長島清 現在御庁において審理中の、平成12年(ワ)第2100号雇用関係確認等請求訴訟(原告・徳見康子氏、被告・横浜市学校保健会)に関して、以下のとおり陳述します。 第1 経歴 1 私は、平成5年5月14日から平成7年6月6日まで、横浜市学校保健会(以下単に「学校保健会」と言います)の理事をしていました。 この期間は同時に、私が、横浜市教育委員会学校保健課保健係長の役職にいた期間でもあります。 すなわち、学校保健会規約第5条Bによると、学校保健会の理事の一部は横浜市教育委員会事務局から選出することになっていますので、私もこの規定に従って、係長に就任するのに伴い、学校保健会の理事になった次第です。 2 私と同じ期間、佐藤壽さんという方が学校保健会の常務理事であり、また同時に横浜市教育委員会学校保健課長でもありました。これも、学校保健会規約5条Cにより、常務理事は横浜市教育委員会の学校保健課長をもってあてるとなっているので、同課長就任と同時に常務理事にもなったわけです。 3 なお、私は昭和44年8月1日付けで横浜市職員に採用されました。現在は横浜市交通局に勤務しています。 第2 徳見さんを免職するに至った経過 1 私が学校保健会の理事に就任する以前から、徳見さんは既に長期間職務についていない状態が続いており、私が着任した平成5年5月14日の時点では、給与も支払われない「欠勤」が続いていました。 2 私が着任した時点で、前任者から聞いた話の内容としては、徳見さんは体が不自由であり自由な動作ができず、日常は常に車椅子で移動したり生活をしているとのことでした。 そして、学校保健会での歯科衛生士としての業務には耐えられないようだということでした。 3 その後、以下に述べるとおり、私も在任中に何回も徳見さんとはお会いしていますが、その際の印象も前任者から聞いていたとおりでした。 4 私が着任した当時の徳見さんに関する状況を一言で言えば、徳見さん側から学校保健会に対しては、介助者を付けたままの状態で職場復帰を認めてほしいという要求が出され、学校保健会側はこれを拒否しているという状況で、たとえば平成5年3月10日にも徳見さんからは学校保健会に対して職場復帰の申入書(乙40号証)が提出されましたし、私が着任した後の平成5年12月17日にも、徳見さんから「平成6年1月4日から自主出勤する」との申出がありました。 5 平成5年12月27日に学校保健会では臨時部会長会が開催されて私も出席しました。 この会議では、徳見さんから出されている「職場復帰」の申出について、経過報告の上で対応を協議しましたが、復帰の可否を判断するための資料として診断書の提出を徳見さんに求めることになりました。 実はそれまでにも、学校保健会としては徳見さんに対して、症状を確認するための診断書の提出を求めたり、病院での診察を求めたりしていたのですが、徳見さんの方がそれを拒否しつづけてきていたのです。 6 平成6年1月4日に、徳見さんが、横浜市教育委員会学校保健課を訪れました。徳見さんは、後記のように「自主出勤闘争」と称して学校保健課の執務室に来るようになり、この1月4日はその初日でもありました。 これに対して応対したのは佐藤さんや私などでしたが、その席上でも徳見さんに対して診断書の提出をお願いしました。 なお、この日の話し合いの最後に、徳見さんは要望書を読み上げ、これを提出して帰っていきました。その要望書は乙41号証のとおりです。 この要望書を見ても分かるように、その当時私たち学校保健会から徳見さんに対して、その当時の徳見さんの身体の状況では実際に歯口清掃検査や歯科保健指導など、学校保健会の歯科衛生士が行っている歯科巡回指導等の職務はできないとの指摘に対して、徳見さんはこれに反論するのではなく、「自分の身体の状態に合った勤務体制と仕事を提供してほしい」と主張するばかりでした。 7 先ほども述べましたが、徳見さんはこの平成6年1月4日から同年6月10日ころまで「自主出勤闘争」と称して横浜市教育委員会の学校保健課の執務室に来るようになりました。その頻度もほぼ毎日来ていました。 徳見さんが、こうして学校保健課に来る時は、いつも車椅子を使用し、これを別の介助者の方が押して来ていました。また時には介助者のほかにも支援者と思われる人が何人か同行してきたこともあります。そして、こうしてやってきた徳見さんや介助者や支援者の方は、学校保健課の執務時間中は、要するに朝からタ方まで居つづけて雑談をしたりして一日を過ごしていました。 なお、学校保健会の執務室は、平成2年5月までは横浜市教育委員会学校保健課と同じ関内駅前第一ビルの4階にありましたが、その後、別の建物である教育文化センターの地下1階に移転して現在に至っています。したがって、徳見さんが「自主出勤闘争」をしていた平成6年当時も、既に学校保健会は教育文化センター地下1階に移転したにもかかわらず、徳見さんは、以前学校保健会があった同じ場所である横浜市教育委員会の学校保健課の執務室に来ていたわけです。 8 平成6年2月23日になり、徳見さんは診断書1通を持参して来て私たちに提出しました。その診断書は乙31号証のとおりであり、村市医師が平成6年2月8日付けで作成されたものでした。 9 この診断書提出を受けて、平成6年3月8日に臨時部会長会が開催され、私や佐藤常務理事も出席しました。 この会議の席上、徳見さんから2月23日に提出された上記村市医師の診断書の内容について検討しましたが、この診断書には「内科的健康診断の結果……(中略)……勤務に差支えないものと認める」と記載されてはいましたが、記載自体からも分かるように、この診断書では内科的な診断をしたにすぎず、歯科衛生士として具体的に学校保健会で行っている歯科巡回指導等の職務に耐えられるかどうかが分かりませんでした。 そこで、平成6年3月17日に徳見さんと話し合うための弁明を聞く場を設けることとなりました。 10 ところが、そのことを3月14日に徳見さんに口頭で伝えたところ、翌3月15日になって徳見さんは、これを拒否してきました。 その理由は、学校保健会としては3月17日の弁明の機会での徳見さんの同席者は介助者1名に限り、また、ビデオカメラによる撮影やテープ録音はしないでほしいとお願いしていたのに対して、徳見さんの言い分では、そのような条件付の話し合いには応じられないというものでした。 結局予定通りの弁明の機会は開けず、3月17日は臨時役員会となりました。 11 平成6年3月17日の臨時役員会では今後の対応を協議しましたが、もう一度徳見さんに診断書の提出を求めようということになりました。 そこで平成6年3月22日付けの学校保健会の会長名の文書で、徳見さんには依頼文書(乙32号証)を出しました。 12 その結果、平成6年3月31日になって徳見さんから提出されたのが杉井医師による診断書(平成6年3月28日付け)でした。その内容は乙33号証のとおりであり、「左上・下肢の麻庫による移動・通勤に補助があり(車椅子その他)、左上肢に負担をかけなければ勤務は可能と考える」というものでした。 13 この診断書提出を受けて、平成6年4月6日に臨時役員会が開催され、私や佐藤常務理事も出席しました。 この席上で、3月31日に徳見さんから提出された上記診断書の内容を検討しましたが、この記載により、徳見さんの左上肢や左下肢は麻庫により自力で動かすことができないことがわかりました。またそのような麻庫のために、通勤に関しても勤務に関しても、介助者なしではできないことも分かりました。 そこで改めて徳見さんと話し合うための弁明の機会を設けることとなりました。 弁明の機会は平成6年4月25日に開くことなり、その内容は平成6年4月18日付けの文書(乙42号証)で徳見さんに通知しました。 14 平成6年4月25日に、子定どおり徳見さんに出席してもらい弁明の機会を開きました。 その席上で学校保健会の理事から、「歯口清掃検査を行う場合には、背が高い児童もいるし、背が低い児童もいるので、それに含わせて自分の視線の高さも合わせられるか」と質問したのに対して、徳見さんは「これまで行ってきたような、立ったままでの検査や、児童の唇を指で押し広げて行うような方法での検査はできない」ことを認めました。 また、この当時の徳見さんの左手の状態として、左手が震えてしまい、仕事をするにも力が不足していると述べました。 しかしその上で徳見さんは、子どもの口が自分の膝のところにくるようにすれば、歯口清掃検査はできると主張しました。座椅子の首あてつきのような機械を準備して、それに座らせた児童を寝かせるようにするというのです。 しかし、徳見さんが言うような方法は、例えば一人だけの児童の口の中を時間をかけて検査するのであれば可能かもしれませんが、実際には大勢の児童を前にして次々に検査を行うという現状の中では、現実的に可能な話ではありませんでした。 15 その後、もう一度徳見さんと話し合う場を設けようとの理事の意向で、平成6年5月30日に、2回目の弁明の機会を開きました。 しかし徳見さんは、その場に来たものの、「弁明の機会」という表現に反発し、「弁明の機会ではなく、自分のからだの状態に合わせた仕事内容についての話し合いにしか応じない」と主張し、実質的な話し合いはできないままで終わってしまいました。 16 平成6年8月4日に臨時部会長会が開催されました。この会議で、徳見さんが学校保健会の歯科衛生士としての職務には耐えられないということを理事間で確認し、免職を行うことを決めました。 17 そこで、平成6年12月20日付けの文書(甲2号証)で、徳見さんを平成7年1月19日付けで免職する旨の通知を行い、その通知書を徳見さんの自宅に持参して徳見さんにお渡ししました。 18 また平成7年1月19日当日にも、免職辞令を徳見さんの自宅に持参して徳見さんにお渡ししました。以上が免職に至る経過です。 第3 免職の理由 1 以上述べてきたように、免職当時の徳見さんの状態は、絶えず車椅子を使用し、左手がまったくと言っていいほど上がらないような状態でした。そしてそのことは徳見さん自身も認めていました。 なお、私は今回徳見さんが裁判所に証拠として提出したビデオテープを見せてもらいましたが、その画面に写っていた徳見さんが左手を使っている様子を見て、とても驚きました。平成6年から7年にかけての免職当時は、こんなには動かなかったはずで、左側は指先から左手、更に左腕にかけても、まったくと言ってよいほどに動かなかったはずです。 2 このように身体が不自由である以上、学校保健会の歯科衛生士としての職務には耐えられないというのが免職の理由です。 学校保健会の歯科衛生士の業務は、小学校を巡回して、児童の歯口清掃検査や集団又は個別の歯科指導を行うもので、その主な業務である歯口清掃検査では、児童が立ったままで歯科衛生士と向かい合い、歯科衛生士はその児童の口の中を覗き込むようにするわけですが、その際、児童の身長が高かったり低かったりと色々なので、歯科衛生士の方では児童の身長に合わせて、中腰になったり、座ったり、体を伸ばしたり、体の角度を変えたりして絶えず体を動かして視線の位置を確保しなければならず、様々な姿勢が要求されます。 3 また、歯口清掃検査時には、児童の歯や歯肉の状態を見るために、児童の唇を指でめくって口を開かせる必要があるなど、各児童の口唇に触れるので、当時は左右両方の親指と人差し指に指サックを付けて児童の唇をめくったり児童の顎を支えたりし、一人の児童の検査が終了する都度、アルコール綿で手指を消毒しながら検査を続ける必要があります。 しかし徳見さんは自分でも当時認めていたように、左手の筋力が低下して不自由となっており、児童の口を開いたり押さえたりすることはできませんでしたから、こうした動作をすることは無理でした。 なお、歯口清掃検査の方法は、現在は当時とは若干変わって、左手の親指と人差し指にサックをつけて、右手に持った綿棒で児童の唇をめくり、歯の表面や裏面に順番に綿棒を当てながら表面を拭って状態をみていく方式になったと聞いていますが、こうした方法であっても徳見さんにはそうした動作はできないはずです。 4 さらに、歯科巡回指導の中の仕事の一つとして、各教室で行う歯科衛生集団指導がありますが、このような場合にも歯科衛生士は教室の中の児童の机の間を巡視しながら、手の動きの悪い児童に対しては手を添えて指導するなどの歯科指導をするものですが、徳見さんにはこうした歯科集団指導も無理でした。 5 徳見さんの方では、様々な器械や道具を使用し、車椅子を使用したままでの検査を主張していましたが、小学校で児童を対象とする検査や指導の実情から考えると、実際のそのような職務の遂行は不可能です。 こうした事情ですので徳見さんの免職はやむを得なかったと思います。 平成14年5月14日 |