控訴理由書 |
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平成16年4月15日
東京高等裁判所第5民事部 御中
第1 原判決の論理と問題点
1 原判決の論理
原判決は次のような理由で控訴人(原告)の請求を全面的に棄却した。
(1) 「原告は,小中学校の児童に対する歯科巡回指導を行う歯科衛生士として,あらかじめ職種及び業務内容を特定して被告に雇用されたのであるから,特定されたこの職種及び業務内容との関係でその職務遂行に支障があり又はこれに堪えないかどうかが,専ら検討対象となる」(原判決 20頁)。
(2) 「原告の身体,特に左上肢には麻痺(不完全麻痺)があり,左上肢の上下動等の動作自体は可能であったものの,左上肢,中でも左手の動きを自己の意思で確実にコントロールすることは困難な状態にあり,左手で微細な動作を的確に行うことはできなかったこと,このような左上肢の機能の制限状況は,平成14年10月31日当時まで変わりがなかった」(原判決 21頁)。
(3) 「被告において,歯科衛生士が行う歯科巡回指導の中心的かつ不可欠の要素となっているものは歯口清掃検査であり」「歯口清掃検査について見てみると,……@歯科衛生士が,検査対象児童の口腔内をのぞき込むことができる適切な視線の位置(高さ)を確保する,A歯を覆っている唇あるいは口付近の肉を検査の邪魔にならないよう押し広げるなどし,歯をむき出しにする,以上の2点が最低限必要である」(原判決 22頁)。
(4) 「@については……適切な視線の位置の確保のためには歯科衛生士及び検査対象児童が起立することが不可欠というわけではなく,歯科衛生士が着席した姿勢であっても,検査対象児童をいすに座らせ,場合によっては児童に指示して,児童自身に頭の位置を動かすようにさせるなどすることで適切な位置を確保することができ,児童が着席に要する時間を短縮する必要があれば,児童が座るいすを複数用意し,次に検査を受ける児童をあらかじめ座らせて待機させること等によって対応できるものと認められ,このような方法を採ることにより,検査対象児童に対し看過し難い悪影響を与える,あるいは歯口清掃検査が著しく停滞するなどの事情は認められないから,車いすを使用する原告であってもこのような方法で検査を行うことができるので
はないかと思われるところである」(原判決 22から23頁)。
(5) 「 他方,同Aについては,上記1(2)認定の事実によると,被告の歯科衛生士は,歯口清掃検査のために,歯を覆っている唇をめくったり押し下げたりし,口の周りの肉を押し広げるなどして歯をむき出しにした上で,歯,歯茎等,口腔内の状況をチェックし,その際,原告が巡回指導に従事していた当時は,歯科衛生士が指にサックを付け,一人検査するごとに,付近に置いたアルコール綿で指先を消毒しながら直接検査対象児童の唇に触れており,現在では,綿棒を用いて唇を持ち上げるなどし,歯の表面をぬぐって歯の状態を検査しているというのである……。以上のような要請を満たす検査を行うには,歯科衛生士は,自分の両上肢の動きを自己の意思で完全にコントロールし,手指を用いて細かな作業を行うことができなければならないというべきであるところ,上記(1)のような原告の左上肢の状況にかんがみると,原告の左上肢は,このような作業を行うには堪えられなかったことは明らかであり,結局,原告は,本件解雇当時,歯口清掃検査を行うことができない状態にあった」(原判決 23から24頁)。
(6) 「原告はこのように被告の業務中最も重要な意味を有することが明らかな歯口清掃検査そのものを行うことができないのであるから,本件解雇当時,原告が勤務条件規程3条3項2号『心身の故障のため,職務の遂行に支障があり,又はこれに堪えない場合』に該当していたものといわざるを得ない」(原判決 24頁)
(7) 「原告は,本件解雇は,単に原告に身体障害が存在することを理由とするものであるから,介助者付きの原職復帰を認めずにした本件解雇は憲法14条1項,労働基準法3条違反である旨主張するが,上記左上肢の機能の制限は,歯科衛生士としての資格を持つ原告自身が行わなければならない事柄に関する問題であって,介助者の有無によって結論に差異をもたらすものではないから,原告の主張は前提を欠いている」(原判決 24頁)。
(8) 「被告が原告に対し,平成4年2月以降,原告の身体状況を客観的に把握するため再三にわたって診断書の提出を求め,3度にわたって弁明の機会を与えた上で,諸事情を検討の上本件解雇を行ったことは上記1(3)認定のとおりであり,本件解雇が解雇権の濫用に当たると認めるに足りる事情を認めることはできない」(原判決 24から25頁)。
(9) 「このほか,原告は,原告が障害者となったのは,被告職員としての過重な勤務に基づくものであり,そのような関係にある原告を解雇することは権利の濫用である旨主張するが,この主張に沿う事実を認めるに足りる証拠は見当たらない」(原判決 25頁)。
2 原判決の誤り
(1) 原審の経過
原審では、弁論における双方の主張とビデオテープ等を含む書証の取調べを踏まえて、裁判所は、2001年3月から、双方に和解を打診し、事実上の和解期日がもたれた。この中で、裁判所は被控訴人に対し、控訴人を復職させることによる和解の検討を求めた。しかし、被告は回答を引き延ばしたあげく、理由も明らかにせずに「復職には応じられない」と繰り返すばかりとなり、2002年3月には裁判所はこれを打ち切った。そして、2002年5月から10月まで証人等の尋問を行ったうえで、裁判所は再び和解を勧告し、同年12月から、2003年8月まで和解期日がもたれた。この間、裁判所は明確に控訴人を職場復帰させる内容の和解を勧告し、受け入れ態勢を整えるための配慮もあって、時間をかけて話し合いを進めた。しかし、被告は、結局、和解としても金銭的な解決しかない、として職場復帰を拒んだ。そのため、和解の余地はなくなり、判決に至ったものである。
(2) 判決の問題点
このような経過を踏まえての判決であっただけに、「原告の請求を棄却する」との結論は控訴人にとっては予想外であった。そして、単に主観的に予想外であるにとどまらず、審理の流れに沿わない結論であり、解雇を正当と認めた理由も被控訴人の主張とは異なるものであって、実質的に争われてきたことと異なる恣意的な争点の設定、実質的に争いのない事実を認定しない等の不自然な内容になっている。
以下、次の項目に整理して、具体的に検討する。
@ 障害者の解雇と障害者の人権(第2)
A解雇に至る手続の不備(第3)
B控訴人の就労可能性(第4)
第2 障害者の解雇と障害者の人権
1 はじめに
障害者の働く権利と解雇制限の法理については既に原審でも主張したが、和解は積極的に勧めたものの判決において解雇を容認してしまった原審は、障害者の労働を基本的人権と捉えることができず、「恩恵」としか見ていなかった不見識を露呈している。かかる判断が繰り返されないために、本書面においても、改めて、障害者の基本的人権としての働く権利についての考え方を論ずる。
障害者の働く権利を侵害する解雇は、障害者に対する差別であり、憲法14条1項、労働基準法3条に違反するものである。
2 横浜市の「基本方針」
横浜市は「横浜市職員への身体障害者雇用について―基本方針――」(甲50)を策定している。これは、横浜市職員の採用にあたり、「働く意志と能力のある身体障害者に就労の途を開」こうとするものであり、自力通勤、自力勤務を要件としつつも、「適職の拡大を図るため、各職場での理解と協力のもとに、職務内容等の検討を行い、障害者個々の特性にあった職務・職場の確保に努める」「障害を有する職員の勤務しやすい職場環境を確保するため、必要に応じ施設・設備等の改善に努める」等の方針が示され、さらには「この基本方針に準じて、本市外郭団体等関係機関についても身体障害者雇用促進に協力を要請する」としている。横浜市の「外郭団体等関係機関」にあたる被控訴人についても、この基本方針が適用されることは当然である。
そしてこの基本方針は、次に述べる障害者の雇用に関する権利確立の経緯の中に位置付けられるものである。
3 障害者の雇用に関する法・政策
1981年の国際障害者年の「完全参加と平等」の理念は、障害者基本法の基本的理念として位置付けられ、同法3条に「すべての障害者は、個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有する」と規定された。
1983年に採択され、日本でも1992年に批准・発効した「障害者の職業リハビリテーション及び雇用に関する条約」(ILO第159号条約)は、国際障害者年の理念を雇用の場において具体的に保障しようとするものである。この批准を受けて、障害者基本法は1993年(平成5年)の改正で障害者の雇用促進を国及び地方公共団体の責務とし、そのための施策を講ずることを義務付けている(同法15条)。
一方、障害者の雇用の促進に関する法律(甲8 464頁以下)では、「障害者がその能力に適合する職業に就くこと等を通じてその職業生活において自立することを促進するための措置を総合的に講じ、もって障害者の職業の安定を図る」ことを目的に掲げ(1条)、基本理念として「障害者である労働者は、経済社会を構成する労働者の一員として、職業生活においてその能力を発揮する機会を与えられる」とし(2条の2)、事業主の責務として「障害者である労働者が有為な職業人として自立しようとする努力に対して協力する責務を有するのであって、その有する能力を正当に評価し、適当な雇用の場を与えるとともに適正な雇用管理を行なうことによりその雇用の安定を図るように努めなければならない」と定める(2条の4)。また、国及び地方公共団体に対しては「障害者の雇用について事業主その他国民一般の理解を高めるとともに、事業主、障害者その他の関係者に対する援助の措置及び障害者の特性に配慮した職業リハビリテーションの措置を講ずる等障害者の雇用の促進及びその職業の安定を図るために必要な施策を総合的かつ効果的に推進するように努めなければならない」としている(2条の5)。障害者の雇用の促進は、国及び地方公共団体の法的義務なのである。
なお、障害者の雇用の促進に関する法律は逐次改正がされているが、これらの規定はいずれも昭和62年の改正までに設けられている。
また、平成10年4月に労働省が策定した「障害者雇用対策基本方針」(甲37)では、「ノーマライゼーションの理念の実現のためには、障害者の社会的な自立に向けた基盤づくりとして、職業を通じての社会参加を進めていくことが基本となる。このため、障害者が……可能な限り一般雇用に就くことができるようにすることが重要」として、事業主が行なうべき雇用管理の指針を示している(甲37 1、2、10頁以下)。そのなかで、肢体不自由者については、「通勤や職場内における移動ができるだけ容易になるよう配慮するとともに、職務内容、勤務条件等が過重なものとならないよう留意する。また、障害による影響を補完する設備等の整備を図る」とし、中途障害者については、「円滑な職場復帰を図るため、必要に応じて医療・福祉機関とも連携しつつ雇用継続のための職業リハビリテーションの実施、援助者の配置などの条件整備を計画的に進める」としている(甲37 12頁)。
これらは障害者の雇用を促進する上では当然のことであって、それ以前にもなすべきであったことを具体的に確認したものである。
なお、事業主に対してはさまざまな援助制度が整備されてきており、中途障害者に対しても雇用の継続を図るための助成制度がある(甲9「各種助成金のご案内」(平成12年度版)25頁)、甲26「各種助成金のご案内」(平成13年度版)26頁)、甲27「障害者雇用継続助成金のごあんない」)。
甲42「除外率設定業種における障害者の雇用促進」(厚生労働省、日本障害者雇用促進協会)では、障害者の就労が困難とされてきた職種についても、積極的に雇用を促進すべきであるとして、医師、大学教員等として障害者が活躍している例を多数紹介している。
4 職場環境整備の必要性
障害者が働くための職場の環境の整備・調整については、次のように論じられている。
「物理的環境の整備の例としては、車椅子使用の労働者に対しては、事務処理台の高さを車椅子に合わせるよう調整すべきことは当然であろう。また、通路も、車椅子が支障なく通れるように一定の幅を確保し、段差をなくすこともまた当然のことになる。……もし、体調が不安定であったり過度の緊張が症状を悪化させるような場合は、職場の近くに休憩所を設けるとか、労働時間を短くしたり、体調の安定する時間帯を労働時間とするよう調整したりする必要がある。……また、援助者をつけることによって、障害をもつ労働者が現にもっている能力を発揮しうるような場合もある(援助付き就労)。このように障害の種類、部位、程度によって調整の方法、程度は異なるので、すべて個別に対応する必要がある」(甲91「障害をもつ人の人権」250頁)。
原判決は、一定の範囲で職場環境整備義務を認めたと解されるが、その範囲が限定的であり、しかも障害の内容、労働能力についての判定を誤ったために不当な結論を導いたものである。
5 これまでの裁判所の判断
古くは、新潟地裁昭和54年12月24日判決(労旬993・84、甲91 247頁)において、恒常的に本態性高血圧にあったタクシー運転手の解雇について、症状が安定するにいたり服薬を継続することで正常な就業が可能になったとして、解雇無効としている。
札幌地裁昭和61年5月23日判決(判時1200・51)において、ペースメーカーを装着した心臓疾患を有するタクシー運転手に対する解雇を無効としたが、その理由として「被告は原告が完全房室ブロックにより心臓を植え込んだこと及び右症状により障害度1級の身体障害者としての認定を受けたことから、それ以上の調査、検討を何らすることなく……解雇した」ことをもって解雇権の濫用であるとしている。
札幌地裁小樽支部平成10年3月24日判決(労判732・26)は、右半身不随となった保健体育教諭の解雇を無効としており、障害を負ったことだけで安易に解雇することは許されないとしている。なお、この判決では、障害を持つ者が教育現場で働くことの教育的意義について言及している。
ほかに、腎臓透析治療を受けているタクシー運転手の解雇を無効とした決定がある(山形地裁酒田支部平成9年4月4日決定、甲91 251頁注14)。
6 本件解雇について検討すべきこと
以上のとおり、障害者の雇用及び雇用継続のために事業主が労働環境を整備すべきことが求められているのであり、解雇の正当性もこれを前提に判断されるべきである。
即ち、障害者を解雇するに当たっては、原職復帰可能性について、身体状況の正確な把握はもとより、職場の改善、補助器具の利用等の可能性も含めて具体的に十分な調査・検討を加えた上で職務遂行の可能性を検討すべきである。このような検討を経ない解雇は障害者差別として許されず、その意味で一連の障害者政策は解雇権を制限するものと解されなければならない。そして、かかる規範は、本件解雇時である平成7年(1995年)1月19日の時点で既に確立していた。
被控訴人は、控訴人を解雇した根拠として、被告の勤務条件に関する規程(甲1)3条3項2号の「心身の故障のため、勤務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合」にあたるといい、具体的には、「自力通勤、自力勤務」ができないからだという。
しかし、この規程に該当するかの判断にあたっては、控訴人の身体状況を正確に把握することはもとより、職場の改善、補助器具の利用等の可能性も含めて具体的に十分な調査・検討を加えた上で職務遂行の可能性を判断しなければならない。
また、本件では判断要素として次の点も考慮されるべきである。
教育現場で障害を持つ者が働くことには教育的効果という面からも意義がある。被控訴人は実質的には横浜市教育委員会と一体となっている団体であり、国や横浜市の障害者雇用促進の方針を率先して果たすべき立場にある。
被控訴人は、「車椅子利用即就業困難」という固定観念から安易に解雇を決定したものであり、そもそも就業可能性についてかかる検討を怠って解雇を断行したものである。原判決は、車椅子でも、就労の可能性を認めており、この点、被控訴人の主張を認めてはいないが、むしろ被控訴人が具体的には主張していなかった業務の困難性を創作して認定しまっており、より慎重な検討が必要であった。
7 特に、業務起因性の障害であることについて
中途障害の原因が業務上のものであれば、療養のため休業する期間など一定期間は解雇してはならない場合がある(労働基準法19条1項本文)が、これは、業務上の事故などによる障害(疾病)は、本来事業者が労働者に対して負っている安全配慮義務を尽くさなかったことが原因であると考えられ、また、業務上の労働者の活動は使用者の利益のためであること、また使用者の支配下にあったことなどから解雇を制限したといわれている(甲91 247頁)。
このような業務起因性を理由とする解雇制限の考え方を踏まえて、控訴人は原審において、控訴人が障害者になったのは、被控訴人の職員としての過重な勤務に基づくものであり、その原告を解雇するのは権利濫用であると主張し(訴状15から16頁)、また解雇無効の判断要素の一つとして、控訴人はもともと職業病に起因する中途障害者であることを指摘した(最終準備書面 5頁)。
これに対し、原判決は、「この主張に沿う事実を認めるに足る証拠は見当たらない」(25頁)として認めていない。しかし、少なくとも、業務上認定がされていることについては争いはない(答弁書5頁)のであり、それを無視して業務起因性の障害であること自体を認定せず、これを解雇制限の一要素として考慮することすらしないのは、きわめて不公正な事実認定といわざるを得ない。
第3 解雇に至る手続の不備
1 はじめに
第2に述べたように、障害者の解雇にあたっては、障害の内容を正確に把握した上、業務遂行可能性について、職場環境の調整を含めて検討する必要があり、かかる検討を経ない解雇はそれ自体違法で無効といわねばならない。
しかし、原判決はこのような一般論自体について認めることをせず、「被告が原告に対し,平成4年2月以降,原告の身体状況を客観的に把握するため再三にわたって診断書の提出を求め,3度にわたって弁明の機会を与えた上で,諸事情を検討の上本件解雇を行ったことは上記1(3)認定のとおりであり,本件解雇が解雇権の濫用に当たると認めるに足りる事情を認めることはできない」(原判決 24から25頁)として、この点に関する控訴人の主張を認めなかった。
原判決は、就労可能性につき十分な検討をせずに解雇することの違法性自体について認めていない点でも、本件において十分な手続がされたかのように認定している点でも失当といわざるを得ない。ここでは主に後者の点について述べる。
2 原判決の解雇理由は被控訴人の主張と異なる
本件解雇にあたって、被控訴人が十分な検討をしていなかったことは、原判決が認めた解雇理由が、被告の解雇理由と大きく異なることからも明らかである。
すなわち、原判決では歯口清掃検査について@歯科衛生士が,検査対象児童の口腔内をのぞき込むことができる適切な視線の位置(高さ)を確保する,A歯を覆っている唇あるいは口付近の肉を検査の邪魔にならないよう押し広げるなどし,歯をむき出しにする,という2点が必要であるとし、@については,やり方の工夫により、車いすを使用する控訴人でも可能であるとした上で、Aについては,控訴人が行なうのは不可能であるとして解雇を認めたのである(原判決 22から24頁)。
しかし、現実には解雇の過程でこのような検討が行なわれず、弁明以前の段階で車椅子の控訴人に仕事ができるはずがない、という思い込みから結論が出されていたことは明らかである。
3 実質的な検討はされなかった
原判決は、「再三にわたって診断書の提出を求め,3度にわたって弁明の機会を与えた」という(原判決 24頁)が、これらの経過は、真摯に解雇の必要性を検討したものではなく、いわば儀式にすぎないものであった。
診断書について言えば、乙33の診断書は、「勤務は可能である」という結論を示しているものであり、これをもって就労不能と判断するのは無謀である。記載と逆の判断をするのであれば、少なくとも、杉井医師に記載の趣旨の確認をすることが必要であろうが、診断書提出後杉井医師には何ら問い合わせの連絡もしていないのである(原告8回24頁、長島7回21頁)。
弁明の機会についても、職場環境の調整について提案しようとする控訴人に対して、「空想の話を聞いてもしょうがない」として発言を制止したために、本来その場ですべきであった、現実的な職場環境整備についての話合いはできなかったのである(原告8回27、28頁、甲56)
また、被控訴人は、解雇当時控訴人は「左手が全く動かなかった」のであり、それが解雇の根拠になったかのように言うが、これは全く根拠のない誤った認識である(原告8回33から36頁。甲60、62という客観的証拠からも明らか)。さすがに原判決もかかる事実は認定していない。
すなわち、被控訴人は、本件解雇当時控訴人の左手が全く動かなかったのでそれが解雇の根拠になったかのように言うが、「左手が全く動かなかった」という事実が否定されたのであるから、解雇時点での検討が不十分であったことは明らかである。
4 本件において検討されるべきであった事項
本件においては、解雇の判断に当たっては、少なくとも次のような点が具体的に検討されるべきであった。
ア 身体の状況の確認
身体の状況については、まず、主治医の意見を聞くべきことは当然であるが、本件ではこれすら行なわれていない。
イ 通勤の可能性
通勤が可能であることは既に原審において主張立証を尽くした。原判決も直接は言及していないが、通勤が可能であることは認めていると解される。
ウ 就労環境の整備
被控訴人は、現行の「歯科巡回指導」のやり方を画一的にとらえ、「そのとおりにできなければ」解雇できるとして、就労環境の整備についての検討をまったく怠っている。
これに対し、原判決は歯科衛生士が座って行なうやり方もありうることを認めたものの、「唇をめくったり押し下げたりし、口の周りの肉を押し広げるなど」の作業が困難であると一方的に判断した。しかし、次項(第4)に述べるように、これは実際には原判決が絶対視するほどの大きな問題でもなければ、解雇を合理化する決定的な理由になるものでもない。被控訴人も、ことさらにこの作業ができないから解雇すると主張はしておらず、実質的には争点になっていなかったところである。控訴審においてこの点は反証するが、少なくとも解雇当時問題になっておらず検討されていなかったことは明らかである。
エ 負担軽減方策の検討
環境整備にかかる負担については、さまざまな公的補助制度がある。被控訴人が形式上は民間事業者であることから、これらの制度の利用が可能である(甲9 25頁など)。
もっとも、被控訴人は実質的には横浜市と一体となっており、財政面でも全面的に横浜市に依存していることからすれば、市と協議の上被控訴人が決めさえすれば、必要な費用について市から支出を受けることができよう。
5 結論
このように判決の認定した解雇理由に照らしても、本件解雇の過程で必要な検討を欠いていたことは明らかであって、そのこと自体からしても、解雇権の濫用であり違法な解雇というべきである。
第4 控訴人が就労可能であったこと
1 原判決の解雇理由
原判決は、結局のところ、次の1点を理由に解雇を有効とした(原判決21から24頁)。
「原告の身体,特に左上肢には麻痺(不完全麻痺)があり,左上肢の上下動等の動作自体は可能であったものの,左上肢,中でも左手の動きを自己の意思で確実にコントロールすることは困難な状態にあり,左手で微細な動作を的確に行うことはできなかったこと,このような左上肢の機能の制限状況は,平成14年10月31日当時まで変わりがなかった」。
「被告の歯科衛生士は,歯口清掃検査のために,歯を覆っている唇をめくったり押し下げたりし,口の周りの肉を押し広げるなどして歯をむき出しにした上で,歯,歯茎等,口腔内の状況をチェックし,その際,原告が巡回指導に従事していた当時は,歯科衛生士が指にサックを付け,一人検査するごとに,付近に置いたアルコール綿で指先を消毒しながら直接検査対象児童の唇に触れており,現在では,綿棒を用いて唇を持ち上げるなどし,歯の表面をぬぐって歯の状態を検査しているというのである。このような作業内容にかんがみると,児童の口唇部分は柔らかく傷つきやすいものと考えられるから,検査に当たる歯科衛生士は,児童の口唇に傷を付けたり,児童に不必要な痛みを与えたりしないことが強く求められるほか,唇という部位の性質土,これを触れられる当該児童ができる限り不快感を覚えないように配慮することも当然のこととして求められるところである。さらに,歯科衛生士が児童の唇等に直接触れる場合,歯科衛生士の指先に児童の唾液が付着することは避けられないところ,衛生上の観点から,指先を確実に消毒してから次の児童の検査に着手することが不可欠であるし,綿棒を使用する場合には,細く軽い綿棒を確実に持って動かし,必要な位置にこれを動かすことができなければならないことは当然である。
以上のような要請を満たす検査を行うには,歯科衛生士は,自分の両上肢の動きを自己の意思で完全にコントロールし,手指を用いて細かな作業を行うことができなければならないというべきであるところ,上記(1)のような原告の左上肢の状況にかんがみると,原告の左上肢は,このような作業を行うには堪えられなかったことは明らかであり,結局,原告は,本件解雇当時,歯口清掃検査を行うことができない状態にあった」。
「原告はこのように被告の業務中最も重要な意味を有することが明らかな歯口清掃検査そのものを行うことができないのであるから,本件解雇当時,原告が勤務条件規程3条3項2号「心身の故障のため,職務の遂行に支障があり,又はこれに堪えない場合」に該当していたものといわざるを得ない」。
2 ビデオテープによる実演
控訴人が現に、判決の指摘する動作が可能であり、検査業務ができることは甲51(甲18から番号変更)のビデオテープからも明らかであり、この点の能力については、解雇当時もこのビデオの撮影当時も変化していない。ただ、甲51は主に争点になっていた検査時の姿勢や位置関係について立証するものであったため、検査時の控訴人の指先の動きを直接写してはいないので、この点については追加立証を準備したい。
3 身体能力認定の根拠が薄弱であること
原判決が「原告の身体,特に左上肢には麻痺(不完全麻痺)があり,左上肢の上下動等の動作自体は可能であったものの,左上肢,中でも左手の動きを自己の意思で確実にコントロールすることは困難な状態にあり,左手で微細な動作を的確に行うことはできなかったこと,このような左上肢の機能の制限状況は,平成14年10月31日当時まで変わりがなかった」(原判決 21頁)と認定した根拠は、被控訴人側の長島証人の証言と、控訴人(原告)本人尋問の結果であり、特に控訴人本人尋問により長島証言が裏付けられたかのように解しているようである。
しかし、控訴人本人尋問の内容は次のようなものであった。(原告 8回34〜35頁)
(原告) 最初は左手は震えないんですが,繰り返しずうっとやっていると,肩よりかなり,肩程度だったり,宙に上げ続けていると,力不足で左手が実はその当時から,今もそうなんですが,左手が震えてしまいます。仕事上はそういう状態です。
(原告代理人)あなたとしては長く左手を上げた状態だと震えてくるから,そうならないようないろいろな仕事上の工夫をしたいということを言っていたわけですね,その当時から。
(原告)そうです。
(原告代理人) 乙第39号証の長島さんの陳述書の5ページの一番下の2行なんですが,「この当時の 徳見さんの左手の状態として,左手が震えてしまい,仕事をするにも力が不足していると述べました」。これはまあ必ずしも正確ではないんだけれども,まあ徳見さんが言っていることとしては,それに近かったわけですね。
(原告)手を上げていれば,こういう状態になると。下げていれば別でございます。
つまり、控訴人の供述の趣旨は、肩の位置まで繰り返し長時間左手を宙に上げ続けていれば左手が震える、しかし手を下げた状態で行なえばそのようなことはないので、長時間高い位置で宙にあげ続けるようなやり方でない工夫をすればできる、(だから仕事上の工夫をしたい)と述べているのである。そのような状態(工夫すれば仕事はできる状態)が「当時から、今も」存在する、ということである。
原判決はこれをあえて曲解して、控訴人が業務を行なう能力がないことを自認しているかのごとく取り上げて誤った認定の根拠にしたのである。
また、原判決は「左手の握力は9ないし12キログラムと,小学校低学年の女子程度のレべルしかなく,特に左手母指の筋力が著しく弱い状態にあった」としており(原判決 21頁)、これも控訴人の本人尋問を根拠にするものと思われるが、尋問内容は次のようなものであった(原告 8回25頁)。
(原告代理人)その点(左手が全く動かない状態であるという長島証言)については、杉井先生はどう言っていらっしゃいましたか。
(原告)ええっ、何でそんなことをという、びっくりされた感じで。徳見さんの腕が動かないという認識はないと。実際にその当時のカルテを御覧になりました。認識そのものがない中で、更にカルテを見たら、やっぱりちゃんと書いてあるわ、左手の握力は9。
(原告代理人)9キログラム。
(原告)はい、9キログラムないしは13キログラム。症状固定しているから大体その範囲ぐらいで力はあるという。それを全く動かないというふうに勘違いされたのはちょっとわかりません、とびっくりされていました」。
すなわち、左手が全く動かない、という長島証言を否定する趣旨で少なくとも9キログラムないしは13キログラムの握力はある、と述べたことを不正確に理解し、かつこれを逆手にとって、動作能力が欠如しているかのように決め付けているのである。
また、この数値が、ただちに「小学校低学年の女子程度のレべル」といえるのか、そうだとしたら検査の動作ができないといえるのかについても何ら根拠は示されていない。常識的には小学校低学年の女子でも唇をめくる程度の力はあると考えられる。
4 作業動作と負担について
(1) 原判決は、検査の内容を次のように認定している(13〜14頁)。
「歯科衛生士は,児童の歯を覆っている唇をめくり,あるいは押し下げるなどして児童の歯をむき出しにさせなければならないが,原告が巡回指導に従事していた当時は,歯科衛生士は指にサックを付け,両手の指を使って児童の唇に直接触れてこれを押し広げて歯の状態を見,一人の児童の検査が終わると,近くの台上に用意したアルコールを含ませた綿で指先をぬぐって消毒し,すぐに次の児童の検査に取り掛かっていたものである。現在では,歯科衛生士は左手の親指と人差し指で児童のあごを支えながら右手に持った綿棒を使って児童の唇をめくり,上下左右の歯の表面及び裏面に順次綿棒を当ててその表面をぬぐい,歯の状態を確認することとしており,児童一人の検査が終わるごとに使用した綿棒を廃棄し,次の児童に対しては新しい綿棒を使用している。」
(2) 解雇当時のやり方(「歯科衛生士は指にサックを付け,両手の指を使って児童の唇に直接触れてこれを押し広げて歯の状態を見,一人の児童の検査が終わると,近くの台上に用意したアルコールを含ませた綿で指先をぬぐって消毒し,すぐに次の児童の検査に取り掛かっていた」)について言えば、要するに、繰り返し長時間高い位置に手を宙に上げ続けないようなやり方であれば、控訴人は十分に業務を遂行できるのであり、児童を座らせたり、控訴人が高い位置に座るなどすることでそれは実現可能である。児童が寝る形であればいっそう問題はない。腕を支える台を用意することでも可能である。このように歯科衛生士が中腰になって、いちいち腕を高く持ち上げて診る、という当時のやり方(もっとも当時も必ずそうしていたわけではなかった)に固執しなければ、可能なやり方はいくらでもあった。
(3) また、現在のやり方(「歯科衛生士は左手の親指と人差し指で児童のあごを支えながら右手に持った綿棒を使って児童の唇をめくり,上下左右の歯の表面及び裏面に順次綿棒を当ててその表面をぬぐい,歯の状態を確認することとしており,児童一人の検査が終わるごとに使用した綿棒を廃棄し,次の児童に対しては新しい綿棒を使用」)では、左腕のひじは下がっていて児童のあごを支えているのであるから「左手のひじが高い位置で宙に浮いている」状態ではないのであり、左手は震えることはない。右手は問題ないので、「児童の口唇に傷を付けたり,児童に不必要な痛みを与えたり」することは、全くない。すなわちこのやり方なら控訴人にとっていっそう仕事はやりやすい。
(4) 判決は、「左手の動きを自己の意思で確実にコントロールすることは困難な状態」であったという(21から22頁)。しかし、原告が述べたのは、繰り返し長時間手を高く上げた状態を続けた場合であって、このような動作をすれば格別障害のない人でも程度の差はあれ疲労感やしびれを感じてもおかしくない。
控訴人は現に運転免許停止にはなっておらず、運転動作が可能であることをいわば公的に認められている。また、趣味と機能回復・維持を目的にチター(弦楽器)を日常的に(しばしば一日4から5時間)演奏している。控訴人の能力が「左手の動きを自己の意思で確実にコントロールすることは困難」であるとは言いがたい。
5 結論
このように、原告はわずかな工夫をすることで、十分被告における歯科衛生士としての業務を遂行することができたのであり、この点からも解雇は違法である。
以上
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