陳述書1
横浜地方裁判所 御中
                                            2002年9月10日
                      原告・徳見康子

第1 経歴
1.私は1967年3月、東京医科歯科大学歯学部付属歯科衛生士学校を卒業し、国家試験に合格して、歯科衛生士の免許を取得しました。同年4月、被告・横浜市学校保健会(以下、保健会といいます)に採用されましたが、1995年1月19日に、「心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪ええない」という理由で分限免職になりました。

第2 職業病
1.私は歯科衛生士として、28年間、保健会の歯科保健事業に従事してきました。
 横浜市における歯科衛生士の学校巡回は、学校歯科医師会のポケットマネーによる歯科衛生士の雇用ではじめられました。市内の小・中学校から希望を募り、歯科衛生士を派遣するのですが、最初は歯科衛生士1名でした。希望校が年々増加し、5名ほどになり、財政面でもかなり厳しい状況になってきました。そこで、私が就職する一年前に、教育委員会の委託事業として、横浜市学校保健会に移管されました。
 この歯科保健事業は、全国でも横浜市が初めておこなったのですが、「事業報告書(甲第5号証)」の「沿革」で明らかなように、横浜での事業の成果は、他都市においても注目され、教育委員会でこのような事業を展開している自治体もあります。
2.巡回を希望する学校は増加し続ける一方なので、中学校はカットして小学校だけとし、また、小学校の巡回日数も大幅に減らすことになりました(甲第5号証17ページ)。
 一人一人の歯科衛生士の仕事の中身も大きく変化していきました。歯石を除去したり、歯肉の炎症がひどい子どもなどに対する個別指導を減らし、また全学年におこなっていた集団指導(教室での授業)を、1年生と4年生だけにしました。
 こうして、検査が業務の大半を占めるようになりました。さらに、一日の検査人数を増やしたり、児童一人あたりの検査時間を短縮しなければ、やりこなせなくなりました。
 一人一人の子どもに費やす時間が短くなりますと、「はい、Aです」「はい、Bマルです。少し汚れています」などと判定するだけになってしまいます。子どもの口びるを押し広げて、のぞき込む姿勢で、中腰のまま、腕を宙に浮かせたまま、規模の大きい学校になると午前中一人で 900人、1000人近くを、ベルトコンベアー状態で次から次へと流すように検査をしなければならないようになりました。
3.中腰で前かがみになり、いつもずっと手を挙げっばなしで、口のなかを検査するという苛酷な労働条件の中で、首や肩に痛みが出て、腕を挙げて検査をすることもできなくなってきました。1978年ごろからです。頸肩腕障害(ケイワン)と診断され、これには、1981年に、業務からくる疾病であると労働基準監督署から労災認定をされています(甲第7号証)。私に対する認定と同時に、監督官は「検査人数を、午前中で500人以下におさえるように行政指導をする」と口頭で言っておりました。
4.ケイワンでの休職から職場復帰するとき、主治医からは、「リハビリ勤務」で身体に無理がこないやり方は、「2時間から始めるのがいい」と言われました。しかし保健会からは、半日勤務しか認められませんでした。
 復帰しても一足飛びに学校巡回に行ったわけではありません。学校巡回をする前に、保健会の事務所(当時は教育委員会の中)で、そのときの身体の状態に合わせて、主に事務手続き上の書類整理および資料作り、それと新たな巡回に向けての準備などの業務をしていました。
 実際に学校巡回を始めたときには、児童数の少ないところを配慮していただいたり、アルバイトの人を同行して、検査人数が一人で500人以上にならないようにし、子どもも私も座って検査をおこないました。
5.検査人数が多すぎないときは、個別的指導を兼ねて、子どもの口の中の状態を説明しながらおこなう検査ができます。例えば「よくみがけていますが、歯ぐきの、ここの部分がはれていますね。野菜とか果物をもう少したくさん食べたほうがいいですね。血が出るかもしれないけれども、ここは、悪い血を押し出すようにして、このようにしてみがいたほうがいいですね」などと説明すると同時に、「AGです」というように判定します。
 これは一人あたりの時間がかかりますが、手を挙げ続ける時間が少なくてすみます。この「個別的検査」方法は、私が職場を追い出された現在でもおこなわれていますが(甲第5号証5ページ)、これは学校からの希望が続いているからです。
 こうして、10年くらいの治療で、痛みやコリなどは仕事にさしつかえない状態にまで改善してきました。ところが、足の感覚が鈍くなってきて、立ち続けているのがつらくなってきました。首の脊髄の萎縮が発見され、頸椎症性脊髄症と診断されました。

第3 リハセンターでの事故
1.1989年1月、頸椎症性脊髄症で頸の手術を受けました。1年半くらい入院しましたが、退院するときは、装具をつけて両杖で歩けるようになりましたし、車はオートマティック車を運転して、どこへでも行くことができました。
 ただ、両手に杖をもっておりますので、教室での集団指導のときに、それまで立って両手に持っていた道具――大きな歯ブラシと歯の模型を持って歯のみがき方を説明することができません。そのため、主治医に相談しましたところ、横浜市総合リハビリテーションセンターを紹介され、リハビリに通うことになりました。
2.1991年2月、訓練中に他の患者が使用していた訓練用のロールが平行棒から落下して私にあたり、仰向けに転倒しました。背中を強打し、急性症状がとれた後も、痙性麻痺が少なかった右足も筋肉がつってしまい、歩くことはもちろん、立っていることもほとんどできない状態になってしまいました。車の運転も実用的には不可能になりました(日本の自動車改造の技術が進展すれば、それも変わってきます)。

第4 欠勤扱い
1.リハセンターの事故から1年あまり後の1992年4月に、3年間の休職期間が切れました。その直前の2月4日、学校保健課の中山係長(保健会の理事)が、庶務係の相沢さんを伴って、私の自宅に来られましたので、介助者つきの職場復帰と養護学校への巡回指導を要請しました。 
2.3月25日に、学校保健課の会議室で、はじめて保健会との交渉がありました。保健会側は、学校保健課の渡辺課長(保健会常務理事)・中山係長が出席し、私の所属する労働組合(自治労横浜)の支部役員の立ち会いでおこなわれました。そこでは、「介助者つき職場復帰」と「養護学校への巡回指導」を申し入れ、「要望書」(甲51号証)を提出しました。この席で、渡辺課長は、「職場復帰できるかどうか検討するので、至急診断書を出してほしい」と言うにとどまりました。
3.4月8日に、杉井医師から診断書(乙第30号証)をもらいました。診断書には「現在の状態で、単独の就業は困難」と記載されており、これは、「介助者があれば就労可能」という意味であることから、そのような趣旨の「職場復帰願い」(甲52号証)とともに、同月10日に当局へ郵送しました。これに対して、同月18日づけで「要望書についての回答」が郵送されてきましたが(甲53号証)、診断書は職場復帰を認めない理由づけに使われてしまいました。
4.これをうけて、同月21日、保健会に申し入れて交渉をもちました。保健会側は乙第40号証にあるように、
  1.介護者付き(自力勤務不可能な者)の職場復帰は認めない。
  2.保健会の指定する医者で診断を受けること。
  3.4月25日以降は、「欠勤扱い」とし、それを理由に解雇はしない。
 というものでしたが、渡辺課長は「杉井先生の診断書からして、歯科巡回指導は困難」「現在の徳見さんの身体の具合から判断すると、職場復帰は困難」というだけで、その具体的な内容については全く説明がありませんでした。また、「単独の就業」をめぐって、課長が、初めて「(障害者雇用の受験資格にある)自力通勤・自力勤務が(市において職員雇用の)大前提であり、保健会も、就労の条件はそれに準じた形でやっている」と述べました。「障害者の雇用条件が、どうして職場復帰を認めない理由になるのか」という質問には、まともな答えはありませんでした。
5.その後、保健会からは何の連絡もありません。「欠勤扱い」のまま仕事も与えられず、すでに1年になろうとしていました。「傷病手当」もすでに打ち切られ、収入は全くなくなりました。このように、経済的にも非常に不安定な状況に置かれたまま、いつ職場復帰できるのか、不安でたまらず、交渉を申し入れました。その結果、1993年3月10日、保健会との交渉をもつことになりました。渡辺課長・中山係長に「職場復帰に関する申し入れ書」(乙第40号証)を提出し、職場復帰を認めない理由の説明を求めましたが、課長は、「学校巡回の仕事は、介助人つきでやるのは無理」と答えるだけで、「なぜ無理なのか」についての説明は一切がありませんでした。
6.4月30日にも、保健会と交渉をもちました。内容は前回とほとんど同様で、職場復帰を認めないのは「健常者と同じように仕事ができないから」というのです。しかし、「なぜ健常者と同じやり方で仕事をしなければいけないのか」「いろんな工夫、条件を整えたり、整備すればできないことはない」として、具体的にいくらでも、いろんな工夫をしたり、そのための自助具を作成して、とにかく仕事をさせてほしい」と申しますと、「結論は決めてあるし、変えない」「ダメだからダメ」「もう決めたこと」と繰り返すだけでした。
 こうして、「職場復帰はダメという結論は変わらない」と述べて、「私の身体の状態をもって、どのような仕事が可能か」という観点での検討は一切なく、話し合いは平行線をたどるだけでした。最後に、「次回の交渉は……」という質問に、課長は「また連絡します」と答えたものの、その後何の連絡もありませんでした。
7.同年6月ごろ、当局との交渉の場に「立ち会い」として参加してくれている組合の支部役員から、「学校保健課の管理職が異動になった」旨を聞きましたが、当局からは何の連絡もないため、8月10日、「介助者つきの職場復帰を認めない理由を明らかにするように」という意味の「要望書(乙第43号証)」を保健会に提出し、同時に、交渉を申し入れました。
 その結果、8月23日、新管理職の佐藤課長・長島係長との初めての保健会交渉がおこなわれましたが、内容は前課長とほとんど変わりません。
 私は、保健会が、それまでの「職場復帰を認めない」ことを前提とした態度を変え、また「健常者と同じ条件で働かなければならない」という発想のもとに、障害者ではダメだと結論づけてほしくないと思いました。そして、「私の身体の状態に合った仕事の提供」について前向きに検討してほしい」という要望をしましたが、課長は「前任者と同じで、職場復帰は困難という結論は変わらない」と繰り返すばかりであり、また、「私の職場復帰は認めないというなら、解雇しかないのではないか」という質問には直接回答しませんでしたが、「時間が経っているので、早急に結論を出したい」として「解雇」を示唆しました。
8.以後も、これまで同様、こちらから連絡しない限り、保健会側からは何の連絡もありません。そして、交渉しても、当局の態度は全く変わらず、職場復帰に向けての検討は一切ないまま、議論は平行線をたどるだけでした。
 こうして、休職期間が切れてから2年近く経っても「欠勤扱い」のままで、収入は全くなく、蓄えもなくなってきました。したがって、当局に、1日も早く職場復帰を認めてもらえるように、私が介助者つきで出勤できることを示すために、実際に、学校保健課に「自主出勤」することを決意いたしました。
 自主出勤は、第一次が94年1月4日から6月13日まで5か月あまりで、106日間、第二次は、95年1月4日から4月5日までの3か月、38日間おこないました。

第5 自主出勤
1.93年12月17日、学校保健課長に電話をして、職場復帰を早く認めてほしい旨の要求をしましたが、それを拒否されたため、「1月4日から学校保健課に自主出勤する」という通告をしました。
 こうして、職場に受け入れるための検討をまったくせずに、「徳見は働けない」として「欠勤」を強制し、解雇することだけしか考えていない保健会や、障害者を職場から排除する横浜市の施策に対する抗議の意思表示と、「車いすでも仕事ができる」ことを示すために、翌(1994)年1月4日から教育委員会学校保健課へ「自主出勤」を開始しました。同時に、私の職場復帰と市の障害者を雇用する際の「自力通勤・自力勤務」条項の撤廃を求める「要望書」(乙第41号証)を、市および保健会に提出しました。
2.94年1月4日、出勤すると、すぐに佐藤課長が「話し合い」を申し入れてきました。課長の話の内容は、「昨年12月27日、学校保健会の理事会を開き、協議した結果、徳見さんの身体の状態が分かるような診断書を出してほしい。その上で検討したい」と言い、乙第44号証にあるように「医師の指定・診断書の内容については限定しないが、職場復帰への状況が分かるように、どういう健康状態か、などを書いた診断書」を要求しました。その一方で「(職場復帰を認めないという)結論は変わらない」と述べております。これは「診断書」を「職場復帰を認めないための理由」にするためだとしか考えられません。先に述べた92年4月の「単独の就労は困難」という診断書(乙第30号証)も、職場復帰を認めない理由にされてしまいました。
 したがって、診断書は提出しないほうがよいのかもしれない、とも思いましたが、それを理由に解雇されては困る、というジレンマの中で、「診断書は、私の職場復帰に向けての検討のためのものであり、それ以外の目的には使用しない」という意味の「確約書」を、当局からもらった上で提出したらどうかと、労働組合の役員に相談すると、「当局は判を押さないだろうし、時間を引き延ばすだけで、意味がない」と言われました。
 1日も早く職場復帰したかった私は、やむなく「確約書」をあきらめ、当局が要求する「どういう健康状態か、を書いた診断書」を提出いたしました。これが、乙第31号証の診断書です。これには「内科的な健康診断の結果……勤務に差し支えない」と書かれています。多くの児童に接する職種としては、当然必要な診断書なのです。
3.3月14日、自主出勤をしている私のところに、佐藤課長がやってきて「3月17日、3時10分から30分ほど(忙しい方々だから、延びても、もう30分くらいが限度)、教文センターの 505号室で、徳見さんの話を聞きます。出席は学校保健会の会長・手束和之(横浜市医師会会長)、副会長・森田純二(学校歯科医会長)、副会長・吉川春二(教育部長)、副会長・高橋(薬剤師会)、そして理事として、佐藤課長・長島係長が同席する」と言い、しかも、条件は「徳見さんと介助者一人だけ。組合の立会いもだめ、テープやビデオをとったりしないこと」であり、「これは、あくまでも事務的な話だから……」と強調するのです。「事務的な話なら、ここでもいいのではないか」という私の質問には、「いや、そういうものではない……」などと言うだけでした。
4.翌日、私は保健会会長あてに「障害を理由の処分を白紙に戻し、(組合の立ち会いを認めないなどの)条件なしで、お願いしたい」旨の「お願い(甲第54号証)」を提出しました。2月23日に「内科的健康診断の結果、勤務に差し支えない」という「診断書」を提出したのですから、次回の「交渉(話し合い)」は、当局がそれを検討したうえで、私の要望を聞き、職場復帰を前向きに検討するための場になるべきですし、課長の言う「あくまでも、一人の職員の身分に関わることなので、慎重に検討している」のならば、組合の立ち会いは不可欠と考えたからです。
5.3月17日、組合の役員に廊下で出会うと、「今日の『徳見さんの話をきく会』は、(私の申し入れについて)保健会で検討していないので中止、と課長が言っていた」とのことでした。しかし、私に対しては、「中止」という正式の連絡がないので、3時ころ、「教文センター 505号室」に出かけました。会場入口には「学校保健会会議」と書いてあり、100人ほどもはいれそうな大きな会議室に、教育委員会の職員(指導主事など)が2〜3人、人待ち顔で出たりはいったりしていました。
 約束の3時10分になっても、保健会からは誰も現れません。一方的に指定し、本人には直接知らせもせずに、一方的に中止したのです。
6.3月22日、佐藤課長から、「3月17日の件を徳見さんが拒否したので、役員会の決定として、診断書の提出を依頼したい」と言って、「診断書の提出について(依頼)」(甲第55号証)という文書を持ってきました。
 2月23日に提出した「内科的診断書」では「歯科衛生士として勤務が可能かどうかについての判断ができない」ので、「整形外科医による診断」により「勤務が可能かどうかの診断書」を3月31日午後4時までに提出せよ、というのです。
 「歯科衛生士として勤務が可能」という条件の中に、「車イス・補助具・自助具などを使うことは考えていない」と佐藤課長は言っていました。それらなしで私が働けないことは、医師の診断書が無くたって明らかです。一貫して「(職場復帰を認めないという)結論は変わらない」ままでの「診断書の提出」は、「クビにするための条件整備」でしかありません。したがって、私の体の状態で歯科衛生士として仕事をするには、どのような職務形態・内容、手段・方法を講ずればよいのか、それを双方で検討し、煮詰めるための診断書として、指定通りの日時に提出しました。それが乙第33号証の杉井先生の診断書でした。
7.4月18日、佐藤課長がやってきて、「31日の診断書を受けて、学校保健会の役員会を開いて検討した結果、徳見さんに『弁明の機会』を与える」というのです。そして「14日に弁明の機会を与えたのに拒否したので、改めて機会を設定したから出席するように」といい、以前と同様「録音テープ・ビデオはおことわり」という「一方的な通告」です(乙第42号証)。そのことを指摘すると、「雇用主としては当然の一方的な通告であり、交渉ではないし、交渉もしない」と高飛車に言うのです。そして、「これを受け入れるかどうかは、徳見さんの『ご判断』しだい」とのことでした。これは「受け入れなければクビだ」という「おどし」に、私には聞こえました。
 「弁明」という言葉の意味は、何か悪いことをしたときの「いいわけ」のことだと思います。私が障害者になったこと、あるいは職場復帰を求めることが、「悪いこと」であるかのような「弁明の機会」を受け入れることはできません。また、受け入れたとしても、「徳見さんの話を十分に聞いた」という「解雇の口実」に使われるだけであることは分かっていましたが、それでも、私は「もしかしたら、職場復帰に向けての話し合いができるかもしれない」という期待を込めて、出席することにいたしました。
8.4月25日、約束の3時20分、会場には学校保健会・会長手束和之(横浜市医師会会長)、同・副会長森田純二(学校歯科医会会長)、同・吉川春二(教育部長)、同・高橋(薬剤師会会長)の各氏、そして行政の側から、学校保健課の佐藤課長(保健会常務理事)、長島課長補佐(理事)、金子指導主事(同)、平間指導主事(同)の7人。そして、こちらは私と介助者(組合の支部役員)の二人だけでした。
 会長は「徳見さん、『弁明』などと言わず、いつでも相談にいらっしゃい」「テープだ、ビデオだ、などとつまらないことをしないで、話し合いをしましょう」と穏やかにおっしゃいます。私は、「もしかしたら、この方たちなら、私の言うことを理解してくれて、職場復帰も前向きに検討してくれるかもしれない」と思い、「私の身体の状態で、ちょっとした工夫しだいで、子どもの歯の『検査』ができる」ことを、具体的に語りました。
 私が話している途中で、佐藤課長から「そんな空想の話を聞いてもしょうがない」と話をうち切られてしまいました(甲第56号証)。また、森田副会長は「徳見さんが手術をすればよくなると思って、7人の歯科衛生士は、がんばってきた。しかしよくならない。このままでは、7人に迷惑がかかるばかり……」と、私の休職期間中も、そして「欠勤」を強いている時も、私の代替を補充せず、他の歯科衛生士に労働強化を強いてきたことを、まるで私が悪いことをしているように非難するのです。
 結局ここでも、「私の職場復帰にむけて、前向きに検討する」姿勢はまったく見られず、何のための「弁明の機会」なのか、理解できませんでした。
9.もう一度「弁明の機会」を設けるという通知を、5月24日にいただきました(甲第57号証)。しかし、前回の「弁明の機会」で明らかなように、私の職場復帰に向けての検討の場ではないのですから、「(私の職場復帰に向けての)『話し合い・交渉』のテーブルを設定していただけるのでしたら出席します」という「お返事」を27日に、書きました(甲第58号証)。それについては、何の返事もないままでしたので、前々回のように、一方的に中止になる可能性もあると思いましたが、組合の支部役員にきくと「中止という話はとくにきいていない」とのことでしたので、私の要望が受け入れられたものと判断して、5月30日、会場に行きました。
10.定刻の2:30、会場に入ると、正面に手束会長(横浜市医師会会長)、吉川副会長(教育委員会学校教育部長)、森田副会長(学校歯科医師会会長)、後田副会長(八景小学校校長)、右手に佐藤常務理事(学校保健課課長)、左手に平間理事(指導主事)、長島理事(学校保健課課長補佐)、金子理事(指導主事)の8人が、いかめしく居並んでいます。
 佐藤課長が話し始めるのをさえぎって、「今日は『弁明』に来たのではなく、私からどのような話が聞きたいのか、その質問をうけたまわりにまいりました。質問内容を間違えないように、テープをとらせていただきます」と発言しました。
 それに対して、会長は、「今日は前回に引き続き話し合いを……」と言うので、「私(労働者)の身分に関わることは、組合の立会いの上でないと困ります。今日は質問内容を聞くだけで、回答は後日文書でいたします」と答えました。
 会長が、「組合が関わるのは、従業員に不利益があるとき……」などと言いますので、「2年以上無収入の状態にされて、これ以上の不利益があるでしょうか」と抗議しますと、会長は、「職場復帰する気があるのか」と怒り出しました。森田副会長は、「『弁明の機会』と知ってやってきたのだろう!」と声を荒げて、私を非難しました。
 私が、「私の身分に関わることは、組合の立ち会いの上で……」と何度も繰り返したことを、八景小の校長は、腹にすえかねた様子で「まるで留守番電話のテープを聞いているようで、人間性が感じられない」などと、感情的になって、私を小馬鹿にしたように言うのです。
 こんな調子なので、「話し合い」にはならず、「今、返事がもらえないなら、今日の『話し合い』は中止だ。学校保健会で検討して……」と、当局側の一人(誰だか覚えていません)が言い、こうして予定の30分は、私の「弁明」どころか「話し合い・交渉」にもならないままに終わりました。

第6 解雇
1.1990年に頸の手術をしたときに、「5〜6年後に再手術が必要」と言われていました。また、リハセンターでの転倒事故による頸の脊髄の状態も気になっていました。そこで、それらを確かめるために、検査入院をすることになり、自主出勤は6月10日で中断しました。
 検査の結果は、「今のところ、とくに再手術が必要な段階ではない」とのことでした。退院後、脊髄造影検査の後遺症で、頭痛・吐き気などが続き、自主出勤は中断したままでした。
2.その年(1994年)の12月20日、朝9時5分前ごろ、学校保健の佐藤課長から「近くにいるから、5分後に寄りたい」という電話があり、長島課長補佐・森田学校保健会副会長(歯科医師会会長)・金子副会長の3人と共に来訪しました。当日担当の介助者が出ると、「徳見さんに渡してほしい」と、何やら書類を突き出しました。担当介助者は、「徳見さんがやすんでいるので、受け取ることはできない」と言いますと、課長は「渡してもらえばいいから……」と、玄関先にポンと置いて行きました。これが1か月後の解雇を予告する「免職通知」(甲第2号証)でした。
 「自力通勤・自力勤務ができない」から「職場復帰を認めない」と言い、私の「なぜ、健常者と全く同じ条件で働かなければいけないの?」「介助者つきで働いてなぜ悪いの?」という問いには一切答えず、一方的に「クビ切り」をしてきたのです。予想されていた事態ではありましたが、現実に解雇通告をされたショックは予想以上でした。
3.この解雇通告を受けて、中断していた「自主出勤」を、95年1月4日から再開しました。
4.1月19日、9時20分、佐藤課長が私の自宅に「免職の辞令」を持ってきました。森田副会長・平間指導主事も一緒でした。「無断で入らないで」という私の制止を振り切って、課長は、玄関のゲタ箱の上に「辞令」を置いて行きました。なお、この「辞令」は、当日、普通郵便で1通、そして、内容証明郵便でも1通届き、都合3通いただきました。
 こうして、休職期限が切れた92年4月25日から、「欠勤を命じられて」仕事を与えられず、給与も支給されない状態が、この95年1月19日まで、2年9か月ほど続きました。
5.その間、保健会は、私が一貫して「職場復帰に向けての検討をしてほしい」と要望し、「介助者や道具などがあれば、職務の遂行は可能である」と主張し、「不可能」というのならば、実際にやらせてみてほしいと、何度も申し入れたにもかかわらず、まったくそれに応えようともせず、「できないからダメ」「すでに結論は出ている」「結論を変えることはできない」といって解雇したのです。
6.このような保健会やそれを認める横浜市への抗議の意思表示として、この日からハンガーストライキに入りました。23日間、ミネラルウォーターだけを飲んで、職場に自主出勤いたしました。
7.2月10日に23日間のハンストは終了しました。ハンスト前の2〜3日とハンスト後の4〜5日は、ほとんど食事らしい食事はとっていないので、実質的な断食は1か月に及びました。それ以後も自主出勤は継続しましたが、心臓の苦しみ、体中の脱力感とムクミなどが続き、4月初めには自主出勤は中止せざるをえなくなりました。
 解雇は、それまで私が歯科衛生士として培ってきたいっさいを殺すことでした。また「障害者であること」を理由に排除することが許せませんでした。そのことを、当局に本当に考えてほしかったのでした。

第7 解雇後
1.95年1月19日の解雇以来、私の解雇問題に取り組む人たちが集まり、「障害者の労働・差別を考える会」が、同年9月に結成されました(代表・加藤彰彦横浜市大教授)。会では解雇撤回に向けて、市および学校保健会当局に対して「要望書」を提出したり、保健会と数回の交渉をもちましたが、市および学校保健会の態度はかたく、交渉の進展はみられないまま今日に至っております。

第8 終わりに
1.学校現場でおこなっている歯科衛生士の業務の一部が、ビデオで示されました(乙第37号証)。ビデオでは、歯科衛生士は立ったまま4年生の児童を検査していました。立って検査すると、このビデオのように、歯科衛生士は児童の背の高さに合わせて、足を広げたり閉じたり、膝を曲げたり伸ばしたりします。また歯の表側や下の裏側を検査するたびに、かがんだり、中腰になったりしています。上の裏側を検査するときは、もっと腰を曲げたり足を開いて腰をかがめ、目を低い位置にする必要があります。このように、立ったまま検査すると、非常に無理な姿勢をとらなければなりません。ビデオでは4年生ですが、1年生の場合でしたら、立ったままの検査はもっと大変になります。
 したがって、歯科衛生士は、自分や子どもの背の高さによって、自分が立ったり座ったり、あるいは子どもを座らせたりして、やりやすい姿勢で検査していました。
2.私は1978年ごろのケイワン発症以降は、ほとんど座って検査していました。児童が椅子に座ったり立ったりする時間を短縮するために、私の両サイドに図書館や視聴覚室から借りた丸椅子を置いて、座って待っている児童を交互に診ていました。私や児童の椅子の高さは、学年によって、若干調節しながら、おこないましたが、高さ調節が不十分でした。もし高さが調節しやすい椅子を使えたら、もっと体への負担は少なかったと思います。この方法は、解雇される前、学校現場に巡回できていたときまで、ずっとやっていた方法です。
3.私が提出したビデオ(甲第18号証)では、児童が横になる方法も示しました。このように、仕事のやり方にはいろいろな方法があります。私は、仕事に必要な補助具は、職場で実際にやりながら作成・検討し続けて作らなければ意味がないと思っていましたので、現場でとにかくやらせてほしい、その上で、腕を挙げ続け中腰・前のめりにならないように、どんな補助具にしていくのか、もしできあいのものでしたら、座椅子を改良してもいいでしょう。高さを上下できる三次元車椅子などもあります。解雇当時は、三次元車椅子は外国製しかなかったのですが、職場復帰したら、自分でその車椅子を購入することも考えていました。
 それらを1回目の「弁明の機会」(1994年4月25日)で述べようとしましたが、途中でうち切られて最後まで話せなかったのは、すでに述べたとおりです。
4.一方的に「職場復帰を認めない」という前に、せめて、「私の体の状態で、どうしたら仕事ができるのか」を、主治医に問い合わせたり、私と一緒に検討してほしかったと思います。障害者が仕事をする上で、障害を補うものの利用を否定されたら、ほとんどのことはできません。その上で「心身の故障により……」という理由で解雇するのは、どうしても納得がいきません。
5.「交渉」に際して、保健会は「徳見さんの身分に関わることだから慎重に検討した」と何度も言いました。しかし、「検討した」という中身を、私には提示されませんでした。一緒に考えることもありませんでしたし、身分に関わることについての問題なのに、組合の交渉も実質的に認めていただけませんでした。解雇にあたって、事業主として、法律的に義務づけられていることもやっていただけませんでした。
6.もし、私が復職することで保健会の経済的な負担が増加するということでしたら、事業主が中途障害者の継続雇用のために、備品や用具を無料で借りられる制度や助成金を受けられることで、ほとんど解決できる問題なのです(甲第26・27・28号証)。
 障害者を解雇するときは、事業主は職安に届ける義務が法律で定められています。保健会はその「届け」もしておりません。もしその届出用紙をとりに長島係長が職安に行って「事情」を説明したとすれば、「事業主は何をすべきか」を指示されたはずです。しかし、今回の長島係長の証言でも、事業主としてそのような動きすら全くしていないことが分かりました。
7.そのうえ、1年半以上にわたって、何回も何回も、私の動作を目の前で見ていた長島係長が「左手は指も全く動かない」と証言しました。このようなウソを平然と証言する管理職に、職場復帰を求めていたのかと思うと、暗澹たる気持ちになります。
8.障害者で秋田市の中学教師をしている三戸さんは、私への手紙の中で次のように述べておられます(甲第44号証の1)。「毎日、(教師として)働いていて、健常者と障害者が―緒に働くことは差別や偏見をなくしていくことにつながると確信しています。また、子どもたちに与える影響は計り知れないものがあります。自然な形であればあるほど、子どもたちは自然な形で障害を受け入れます」。
 こうして、三戸さんは障害者である自分の存在が、「差別や偏見をなくして」いくことにつながり、さらに「私は自分のことを生きた教材と思っています」と語っています。
9.また、横浜市立高校で、中途障害で定年まで仕事をされた方(甲第45号証)のクラスでは、そのころの生徒たちが福祉の仕事や保健所や役所などで直接障害者と接する仕事をしていたり、現役から10年以上経っても、おつきあいされていることもうかがいました。
10.学校の児童・生徒の中にも、車椅子を使用している子どもたちがいます。横浜市教育委員会は、「分離教育」を押し進め、障害児を普通学校から排除しようとしています。それでも、現在横浜市内で、普通学校、普通学校内の養護学級、養護学校に在籍している障害児の数はおおよそ3分の1ずつだそうです。
 市内の小学校にスロープを設置してあるところ、これは学校で給食を各教室に運ぶのに、私が現職の当時からありましたし、新しく建設される学校には全部スロープが設置されています。エレベーターが設置されている学校もあります。また、横浜市は、すでに1981年に、横浜市職員への身体障害者雇用についての「基本方針(甲第50号証)」を策定して、積極的に障害者の雇用を進める方針を明らかにしています。
 一方、障害者雇用制度において「障害者の就業が一般に困難と認められる職種(学校も含まれています)」に設定されている「除外率(甲第42号証)」が、2年後から段階的に縮小され、廃止されることになっています。
 このような学校のバリアフリー化や、市の方針、社会の動きにも関わらず、保健会は解雇に踏み切っています。
11.私は健常者の時代が長かったのですが、健常者のときに車椅子を利用している方のボランティアをやったり、友人・知人にあたりまえに何人かは障害者もいましたので、障害者になってからも、いろいろと心強く、支えになりました。
12.職場復帰が決まったら、職場で使う三次元車椅子の導入や補助具作成がすぐかかれるように、すでに準備ができています。実際に子どもたちの口の中を見ることは、今でもしています。私が近所や知人の子どもたちに、膝まくらで歯磨きの仕上げをしてやると、家に帰って、きょうだいどうしでやりあったり、歯ブラシの力の入れ方が親より上手になって、おとなに教えている子もいます。目が見えない人は、舌でさわって歯磨きの状態を確かめています。やれないところ、うまくできないところから、いろんな工夫が生まれてきます。みんなで工夫し合ったり、支え合ったりの関係は、歯磨き以外に、日常の生活の中にも生きていくことと思います。このように、障害者になった私が、学校現場で指導をするならば、児童がつかんでいってくれると思います。
13.私は28年間仕事をする中で、学校での歯科衛生士としての指導方法・仕事内容などを創ってきました。その「指導の中身」よりも「立ったり座ったりできない」ことのほうが重要であるとは、どうしても思えないのです。私が歯科衛生士として長年つちかってきたものを使って仕事をさせていただきたいのです。
 現職の障害労働者にもいろんなことを学んでいっています。一日も早く原職復帰して教育現場の中で「障害者も健常者も、いろんな人がいてあたりまえ」にしたいと思っています。

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