2002年10月23日 原告・徳見康子 この陳述書(2)では、解雇後の被告との交渉の経過および、介助者を必要とする私の生活の現状と、職場復帰した場合に予想される状況などについて述べます。 第1 解雇後の経過 1.1995年1月19日の解雇以来、障害者になったことを理由に解雇するのは障害者差別であるという認識のもとに、私の解雇問題に取り組む人たちが集まり、「障害者の労働・差別を考える会(以下、障労といいます)」が、同年9月に結成されました(代表・加藤彰彦元横浜市大教授)。 2.この問題は、市議会でもとりあげられ、同年3月に、木内博市会議員が、当時の吉川春二教育長に質疑をおこなっています(甲第64号証)。 吉川教育長は、被告学校保健会が私の解雇を検討していた時期に、学校教育部長であり、同時に保健会の副会長でもありました。「自主出勤」の間に2回おこなわれた「弁明の機会」にも出席しておりました。 この答弁の中で、教育長は、「市では自力通勤・自力勤務が条件であり、徳見の体の状態では、歯科衛生士としての仕事は無理である」という、これまでの市や学校保健会の主張を繰り返すだけでした。また杉井医師の診断書(乙第30号証)については「歯科衛生士の業務の細かい内容が分からない状態での診断書であると解釈した」として、まったく検討の対象にしなかったことをうかがわせています。 3.また、1年後の96年2月29日には、与那原寛子議員が、同じく吉川教育長に対して、質問しています(甲第65号証)。このなかで、教育長は、「障害を持った方々が学校現場で就労なさるということは,児童生徒にとって教育的に価値があるというふうに思っております」と答弁しています。 4.私を解雇した学校保健課の管理職(佐藤寿課長・長島清係長)が異動し、新たな管理職が着任したので、障労では95年6月22日に、市長および保健会会長あてに解雇の撤回をもとめる「要望書」を提出しました(甲第66号証)。 これに対して7月31日づけで、市および保健会から回答がありました(甲第67号証・甲第68号証)。いずれも、解雇は「弁明の機会などを通し、相当の時間をかけて検討した」ことを述べた簡単なものです。 5.この「回答」は、要望書の回答になっていないということで、その問題点を明らかにしつつ、11月7日再度要望書を提出いたしました。今回は、市長あて(甲第69号証)、保健会あて(甲第70号証)を別の要望書にすると共に、学校保健課長あて(甲第71号証)にも提出しました。市長・保健会あてのものは、これまでのものと同じような内容ですが、保健課長あての要望書は、私を排除するために、車椅子で保健課の事務所に入れないように、事務所の入り口にロッカーで「バリケード」を築いたことに対して、「福祉のまちづくり」の動きや運動の観点に反するのではないかということで出したものです。 いずれも、11月末日までの回答を要請していますが、「回答を取りに来るので、その際に回答の内容に関して説明していただきたい」、という申し入れを口頭でおこないました。しかし、回答は、郵送で12月14日づけのものが届けられてきました(甲第72号証・甲第73号証・甲第74号証)。 6.その内容は、それまでと全く変わらず、「自力通勤・自力勤務の原則は、公務遂行上必要」であり、学校保健会による私の解雇は「相当の時間をかけ、結論を出した」から正当である、と述べるにとどまっております。 この「回答」についての「交渉」を求める再三の申し入れにもかかわらず、市当局はかたくなに拒否し、「学校保健課で対応する」として、1月10日、わずか1時間という時間設定をしてきました。 7.96年1月10日、障労と保健会の交渉が新管理職体制で初めておこなわれました。当局側は、学校保健課の宮下課長、谷口係長、金子・平間指導主事の4人が出席をし、主として谷口係長から「説明」がありました。 まず第1に、92年4月25日の「休職期間満了」のあと、解雇(当局の言葉では「免職」)された95年1月19日までの3年近くの期間を「欠勤扱い」にし、そのため、私は、休職期間が満了したことを理由に、それまでもらっていた「傷病手当金」も打ち切られ、しかも、「欠勤」を理由に、給料は支払われないという状態に陥ったのですが、この「欠勤扱い」というのは「どのような法的な根拠に基づいたものなのか」という質問には、当局は全く答えることができず、「要望があれば検討して答える」というだけでした。 8.次に、私の解雇の根拠としている「現行規定『等』」とは、「横浜市学校保健会の任免・給与・勤務時間その他の勤務条件に関する規定の第3条」の「心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合」という条項以外には、「労働基準法の規定にある『休職中は解雇してはならない』ということと『解雇の予告』の2つ」であるといいました。したがって、実質的な解雇理由は、「心身の故障」すなわち「障害者になったこと」だけになるわけです。 9.それについて、当局は、「(徳見さんの解雇は)弁明の機会などを通し、相当の時間をかけ、結論を出した」「徳見さんの体の状態と業務内容を合わせて検討した結果、歯科衛生士として学校での歯科巡回指導が不可能なため免職した」と、これまでと同様の説明を述べるだけで、「いつ、どのようにして」判断したのか、「どのような検討をして(解雇という)結論を出したのか」という質問には、それについての記録や資料などの用意が全くされず、その具体的な詳しい説明がないままに、時間切れとなってしまいました。 「解雇」の具体的な「検討内容」の説明を求める私たちに対して、当局は「答える必要はない」として拒否するのですが、これでは、労働者は雇用主の恣意的な、一方的な理由でいつでも解雇できることになってしまうのではないでしょうか。 10.障労では、次回の交渉をもとめる「申し入れ」を2月2日に、保健会に提出しました(甲第75号証・1月30日づけ)。 申し入れ期日の2月16日9時30分、加藤彰彦代表を始めとして、会のメンバーなど8人ほどが、学校保健課へ行くと、課長・係長・指導主事など、保健会担当の管理職(課長・保健係長・指導主事2名)の4人は全員「もぬけのカラ」でした。 2日前に、谷口係長から、「会えない」という電話がありました。しかし、こう見事に全員が逃げてしまうとは思っていなかったので、驚くやらあきれるやら……。 結局、保健課の管理職で唯一残っていた給食係の係長が応対に出てきました。この係長は直接的には保健会と関わりがないので、「課長に伝えます」というだけでした。 11.しかし、後日、代表の加藤さんのところ(横浜市大)に、宮下課長から「きちんと話し合いをしたいと思っている」旨の連絡がありました。こうして、3月15日、宮下課長との再度の交渉をもつことになりました。 宮下課長は、1月10日の「説明会」に出席はしたものの、ほとんど何もしゃべらず、2月16日は「逃亡」しましたが、3月15日には出席して、「徳見さんの身体の状況と、歯科衛生士の業務内容をあわせて検討した結果……」というこれまでの当局の主張に付け加えて、「自力勤務は、免職当時の社会情勢においては必要な条件であるから、徳見さんを免職した」と述べました。 12.宮下課長は、この3月末で、任期わずか9か月にして異動となり、新課長が赴任することになったため、障労では、4月9日、「申入書」を提出し(甲第76号証)、5月10日に交渉をもつことになりました。 13.岡野定新課長は、「解雇理由の詳しい検討内容」の説明を求めると、「自分たちは当時いなかったので、詳しい内容は分からない」などといって、前課長から引き継いだ内容を説明するのですが、その中には、「具体的な解雇理由」は全くなく、「会の役員等で、時間をかけて、またとりわけ弁明の機会を設けた上で、慎重に結論を出した」という以上に、全く説明できないまま、時間切れとなってしまいました。 14.障労では、6月11日、「申入書」を提出して(甲第77号証)、7月19日に交渉を申し入れましたが、当日は、学校給食のO157食中毒事件のため、学校保健課は多忙を極め、交渉できないということで、結局9月6日に延期となりました。しかし、その日も食中毒問題が尾をひいており、交渉は10月11日に持ち越されました。 15.吉川教育長が退任して、新たに太田昇教育長が赴任してきましたので、障労では、6月11日に、「お願い」を提出し(甲第78号証)、「解雇」問題、ひいては市の教育行政における障害者(障害児)の排除・隔離政策をどう考えるのか、その見解を明らかにしていただくようにお願いいたしました。しかし、これについては回答がありませんでした。 16.7月30日には、市長宛に、次のような趣旨の「要望書」を提出しました(甲第79号証)。 (1) 市の「身体障害者の雇用ついての基本方針」の「自力通勤・自力勤務の原則」について、再検討する必要があるのではないか。 (2) 徳見の「解雇」にあたって、学校保健会はどのように検討して結論をだしたのか。 (3) 「基本方針」の策定(1981年)から現在までに、中途障害者が職場復帰した例は何件ぐらいあるか。 17.9月5日づけの回答(甲第80号証)は、「能力主義」を真正面から打ち出し、「(自力通勤・自力勤務の原則は)公務能率を確保するためやむを得ないこと」と述べています。 このような能力主義的価値観によって、一般職員に対しては「合理化・人員削減・労働強化」を強い、その結果として心身の障害者が生みだされ、「自力通勤・自力勤務ができない」と認定されると、私のように退職を強要され、もしくは解雇されます。市は、「これまで226人の障害者を雇用してきた」と実績を誇っていますが、「障害者枠」で採用された職員は、障害の状態に合わせた環境整備がおこなわれないまま、健常者と同じ作業方法・能率で働くことを強要され、障害の重度化をまねいて、中途障害者と同様に退職に追い込まれていく実態があることを、まったく述べておりません。 18.2度延期された後におこなわれた10月11日の学校保健会との交渉は、前回同様、課長・係長のいずれも、「自分たちは、当時いなかったので、詳しいことは分からない」といい、最後には、「もうこれ以上、何も言うことはない。情報公開でも裁判でも、何でもやってくれ」と開き直られてしまいました。 19.これ以上、学校保健会との交渉を続けても、何も出てこないことは明らかです。また、市長への要望書も、何度出しても、内容はほとんど変わらず、進展は全く見られません。 ちょうど、リハセンターに対する裁判(以下、リハ裁判といいます)は、証人調べの段階に入っており、私の「本人尋問」が4回にわたっておこなわれていました。こうして、リハ裁判が大詰めを迎えているころでもあり、解雇をめぐって、もう一つの裁判を提訴する余裕もありませんでした。 20.障害者採用試験における「自力通勤、自力勤務」条項が私の解雇理由とされたことから、障労においては、私の解雇撤回を求めると共に、市議会に対して、「自力通勤・自力勤務条項の見直し」を求める請願をおこなうことになりました(甲第81証・甲第82証)。これは、現在も継続中です。 こうして、私だけの問題ではなく、他の障害者の雇用の保障も含めて、私の実質的な雇用主である横浜市の施策の改善を求めてきています。 第2 現状の生活状況 1.私は、1992年4月に休職期限が切れて以来、一切収入がなくなり、蓄えもなくなったため、94年6月ころから生活保護を受給しております。その金額は、当裁判提訴にあたって「訴訟救助の申立」をおこなった際に、甲第3号証として提出した「生活保護費の内訳について」という文書に、平成11年11月分の金額が示されております。 2.私が障害者であるために、日常生活上で介助者が必要であるとして、加算されている額が98,540円あります。また、医療費は、医療機関や医療内容に若干の制限はありますが、その範囲内では、医療費は直接行政機関から医療機関に支払われるため、私が負担する費用は、その往復の交通費だけです。 3.市の外郭団体である「福祉サービス協会」から、週3回(1回3時間)ホームヘルパーが派遣されて、家事サービスを受けています。これは収入に応じて自己負担金がありますが、私の場合は免除されています。 4.さらに、市でおこなっているガイドボランティア制度を利用しています。これは、月72時間まで、外出介助サービスを受けることができます。費用は、市から直接介助者に支払われます。これも自己負担はありません。 5.補装具についてですが、車椅子は市から支給されており、修理などもふくめて、自己負担はありません。私は近隣への外出には電動車椅子を使用しています。これはまだ収入があるときに自分で買ったものですが、修理は市の指定業者によっておこなっており、これも自己負担はありません。 6.96年5月に、新横浜から現住所に転居しました。1・2階を1世帯で使用する民間アパート(3DK)ですが、そのままでは移動が困難なため、横浜市にバリアフリー化を申請しました。風呂・トイレ・洗面所を車椅子でも使いやすく改造し、廊下などの段差を減らし、玄関とダイニングキッチンを一体化することによって、空間を広げました。また、外出時に、室内の車椅子から外の電動車椅子に乗り移る便宜を考えて、玄関のフロアやドアの改造、さらに、2階への移動のために階段昇降機を設置していただきました。それでもなお、改造しきれない部分は、補助的な手段として手すりを設置しました。これらの住宅改造整備等の費用は、ほとんど公的制度でまかなわれました(在宅重度障害者がその住居に一度だけ利用できます)。 第3 職場復帰した場合の生活状況 1.職場復帰した場合、日常生活の費用は、介助などの必要経費を差し引いた額が生活保護基準額に満たない場合は無料になります。また、家事サービスや日常生活の外出介助サービスなどは、応分の負担が必要となります。 2.これは、車椅子などについても同様です。仕事上必要な道具類で、私が個人で調達しなければならないもの(たとえば、座面が上下できる車椅子)については、行政機関に申請をすることによって給付を受けることができます。 また、使用者側が、日本障害者雇用促進協会に申請することによって、私に必要な道具類の貸与もしくは給付を受けることもできますし、場合によっては助成金の給付も可能となります。 3.通勤の費用は、市職員の障害者で車通勤者はガソリン相当額が支給され・駐車スペースも確保されているようです。市バス・地下鉄は無料、その他は半額です。 |