできない体育の教師なんかありえない」というのが、障害を個人責任として考える人たちの考え方なのですが、その裁判官は「実技ができない体育の教師が学校にいてもいい」として、解雇無効の判決をだしました。その判決文では、次のように述べています。
「体力が落ち、体育の実技の模範を示すことが困難になった場合には、生徒の一人あるいは数人に実際に演技をさせ、その良い点、悪い点を指摘するなど、言葉を用いること等の工夫をすることによって、生徒に模範となるべき体育実技の方法を説明することは可能である」。
つまり、子どもの中から少しできる子を選んで「キミ、ボクの代わりに、みんなの前で模範演技を見せてやれよ、ボクは実技ができないけれど、キミ、みせてやれよ」と、これで十分なのです。これで体育の授業はやっていけるのです。
徳見さんの場合についていえば、もし左手が少し震えて、口の中を綿棒でさわったら傷ついてしまうのが心配なら、子どもに、歯科衛生士が中を見やすいように口を開けるように指導すればいいのです。それをあたかも、決して徳見さんにはできないだろう、というような微妙なところを見つけだして、それで判決を書いたのです。
そこは、ものの考え方の違いだと思うのです。本当の意味での障害者問題を理解していない人たち、あらを探して、あらを極端にその人のだめなところの理由にしてしまうという――こういう判断方法が残る限りは、いつまでたっても障害者問題は解決していかないと思います。
判決の根本にある差別意識
大変残念なことですが、この裁判所は、大変善意だったのですが、障害者問題というもののあり方、解決の仕方についての根本が分かっていなかったのです。
障害をもった人は、100万人単位で、この社会にいるわけですから、そういった人たちにとってみれば、今回、いい判決がでれば、大変大きな励みになると思っていましたし、また、徳見さんにとっては、判決よりも、実際に職場に戻って、仕事ができることが一番の解決だと思って、私たちはかなりの時間をかけて、ビデオをつくったりして、本当に、苦労、工夫しながら、職場復帰を実現するための和解にかけてきたわけですが、その和解も、被告の方の非常にかたくなな態度のために判決を余儀なくされました。
その判決の中でも、裁判所において、こういう問題についての、まだかなり古くさい、かたくなな考え方が根っこにあるということをみせつけられると、こういった問題の解決には、まだまだ、いろいろな試みや闘いが、これからも積み重ねられていかなければならないのでしょう。
今回の判決で、障害者差別の大きな壁を、まざまざと、改めて感じさせられという気がします。だからといって、これでべつに諦める必要はないので、いろんな工夫をこれからもやっていけば、必ず理解は進んでいくと思うのです。
今日の判決をきいて、感じたことは、もしかしたら敗訴になる可能性があると、ということも考えていましたが、完全な敗訴というのは、今までの私の思いとは別に、裁判の過程では、完全敗訴という形での進行ではなかったので、びっくりしたということです。
優生思想に立脚した判決 徳見康子 (原告)
もしかしたら敗訴になる可能性がある、ということも考えていましたが、完全な敗訴には、びっくりしました。
今までの私の思いとは別に、裁判の過程では、「原職復帰に向けて検討せよ」という和解勧告が裁判所から出され、裁判の進行は、大半がその流れだったからです。
判決内容をざっと読んで……
当初は「裁判所も、横浜市と感覚は同じだな」と感じました。
被告側の証言において、解雇した当時の係長が、私の左手は全く動かないと証言しました。完全にそれはウソだったわけですが、「左の指はピクリともうごかないから」、とか「車椅子の者は中腰で仕事ができないから」などという項目を並べて、解雇を強行したわけです。
「子どもの唇をめくれない」「綿棒をもって子どもの唇の歯を、こうやって、診ることができない」――だから解雇は正当という裁判所の判断は、何を根拠にしたものなのか、まったく分かりません。
私が歯科衛生士の仕事ができるか、できないかというのは、歯科衛生の知識を持っているかどうかでもない。子どもに対する指導のノウハウだったり、子どもの気持ちをつかんで指導ができるかどうかでもない。たった一つ、私に欠けているのは、「左手の握力は小学校低学年の女子程度で、特に左手母指の筋力が著しく弱いから、消毒がうまくできず、子どもの口びるや歯肉を傷つけるおそれがある。だからそんな指先で子どもの唇をめくれないからそもそも(仕事をするのは)無理なんだ」と、一方的に決めつけた判断だけです。
これだけの判定で解雇は正当とするならば、「ひじを宙に浮かせた状態で注射がうまくできない医者は医師として認めない」と言っているようなものです。
今学校で、いろんな検診があります。もうすぐ、目の検査があります。そのときに、子どものまぶたを「あっかんべー」させて診ることができない目医者さんは、眼科医としての資格剥奪に値するでしょうか。実際は、子ども自身が「あっかんべー」したりするのに……。
判決文をじっくり読んだら……
被告のいう「車椅子ではダメ」ということについては、そうは言わずに、「(解雇当時も今も)立つことができない」と何度も繰り返し述べていて、その一方で「座っても(仕事が)できる」とも言っている。この矛盾はどうにも理解しがたい。
この判決は学校保健会が、「車椅子では何もできない」ということを前提に言ってきたことと同じか、それ以上に、「(徳見は)左手親指・左腕ひじ上げの障害が問題だ(?!) 手がフルエて子どものツバをぬぐえないキタナイ手で検査されたら、子どもたちも気分が悪い……」と強調している。
つまり、この判決は、「障害者は見苦しくて不潔で不愉快」「身体の不満足な部分を機器や装具で補うことができ、健常者と全く同じ姿勢で労働できない者はダメだ」と述べている。これはまさに障害者への差別・偏見であり、優生思想そのものに立脚した結論にほかならない。
障害は「悪」ですか?
それからもう一つ、自分から会社を辞める、もしくは辞めさせられる場合に、いろんな制度があります。例えば雇用保険(失業保険)という手続きがあります。収入がゼロになりますから。しかし、被告は雇用保険の手続きもいっさいしておりません。さらに、障害者を解雇した場合、職安(労働省)に報告する義務があるのですが、その手続きもしておりません。
介助者に子どもの口を開けてほしいなどと全く要求していないのに、「介助者が口びるを開けるわけにはいかない」し、「解雇に至る手続きはきちんとやっている」からと、ここでも一方的に認定しています。憲法も労働基準法も吹っ飛んでしまった……!
今回の一審判決をみると、障害者が生きていく上で、考え方が間違っている以前に、「障害者はこうなんだ」という差別と偏見――これは10年前も今も、全く変わっててないということだと思います。残念ながら。
私は、そして私たちは、なぜ障害を、「悪いこと」としてクビの対象にするのか、「それはやっぱりおかしいよ」と言い続けていきたいと思います。
障害者差別は「バリアフリー」では決してなくならないんだよ、ほんとうに!