「障労裁判」における新美弁護士の発言
2001.3.3集会
提訴に至るまで お手元に、訴状が配られていると思うのですが、昨年(2000年)6月2日に、横浜地裁に解雇無効の裁判を提起いたしました。 この解雇は、この訴状の5ページめのところに書いてありますが、解雇に至る経過というのがずっとありまして、1995年の4月19日をもって「免職」という、民間団体でありながら、何か公務員のような言葉を使うのですが、被告になった学校保健会からの解雇が1995年の1月19日ですから、それから5年あまりを経過して、この提訴がなされたということです。 私がこの代理人に名前が連なっているというところから話をしていきたいと思います。たまたま私の地元といいますか、地域の中で、横浜市が社会福祉施設をつくるということで、住民の皆さん、大変大きな運動をおこされまして、その過程で、どうもこの地域に弁護士が住んでいるということが分かりまして、その社会福祉施設問題について、これもまたどういうわけか、私と森田弁護士が、その福祉施設問題を通じて知り合いました。 住民に対して「反対運動をしてはならない」という仮処分の裁判が、施設を建設しようとする側から起こされ、住民の側からもそれに対する訴訟提訴などをおこなうということで、森田さんとは、ずっとご一緒させていただいてきました。森田さんは、それ以前からの運動や裁判の過程で、徳見さんとおつきあいがあり、この福祉施設の建築の予定地で私も徳見さんと出会ったということが一つのきっかけになりまして、昨年6月にこの裁判を提訴したということになります。 私自身も、ずっと前に前橋のコロニーとか、それから障害を持った子どもの教育の問題などに少し関わったこともありますし、とくにこの20年ぐらい前からは、日本に住む韓国や朝鮮の人たちの国籍の問題――国籍差別とか、民族差別などの問題にも関わってきまして、要するに絶対的少数者の目から見ると、またいろんな問題点が逆に見えてくるという、そういうのをたまたまこの弁護士という立場を通じていろいろ教えられたり、知ったりということをしてきたわけです。 そういう観点からしますと、この徳見さんの解雇問題というものも、ある意味では放置できない問題だということが、直感的には分かったわけですが、先ほどの加藤さんの話じゃないですけれども、いろいろな事件とか仕事などでがんじがらめになっていると、頭では分かっても、体がついていかないということがありまして……。でも、この徳見さんの問題については、長い間ずっと一貫して関わってこられた森田弁護士もおられましたので、それならば一緒にこの解雇問題をやろうじゃないかというので、この解雇の無効確認を求めた裁判の提訴に至ったということです。 死語になった「労弁」 かつては「ろうべん」という言葉がありまして、労働事件を非常に熱心にやる弁護士のことを、企業側のほうの弁護士がやや皮肉を込めて「労働弁護士=労弁」と言ったのですが、最近はその言葉がほとんど死語になりました。これは弁護士の世界だけで死語になってきただけではなくて、これまでは労働関係というものを非常に重視して、そこに新しい何か、普通の「売った買った」とかいうような問題とは違った特別な領域といいますか、そういうものを当然みんなで認め合ってきたという、その感覚が、とくにこの十年、もっと極端に言えばここ数年、世の中全体が、ほとんど壊れかかってきているのではないかと思います。 最近、よくコーポレート・ガバナンスというアメリカの言葉を使って、企業というのは利潤というのを極大化するというのが当然だという、そういうのが大変な勢いで今、のしてきています。日本の資本にどんどん海外資本が入ってきまして、もうリストラなどは当たり前だという状況の中で、企業の目がマーケットといいますか、市場というものに目が向くようになってきています。上場会社の社長などが、毎朝真っ先に、株の動きをみるわけです。株の動きそのものが企業にとっての最大の目標になっていまして、マーケットによって、いわば支配される――つまり株主に対して最大の利潤を獲得して配当に回すというのが企業の役割で、かつてのような社会的責任とか、肝心かなめの、そこで働く人たちのいわば生存権とか生活とか労働条件の保障というものは、第二・第三どころかむしろ切り捨てることによって、利潤を極大化することが正しいのだという、そういう発想、感覚が、何かこう世の中に満ち溢れているというような感じがしているわけです。 そういう中で、この労働関係の、最後の確認というものをやっていかないと、これは弱者とか少数者の切り捨て、これはリストラに象徴されるように、少数者の切り捨てがむしろ当然視されていく、そういった大きな、間違った社会認識をどんどん作っていってしまうのではないかということについて、労弁という言葉が死語になったというだけではなくて、非常に私は危機的なものを感じているのです。 そういう中で、この徳見さんの解雇の問題は、もう一つまた改めて考えていかなければならない問題だろうと非常に強く感じて、この裁判の代理人として、やらせていただいたわけです。 観念による差別 男女差別とか国籍差別とか、いろんな差別の問題があるわけですが、この障害差別といいますか、「障害」を理由にして差別的な取り扱いをするという問題点は、法律的にいうと、なかなか難しい問題をはらんでいるのです。一刀両断に、この法律は何々差別だからこれは無効だというように論陣を張るのは、いわば簡単な議論ですが、障害差別の問題については、もう一つ、どうしてもついて回る問題があるのです。 それは一面では我々の持っている観念の中に一つあるということと、もう一つはやはり今の社会制度全体の中に、障害差別、特に労働関係における障害差別を、法的にきちっと議論していく上では、難しい問題がひそんでいるのではないかということです。 最初の「観念による差別」のことは、これはもう皆さんもお解かりになっていると思いますので、とくに細かく言うつもりはありませんが、我々の日常において、交通事故とか、労災でもいいのですが、そういう事件を引き受けますと、最初に弁護士として決めなければいけないのは、被害者が被った損害を、お金の問題として算定することなのです。 その算定をするときに、被害者が被った後遺症が最も大きな問題なのですが、後遺症の等級を決めなければいけない。この被害者の等級は何級にあたるのだろうか――これは労災保険とか自賠責の法律の中にきちっと1級から14級まで大変細かく、その名も「労働能力喪失」という一覧表ができあがっているのです。これで等級を決めて、その等級に対応する労働能力の喪失率が何パーセントか算定して、それで損害を計算するというのが、この種の損害賠償事件の弁護士が最初にやることなのです。 この等級表の発想は、昨日今日で出てきたわけではなくて、長い間の、やはり今の社会が作ってきた等級表であり、それなりにみごとなものです。つまり指一本がなくなった場合に、何級になって、その何級になったというのはイコール何%の労働能力を喪失したか、それによってその人が事故にあわなければ将来得たであろう「受べかりし利益」の損害額が、ピョコンと方程式で出てくるという――これが、人間を部品で作られた機械と見て、特に現場労働、肉体労働を前提にして、一本腕がなくなるとこの人の能力はこれだけ減少する、この場合だとこれだけパーセンテージが下がるという、そういう前提で作られている。これは今の法律制度の一つの骨格になるわけです。 それが一番極端に出てくるのが、障害を理由にした解雇という形で、徳見さんのようなパターンなのです。要するに、何級かの障害の認定を受けている以上は、当然それに対応する労働ができないはずだという、「障害と能力」というのが、必ず裏表の関係になっているものですから、いとも簡単に「業務に耐え得ない」という判断が導き出されてしまう。 こういう裁判の中では、大きな議論も必要なのですが、解雇した側が「業務に耐え得ない」と判断した具体的な理由、それを徳見さんの具体的な事情に照らして、一つ一つ判断し、反論をしていかなければいけないと思うのです。 したがって、訴状でも書いたのですが、障害を負ったにしても、従来の業務が本当にできないのかどうかということを、もう一度別の観点から見てみなければいけないということで、そういった発想が裁判所の中の一部にも出てきております。 訴状で紹介したのは、札幌地裁の小樽支部が出した判決です。7ページの一番右端の下に書いてありますが、保健体育を担当していた教諭が、脳卒中で半身不随となって、それで体育の教師としての仕事ができないからということで解雇された、その解雇を無効にした判決です。 この判決の中では、そういった障害を持ちながらも、いろいろと工夫をしながら教師としての仕事に励むことが、むしろ教育的効果、金銭に替え難い教育的効果があるのだということを、判決の中で述べているわけです。 固定観念による解雇 もう一つ、今日皆さんに紹介しようと思って、判決を一つ持ってきたのですが、それは、これも札幌地裁で(なにか北海道のほうはなかなかいい裁判官が多いようですが)、これは、「まこと交通事件」という、障害を理由とする解雇の裁判例の中では、よく論文なんかに引かれているようですが、まこと交通というタクシー会社がありまして、その運転手が心臓病になり、手術してペーメーカーを埋めた。「ペースメーカーを埋めている運転手は、いつ心臓が止まるか分からないから不安である」ということで、それで業務に耐ええないということで解雇したのです。 ところがこの札幌地裁は、解雇を無効にしたのです。ペースメーカーをつけて、心臓に対しての心拍数の信号をいつも送って運転をしている人たちに対して、さっき言った「観念」と関連してくるのですが、まこと交通側の主張は「国民の日常生活や経済活動に重要な役割を果たしている輸送の安全の確保を強く要請されている事業において、ペースメーカーを埋めこんだ運転手に果たして不安感はないのか」というのです。この「不安感が当然ある」という理由で、まこと交通はほとんど何の検討もしないまま解雇したのです。 この運転手は身体障害者1級の認定を受けて、身体障害者手帳を持っているのです。ところが、この判決はこういった観念的なものに全然惑わされずに、きちんとした判断をしたのです。「本当にぺースメーカーをつけていると、事故が起こる可能性があるかどうか」ということで、いろいろな鑑定人や証人から話を聞いて、「ぺースメーカーをきちんと装着していれば、何の問題もない」と結論し、「何の問題もないのに、何か不安で問題あるかのようにして、検討すらしなくて、1級の身体障害者手帳持っているから、これは到底だめだということで、調査もきちんとせずに解雇に及んだこと自体おかしい」ということで、判決では解雇を無効にしたのです。 結局、今回徳見さんを解雇した保健会の主張の中にも、「徳見さんは立ったり座ったりできないから、学校巡回の仕事は当然できるはずがない」ということで、徳見さんのいう「車椅子でも、工夫しだいで、これまでと同じように仕事ができる」という主張をいっさい検討もせず、また「どのようにしたら、徳見さんの体の状況で仕事ができるのか」というような方向での検討などもいっさいせずに解雇したのです。 この裁判では、歯科衛生士の学校巡回の作業は、少しの工夫がなされれば、徳見さんにおいては従来の業務をおこなうことが充分可能であるということを、前回、ビデオを作り、法廷で写したわけですが、さっきの「ぺースメーカーを埋めた以上は、もうダメだ」というような観念を、徳見さんの場合にも、一つ一つ具体的に反論をしていく必要があると思います。 また、後遺障害を受けた人が、「あの人は何%能力が喪失した人だ」というように、自賠責でも労災保険でも出されてくると、こういう観点からしますと、障害を負った人は、いわば「何かできない人」「かわいそうな人」、あるいは保護してやらなければいけないという、こういう面の感覚が出てくるわけです。 たとえば、保健会の主張の中に、「障害を受けた人を守るために、徳見さんを解雇した」かのように言わんとするようなところがあるのです。一例として、「学校では子どもの机がたくさんあるから、その狭い所に車イスの徳見さんが入って、こけたりしてケガでもしたら大変だから……」という主張は、こういった発想を利用して出してくるのでしょう。 共に働くという関係 もう一つ障害をともなう解雇で重要な難しい問題があると言ったのは、例えば自由な歩行ができなくなってしまって、それで装着の器具を使うとか車イスを使うとか、あるいは建物などをバリアフリー的なものに改造するとかという、このコストの問題がどうしても出てくるのです。そのコストを誰が負担をするのかというのが、この障害差別の問題にはつきまとってくるのです。 今は、障害をもっていても、それに応じて、技術的な社会的な、または物理的ないろんな配慮が可能になってきているわけです。その配慮がなされることによって、便宜を計ることによって、いわば従来の彼女や彼がやっていた仕事が、別の方法で充分やっていける場合がいくらでもあるわけです。仕事のやり方というのは、技術革新とともに、どんどん変わっていっているわけです。そういった場合に、障害者の労働を支えるいろいろな便宜を、どういう形で計っていくか、これがなかなか難しい問題だろうと思うのです。つまり、障害者に対して「特別な配慮」というのを、個別企業とか使用者がどこまでしなければいけないのかという問題があるわけです。 これについてはいろんな議論があります。それは健常者の社会を前提にすれば、「障害者に特別な便宜を図ってやる」という感覚がどうしても出てくるわけです。それを企業なり使用者側がコストの負担を当然しなければいけないのか、それについては、そういうことをやること自体が、逆に健常者と障害者の間の関係を固定するのではないかというような、そういう議論というのもいろいろあります。 社会福祉の中で、車イスとかいろんな器具の提供というのが、社会保障の方法でやられるようになってはきてはおりますが、実は、車イスとか、何かの器具の問題だけじゃなくて、その事業場なり職場の環境を障害者にとっても働きやすい環境に作り変えていくためには、特別なそういった便宜を与えるとか与えないとかという、その関係だけからでは、そういった職場環境を全体的に変えていく力にはならないのではないだろうかといえると思うのです。 それからさっき加藤さんのお話の中にもありましたけれども、共に働くという関係というのは、作っていくためには、健常者の目で能率よく効率よく作られてきたいろんな職場環境・社会環境・制度的なものなどを、もう一つ障害者と健常者がともに働けるということを大前提にして、一方が一方に何か特別な負担を、コストを相手に与えるとか相手からもらうとかいう関係ではなくて、共通な、共に働ける職場環境を作るのは当然であって、それは何も特別なコストを健常者の負担によって、障害者に与えていくのだという、そういう観点を変えていかないとだめだと思うのです。 もう一つ残っているのは、自力勤務という問題にからんでくるでしょうけれども、どういう通勤方法で来るかによって、仕事ができるできないという評価が変わってくるわけでも何でもありませんから、これも特別この仕事にとっては絶対的な条件というわけではありません。徳見さんの場合には介助者がいて、仕事先の学校に行ければ、それで済むことですから、具体的に何の偏見もなく、「業務に耐えうるかどうか」という点を中心にして議論をすれば、それほどこの裁判は難しい問題ではないはずです。 95年に解雇された後の議論の中で、どうしてこの点の率直な議論が、使用者側の学校保健会と、解雇された徳見さんとの間で成立しえなかったのか。そういった障害持った歯科衛生士が、学校巡回をすることについての固定観念が、学校保健会および市の側にあったとしかい言いようがないのです。 ですから率直な議論が、ようやくこの裁判、法廷で、出されきっていけば、この解雇裁判は、決して見通しがないものはないと思います。あまり楽観的なことは言えませんが、それなりの見通しをもってやっていけるのではないだろうかと考えています。 リハ裁判の長い歴史に比べれば、始まったばかりともいえるので、まだこれからこの解雇裁判は続くと思いますので、ご注目をしていただければありがたいと思います。 |
![]() 「和解」と判決のズレ 判決の期日が、1月22日に決まっていたのに、変更になって今日の判決を迎えました。 裁判所は、かなり意気込んで、「原職復帰を求める和解を勧告する」と言い切って、時間をかけて何度も被告に検討を要請してきました。 しかし、この判決は、2〜3日もあれば書けるぐらいの内容ですから、その気持ちが、当初は残っていたのでしょうが、あるときからガラッと考え方が改まってしまったのではないかと思います。 裁判所の和解の試みと、この判決との間に、最大限、裁判所の立場に譲歩して整合性を考えてやるとすると、「障害をもった人が職場復帰をするためには、職場の人たちが、それなりの対応を自発的にやることがプラスアルファーにならない限りは、復帰は困難なのであり、だから、裁判所が一方的に判決で復帰させるとなると、また考え方が違ってくるのだ、それだから、和解と判決は食い違ってもいいのだ」という判断があったのではないか、としか思えないのですが……。 裁判所が解雇の理由をつくった この判決をみても、「障害」とは何なのかということが、理念としても考え方の基本的な姿勢としても、まだ裁判所の身についていないと思うのです。 障害とは「個人が持っているマイナスの面」とみてしまってはならないのです。社会の中で障害者が生まれてきて、それを社会全体の中で(職場も小さな「社会」ですが)、全体の中で共同責任として自分たちが担っていくという考え方からすれば、障害者のできないところをあげつらって、「ここができないんだ」と否定するのではなく、「そのできないところをどうやってみんなでカバーして支え合っていくか」ということを考えない限りは、障害者の権利とか障害者の雇用などは、いつまでたっても実現しないのです。 今回の判決の最大のポイントは、裁判所が解雇の理由を探し出したことにあります。 当初の解雇理由は、徳見さんが車椅子になったということでした。それだけで十分に解雇の理由になる考えて、学校保健会が、95年、もう9年前に、非常に安直に解雇したのです。しかし、今回、裁判所は、その車椅子の問題は、解雇の理由にならないと、はっきり否定しているのです。車椅子に限らず、作業姿勢についても、座ってやることもできるし、いろいろ工夫すればやれるのだと言っているのです。 こうして、実質的に、被告が当初解雇の理由にしたところは、否定しているわけです。そのうえで、「子どもの口の中という非常に微妙で傷つきやすい部分の作業が、歯科衛生士の口腔検査では必須のものだから、完全に左上肢をコントロールできない人は歯科衛生士の仕事はできない」と、被告の主張とは別の理由をもってきて、解雇を正当化したということになります。 「障害」とは何か ところで、訴状でも引用したのですが、ある高等学校の体育の先生が脳出血で倒れて、体育の実技指導ができなくなったために解雇された裁判がありました。「実技指導もできない体育の教師なんかありえない」というのが、障害を個人責任として考える人たちの考え方なのですが、その裁判官は「実技ができない体育の教師が学校にいてもいい」として、解雇無効の判決をだしました。その判決文では、次のように述べています。 「体力が落ち、体育の実技の模範を示すことが困難になった場合には、生徒の一人あるいは数人に実際に演技をさせ、その良い点、悪い点を指摘するなど、言葉を用いること等の工夫をすることによって、生徒に模範となるべき体育実技の方法を説明することは可能である」。 つまり、子どもの中から少しできる子を選んで「キミ、ボクの代わりに、みんなの前で模範演技を見せてやれよ、ボクは実技ができないけれど、キミ、みせてやれよ」と、これで十分なのです。これで体育の授業はやっていけるのです。 徳見さんの場合についていえば、もし左手が少し震えて、口の中を綿棒でさわったら傷ついてしまうのが心配なら、子どもに、歯科衛生士が中を見やすいように口を開けるように指導すればいいのです。それをあたかも、決して徳見さんにはできないだろう、というような微妙なところを見つけだして、それで判決を書いたのです。 そこは、ものの考え方の違いだと思うのです。本当の意味での障害者問題を理解していない人たち、あらを探して、あらを極端にその人のだめなところの理由にしてしまうという――こういう判断方法が残る限りは、いつまでたっても障害者問題は解決していかないと思います。 判決の根本にある差別意識 大変残念なことですが、この裁判所は、大変善意だったのですが、障害者問題というもののあり方、解決の仕方についての根本が分かっていなかったのです。 障害をもった人は、100万人単位で、この社会にいるわけですから、そういった人たちにとってみれば、今回、いい判決がでれば、大変大きな励みになると思っていましたし、また、徳見さんにとっては、判決よりも、実際に職場に戻って、仕事ができることが一番の解決だと思って、私たちはかなりの時間をかけて、ビデオをつくったりして、本当に、苦労、工夫しながら、職場復帰を実現するための和解にかけてきたわけですが、その和解も、被告の方の非常にかたくなな態度のために判決を余儀なくされました。 その判決の中でも、裁判所において、こういう問題についての、まだかなり古くさい、かたくなな考え方が根っこにあるということをみせつけられると、こういった問題の解決には、まだまだ、いろいろな試みや闘いが、これからも積み重ねられていかなければならないのでしょう。 今回の判決で、障害者差別の大きな壁を、まざまざと、改めて感じさせられという気がします。だからといって、これでべつに諦める必要はないので、いろんな工夫をこれからもやっていけば、必ず理解は進んでいくと思うのです。 |
![]() 左手がどのように動くのか、口のめくり方はどうなのか、検査はどうなのか、というような、一見非常にささいなことを焦点にしているように見えるかもしれません。しかし、そういうことが焦点になりうるということが、逆にいうと、解雇当時、その点の調査をする必要があった、ということなのです。 障害を理由に解雇 われわれは、「徳見さんは、仕事する能力があるのに、障害を理由に解雇したのはおかしい」と言っているのではなくて、少なくても本人がどういう状況にあるのか、職場でそれに対してどういう配慮が可能なのかということを、きちんと調査して、そういう手続きを踏むべきだったのに、「あ、車椅子だから、もう徳見さんは仕事ができない」と、非常に安直に決め付けて、それで解雇したという、そういう手続き問題を重視しているのです。 ついこの間も報道があったように、障害者についての差別禁止の条約が、日本で批准されようとしている状況にあるのですが、こういう流れの中で、高裁がどういう判断を下すかということに注目したいと思います。 最近は、手続き問題だけで解雇問題を判断するというのが、時たまあるのですが、しかし「実際に働けるかどうか」──つまり就業規則の内容に該当する事実があるかどうかという、内容的な議論にどうしても傾きがちなのです。実際に働けるかどうかという内容を、きちんと判断するのは、非常に難しいことなので、やはり手続きを踏んだかどうかというのが一番のメルクマールになると思うのです。 「手続き問題」を無視した判決 だから、私たちは、一審以来かなりそのあたりを気にかけて立証してきたつもりでいるのですが、一審判決がああいう形で、手続き問題をほとんど無視してしまって、「左手の握力が弱い」とか、「口の周りの非常に敏感なところに両手のコントロールができない人が、歯口検査をやるのは問題だ」というように、論点をずらしてしまって、ああいう判決になったのです。 一審判決の判断については、そんなふうに一義的に断定できるものではないということは、裁判官にビデオを見ていただいたので、分かってもらえたと思います。したがって、それを高裁判決にどう反映してもらえるか、ということだと思います。 私も控訴審をいろいろやってきたのですが、普通は、この時点で、もし簡単に判決を書くとすると、1週間もあればできるものです。「てにおは」を変えるだけですから──何行目の何をどうする、とか、漢字を少し変えるとか、というだけの判決が大部分ですから、3か月という期間は、もう少し考えてくれるのかな、という気がします。しかし、年末年始に、たまった仕事をかたづけるだけ、ということかもしれませんが……。 いずれにせよ、3か月はちょっと意外だったので、少し検討する必要があるという印象を、控訴審の審理を通じて、裁判所に与えたのかな、という感じはしています。 |
![]() 障害者への「配慮義務」を否定 今は、例えば「職業生活と家庭生活の両立」が、法律(育児・介護休業法)で定められていて、「家庭で育児や介護の必要のある労働者については、雇用主側のほうで配慮しなければならない」とされています。とくに生活の場所を変えなければならない配置転換をするような場合には、「配慮義務違反」で、配転の命令を無効にするという判決が、どんどん出されています。 また、今の法律関係の中では、「安全配慮義務」はどんどん認められているにもかかわらず、障害者についての配慮義務、つまり「雇用確保義務」というものは、法律の義務ですらないというのは、相当遅れているわけです。 中途障害になった人に対して、解雇を回避する義務というのは、以前から言われてきております。障害に則して雇用主側が配慮するという義務を、いったん認めれば(認めるという観点に立てば)、程度問題というのは、その配慮の中で十分まかなえるのです。「将来の問題」だとか、「効率性」だとか、非常に微妙などうにでも解釈できるものではなくて……。 「効率」は差別の正当化 今は、立法上では、障害者についての「(雇用確保の)配慮義務をつくすべき」という法律上の義務にまではなっていませんが、解釈上は当然そこまできているという前提で、私は議論をしてきたつもりなのです。しかし裁判所が、それは「将来の課題」というところをみると、この判決を書いた裁判官の頭の中には、「障害をこうむったからといって、使用者に『障害者に配慮する義務』を課するというのはよくない」という考え方が大前提にあるわけで、これは、かなり基本的な問題なのです。 このことは、裁判所自身が、障害者に対して何らかの法的な配慮義務を与えるべきだという、その観点に立ってないということを明らかにしたことになります。 これは非常に時代遅れの判断です。裁判所側でも、障害をもった裁判官が出てくることを前提にして建物を建てている時代に、障害者というだけで排除して当然という旧き時代の発想にほかなりません。 一審判決では、被告がほとんど主張しなかった「左手の問題」を取り上げて、解雇が正当である理由にしました。二審になると、「左手に問題がない」ことを、ビデオで、目に見える形で裁判所を説得すると、今度は、もともと被告が言っていた「効率の問題」──多人数を短時間で検査するという効率の問題からすると、仕事はできないというのです。障害者の問題に「効率」を持ち出すことは、形を変えた差別の正当化にほかならず、最後に裁判所はこの安易な論法に乗ったわけです。 せっかく一審が認めた「車椅子でも、工夫次第で仕事はできる」という判断も、「効率」の名で否定してしまいました。 「枠組み」の認識を持てない裁判所 一審にせよ、二審にせよ、基本的には、「障害者への配慮義務」という枠組みの認識を裁判官自身がきちんと持っていないのです。枠組みの認識さえしっかりとしていれば、この程度の問題は「配慮」でどうにでもなるものです。 「障害者への配慮義務」という言葉は使っていますが、本当の核心、「配慮義務を認める」という、裁判官にとっての大事な決断のところまでは、入り込んでいないということが、これでよくわかったと思います。 こういう事件は少ないので、焦点化したという意味では、この論理は大事にしなければいけないと思います。 単に事例判決だけではなくて、判決によって普遍性を持ちうるような判断については、裁判所はなかなか踏み込んでいかないということを感じさせられます。 この問題は、立法的に解決される前にも、「配慮義務」の中で、解釈として解決しうる余地が、十分あると思います。 この裁判でも、多くの資料として提出しましたが、障害者雇用についての行政的な措置はいろいろ出てきています。しかし、器具の提供やサービスなどはいくら存在しても、肝心の配慮義務のところで、法律的な判断を一歩進めてもらわない限りは、「宝の持ち腐れ」でしかありません。 |
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