2000.9.28
篠原睦治意見書(補充) 本意見書(補充)は、先に、篠原睦治が提出した意見書(2000年7月20日、甲第70号証)に対して作成された、横浜市総合リハビリテーションセンター長、伊藤利之氏の意見書(平成12年9月20日、乙第17号証)に関するものである。 2000年9月28日 和光大学人間関係学部教授 篠原睦治 私は、伊藤氏の意見書を重ねて読んだが、いよいよ納得いかないこと、疑問に思うことが生じたので、ここに、意見書(補充)を提出することにした。 まず、伊藤氏が私の意見書に関して批判し反論している事項を整理する。 (1)篠原は、法の適正な執行に必要な業務として行われる心理評価などと、一般臨床の中で診断・治療を目的に行われる心理評価を同一視している。 (2)しかも、篠原が、これを一般論として論じることでプライバシーの侵害を立証しようとすることは、無謀な論法である。 (3)篠原は、専門家と被治療者という力関係の下では、抑圧されたり屈従したりした結果として「拒否」したという側面を否定できないとして、ましてや、このような場面での「拒否」はよっぽどのことがあってのことだろうと言っているが、これは一方的な推量を基に一般論を論じているすぎない。 (4)篠原が、プライバシーを侵害したと主張するにあたって、カルテや裁判記録だけから一般論を展開していることは許し難く、医療や福祉に真面目に取り組んでいる従事者を愚弄するものである。 (5)篠原は、自宅で入浴動作と排泄動作を確認することは、「自宅で」という場所の限定がすぐれて私事性を有していることから、プライバシーの侵害に繋がるとしている。 (6)しかし、障害が重い程、居住環境との調整は欠かし得ないサービスである。そのための自宅訪問が許されないとすれば、サービス低下を招くことになる。 (7)篠原は、本件の事実関係を十分に調査もせず、このように一般論だけを述べて、被告が原告のプライバシーを侵害しているかのような結論を導くことは、極めて無責任である。 本意見書では、上記7事項に関して、再反論を行うが、それに先んじて、次の二点に関して確認しておきたい。 第一点だが、伊藤氏は、私の意見書に対して「調査不十分、一般論」と難じているが、先の意見書は、原審に対する批判、意見であって、被告側の主張そのものを論じたものではない。その意味で、私は、原審が被告側の主張をそのまま引用しているかどうかまでは確認していないし、そのことが必要であったとも考えない。 (そのことは、原審に引用された被告側主張に関しても同様である)。もし、この際、伊藤氏が「十分な調査を」と重ねて言うとするならば、そのことは、原審の不十分さに不満を述べることになる。伊藤氏は、今度は被告側の全面的な情報公開を約束しながら、原審に対してそのことを申し出ていただくことしかない。ただ、私が思うに、原審は、被告側の主張を肯定的に採用して、原告側の主張を圧倒的に斥けていることは衆目の一致するところであり、原審は被告側の主張を事実として全面的に認定、採用しているのだから、これらの認定された諸事実は被告側にも異存がないと読むのが妥当ではないであろうか。私は、くり返すが、原審が認定した事実と判断に限って、それらに関する意見を述べたのである。 第二点だが、伊藤氏の反論は、私の先の意見書は、被告が原告のプライバシーを侵害していることを立証するために書いているかの印象を与えるが、これは本意ではない。このことについては、以下に、くわしく答えていくが、私は、むしろ、個々人への臨床行為には、必然的に(私の表現で言えば)「私事(身体、心理、生活)への介入」というテーマを引きずらざるを得ないと考えてきた。ところが、原審でもそうだが、これは法的にも倫理的にもこれを絶対あってはならないこととしてしまうらしく、原審が、これを論じるとき、あっても「ない」と強弁せざるをえなくなっている。一方で、「私事への介入」は「介入」される側からすれば、往々にして、苦痛や屈辱であったり、人生や生活が翻弄されたりする事態にもなる。ここもまた、臨床家の臨床的課題である。とすれば、臨床行為における「私事への介入」ということは、「介入」される側との関係における倫理的・道義的、そして臨床的問題にならざるをえないのである。なお、このことは、私だけが強調しているのではない。心ある臨床家はこの問題に苦闘してきたし、今日も、取り組んでいる。私は、先の意見書で、このような問題意識をもって、原審が論じる「プライバシーの侵害」問題を臨床家の立場から自己検証的にも考えたのである。 さて、先に7点にわたって整理した各事項に対する検討に入る。 (1)伊藤氏は、身体障害者更生相談所における「心理評価」は、「法の適正な執行に必要な業務」なのであって、「一般臨床の中で主に診断・治療を目的に行われる」ものとは違うのであって、私は、それを混同していると批判するが、これについて反論する。 思うに、更生相談所も更生施設も、それぞれの職務分担はあるとしても、本件にそって言えば、いずれの機関の目的も役割も、原告の「更生援護」に寄与するものと理解するのが妥当である。少なくとも、原告の側からすれば、職場復帰を願った身体機能のリハビリという「更生援護」を求めて、更生施設を訪ね、更生相談所に回されたと思っている。 にもかかわらず、伊藤氏は、私の意見書に対して、「法の適正な執行に必要な業務として行われる心理評価」が、原告の「更生援護」のためのそれとは別個にあるかのように反論している。それは、(伊藤氏が言う)「一般的なスクリーニング検査(評価)」のことと思われるが、原審上に記されたことでいえば、「初期評価期間における知能テストと心理テスト」のことなのであろうか。とすれば、私が、すでに、先の意見書で「誰に対してもルーティンワーク的、機械的に行っている」「あらかじめ用意しているテストの組み合わせ」と批判した心理評価のことである。 私は、依然として、「更生援護」という目的の下で、両者は重なってこなくてはならないと考えるが、もし、原告の診断・治療に無関係に、例えば全体としての統計的処理の為に一律に行う心理評価が、法の執行上必要な業務として、原告に求められるとすれば、それは、なおのこと、そのことに関する原告ヘの説明と原告の同意は必要なのではないか。なぜなら、心理評価を受けさせられる側は、自分の問題を解決するのに役立つと言い聞かせることで、拒否しないし協力するのである。ましてや、原告の場合、職場復帰を願った身体機能の回復を願ったにもかかわらず、心的機能の測定(心理評価)を行うというのだから、そのことの「説明と同意」は、なおのこと、不可欠である。 なお、伊藤氏は、「一般臨床」という表現を使って、更生相談所のは特有であると強調しているが、私は、「一般臨床」という言葉を寡聞にして知らなかった。確かに、心理評価は、教育、福祉、医療、産業など、いろんな分野・領域で、それぞれの目的と役割にそって行われている。その意味で言えば、更生相談所にも特有な目的と役割があるのだが、そのことは、その他の分野・領域でも同様に言えるのである。つまり、「一般臨床」が成立するところなど、どこにもないし、したがって、「一般臨床」などという概念は成立しようがない。 しかし、一方で、心理評価それ自体の目的と役割は、理論上、臨床上、ある一般性を持っていることを忘れてはならないのであって、例えば、知能(場合によって、それ以外に、自我統合の状態など)を測定する知能テストは、各臨床現場の独自性を強調する余り、その理論的・臨床的枠組みを無視して、勝手に使うわけにはいかないのである。これは、学問的、社会的、一般的約束である。 私は、先の意見書において、このような観点からも、「初期評価期間における知能テストと心理テスト」および「心理のカリキュラムとしてのP−Fスタディ」が、原告にそっての臨床的妥当性を欠いていないかと論じたのである。なお、「このような観点からも」と「も」を入れたのは、もう一つ、私は、これらの文脈において心理評価を行うことの倫理的・道義的問題を考えているからである。これについては、「説明と同意」という観点からすでに触れたが、後に重ねて再論する。 (2)伊藤氏は、「これ(上記(1)の事項)を一般論として論じることでプライバシーの侵害を立証しようとすることは、無謀な論法である」と批判しているが、私は、原告の場合にそって、「知能テストと心理テスト」および「心理のカリキュラムとしてのP−Fスタディ」を論じているので、「一般論として」論じているという批判については直ちに納得できないが、伊藤氏は、私が気づいていない「法の適正な執行に必要な業務としての心理評価」があることを言いたいのだろうか。このことについては、上記(1)で既に論じた。また、心理テストの臨床現場への適用に関しては、心理テストそれ自体の学問的・社会的・一般的約束に照らして、臨床的妥当性をそれこそ“一般的に”吟味する必要があるので、伊藤氏がこの点を「一般論として論じ」ていると非難しているとすれば、その非難を受けるわけにはいかない。このことについても、既に主張した。 とすれば、「一般論として論じることで」「プライバシーの侵害を立証しようとしている」と言う伊藤氏の主張は成立しないと考えるが、私が、「プライバシーの侵害を立証している」かどうかについては、以下に論じる。 私は、「初期評価期間における知能テストと心理テスト」に関しては、職場復帰を願った身体機能の回復という原告の願いから言って、原告には容易に納得し難いことだったのだから、やはり、「説明と同意」は最低限の作法として必要であったと、今でもそう思うが、そうかと言って、「プライバシーの侵害」それ自体を実証することに熱心なのではない。私は、先の意見書でも記したが、臨床的営為に関して言えば、その営為が適切かつ慎重であろうとすればする程、「私事(心理、身体、生活)」を系統的・組織的に探るという行為は不可避なことであると考える。それゆえ、その営為に「プライバシーの侵害」があった、なかったの議論は、かえって、この不可避なテーマから目をそらすことになると考えてきた。私は、このテーマを解く視点として、「される」側の戸惑い、不安、不快、苦痛、屈辱などの世界を無視することなく、この世界とつき合いつつ、「私事への介入」という臨床行為はなされなくてはならないと考える。これが、私の強調する倫理的・道義的問題である。私は、確かに、原告-被告の場合において、臨床する側がこの問題を軽視していると指摘している。伊藤氏は、この指摘は間違っているとおっしゃるのであろうか。とすれば、そのことを気づかせてから、「無謀な論法」であると非難していただきたい。私には、いまなお、そう思えないのである。 (3)伊藤氏によれば、私は、専門家と被治療者という力関係の下で、抑圧されたり屈従したりした結果として(P−Fスタディに始まる「『心理』のカリキュラム」を)「拒否」したという側面を否定できないとして、ましてや、このような場面での「拒否」は、よっぽどのことがあってのことだろうと言っているが、これらは一方的な推量を基に一般論を論じているにすぎないことになる。 このことについて考えるが、伊藤氏は、私の言い分を明らかに間違って紹介しているので、まずそれを指摘する。私は、「更生援護」という大義名分と「専門家と被治療者」という力関係のもとで、原告が「了承、協力」したとしても、それは、これらの状況に抑圧されたり屈従したりした結果であることを否定できないと言ったのであって、伊藤氏のように、原告がこれらの状況に抑圧されたり屈従したりした結果、「拒否」したと読んだのでは、伊藤氏が注目する「よっぽどのこと」という意味がなくなるではないか。 さて、原告が、身体機能のリハビリのため「更生援護」を求めていたことは明かである。そのため、専門家のもとに、原告が置かれていたことも事実である。ここに、力関係があったと想像することは容易である。とすれば、ある段階から原告が「(P−Fスタディから始まる)心理のカリキュラム」を「拒否したことはよっぽどのこと」と推定するのは主観的で偏っていると言えるであろうか。私は、このような状況下では、「拒否しないで協力する」のが(善し悪しは別として)普通であると考えるし、事実、原告もそうしていた。にもかかわらず、原告は、「『心理』のカリキュラム」としてのP−Fスタディを一旦は受けつつも、まもなく、このカリキュラムを「拒否する」に到ったのだが、先の意見書では、その事情を考えたのである。 先の意見書で、私は、そもそもP−Fスタディは、身体機能の故障において仮説される心理学的な原因やメカニズムを解明する文脈から言えば、適切な心理テストとは考えにくいと批判した。そして、原告の場合、P−Fスタディはカウンセリング的位置を持っているようだが、それにしても、身体的機能のリハビリを補助する心理的援助の道具としては相応しくないと論じた。これらのことは、(伊藤氏の嫌う)P−Fスタディの一般的・客観的な目的や役割からそう言える。 そして、私は、このテストを介した“カウンセリング”は、どうやら、原告の「障害の受容」と「行動の矯正」の目的、役割として位置づいているのかもしれないと指摘し、とすれば、身体的機能のリハビリ(障害の改善、回復)とは無関係になってきており、このような重大なことを原告に説明し了解を得ないまま進行することは、自分たちの立場を隠れ蓑にした越権行為だと批判した。P−Fスタディを使った「『心理』のカリキュラム」のこのような目的と役割は、原告にとっては予想だにしない不本意な事態と言わなくてはならないのだから、この際、これを実施する側の説明とされる側の同意はどうしても必要だったと考えたのである。 しかし、原告は、このような「『心理』のカリキュラム」であるがゆえに、まもなく、その継続を拒否していったのではないか。原告は、納得できなくなったのである。このような事態でも、「拒否しないで協力する」場合や人々がいると思うが、とすれば、原告の拒否は、よっぽどのことと、まずは受け止め、臨床家はそのことの事情を我が身を振り返って考えてみる必要がある。 私は、原告には説明されない(上述のごとき)「(P−Fスタディから始まる)心理のカリキュラム」の意図と役割をやがて見抜いて拒否していったと考えたのであるが、これは、「一方的で、一般的」と言えるであろうか。なお、この際、伊藤氏が、「一般的」と言うとき、「一般的」にはそのように言えるかもしれないがという含みを持たせているのであろうか。とすれば、この一般的推測が、本件にそっても適合していないかを検証してみる必要があったのである。 (4)伊藤氏によれば、私が、プライバシーを侵害したと主張するにあたって、カルテや裁判記録だけから一般論を展開していることは許し難く、私は、医療や福祉に真面目に取り組んでいる従事者を愚弄するものとなる。このことについて反論する。 私が「(原告の)プライバシーを侵害した」と主張したのは誤解であることについては、既にくり返して述べたのでお分かり頂けたと思うので、この点については、もはや触れない。「カルテや裁判記録だけから」も明らかに誤読である。私は、原審の事実認定と判断に関して、原審に採用された原告と被告の資料を軸に検討したのであって、この際、カルテや裁判記録全体を見ていないからである。 伊藤氏の常套句である「一般論を展開している」という表現についてはすでに批判しているが、くり返すが、確かに、私は、原告の場合にそって「(伊藤氏が言う)一般論」から論じている面があることを否定しない。私の言葉で言えば、私は、学問的・社会的・一般的約束からその臨床的・倫理的・道義的妥当性を吟味している。思うに、このような吟味の仕方は、その結果が違ってきても、被告側にしても、裁判所でも、同様の手続きを取っていただかなくてはならない。当該機関内のことは、当該機関のしきたり、慣習、論理だけで、(裁判の場で)そのことの正当性を社会的に獲得しようとすることはありえない。例えば、伊藤氏もひどく気にしているようだが、原告に対する臨床行為に対して「プライバシーの侵害」があったかどうかの議論は、今日的状況における「一般論」からなされているのである。再確認だが、私は、この「一般論」では、臨床行為における倫理的・道義的問題は解くことが出来ないと考える。伊藤氏は、「一般論」と言えば、私を批判したことになると考えているようだが、伊藤氏には、いくつもの「一般論」を傾聴していただき、それで、原告-被告の場合を吟味する余裕を持っていただきたい。 私が、このように主張することが、どうして、「医療や福祉に真面目に取り組んでいる従事者を愚弄する」ことになるのか不明である。私は、医療や福祉の現場にいないが、教育の現場にいる。そして、障害児・者と出会いながら、臨床心理学や心理臨床の問題を真面目に考えてきたし、先の意見書もその一環である。かくて、私も、「医療や福祉に真面目に取り組んでいる従事者」の一端につながっていると自負している。自分が自分を愚弄するはずがないではないか。疑うのだが、もしかすると、伊藤氏は、ただ、「外者」の批判を、こんな物言いで拒否しているにすぎないのかもしれない。とすれば、「外者」にも耳を傾けて下さいとお願いする他ない。 (5)伊藤氏によれば、私は、自宅で入浴動作と排泄動作を確認することは、「自宅で」という場所の限定がすぐれて私事性を有していることから、プライバシーの侵害に繋がるとしていることになる。 ところで、伊藤氏も認めると思うが、今日、人々が他人の「自宅」を訪問する事は、「私事への介入」という事態を伴いがちである。もちろん、日常的には、このような言語を使わないが、それにしても、相手の都合を聞く事は最低限の常識である。ましてや、日頃つき合いのない専門家が被援助者の「自宅」を訪問することは、被援助者側にとって大変緊張し戸惑うことのある事態であると想像することは大切である。原告がこの種の自宅訪問をお断りしたいと思ったとすれば、この限りでも十分にうなづけることである。 ましてや、それが、「自宅」での入浴や排泄の動作の確認の為なのだから、原告がいよいよこれに大きな戸惑いと躊躇を感じたとしても、なんら不思議ではない。とすれば、このような事態は「私事への介入」が引き起こすさえたる問題と言わざるをえない。その際、臨床家は、この気持ち、立場を尊重して、自宅訪問を差し控えて、被告更生施設内の場で、これらに関わる身体的な諸機能を分析的に観察しながら、また、原告から、それらに関わる生活上、身体機能上の困難点をていねいに尋ねて、臨床的、総合的に組み合わせて判断すべきである。これこそ、専門的営為である。 しつこいようだが、私は、「プライバシーの侵害」そのものを難じているのではない。そうではなくて、「私事への介入」を伴わざるをえない臨床的行為が、「介入」される側からすれば、戸惑いや躊躇を起こしがちなのだから、「説明と同意」が最低限必要だし、「同意」の得にくい「自宅訪問」のような場合には、代案で、同等の効果をあげる工夫をするのが、倫理と道義をわきまえた臨床家の役割だと考えたのである。 (6)伊藤氏は、「しかし、障害が重い程、居住環境との調整は欠かし得ないサービスである。そのための自宅訪問が許されないとすれば、サービス低下を招くことになる」と訴えているが、ここでは、伊藤氏が私を批判する関係でよく使う「一般論」になっているのはどうしてであろうか。伊藤氏は、原告の場合にそってこそ、「自宅訪問」が「居住環境との調整上、欠かしえない」と語らなくてはならなかったのではないか。もうひとつ、これが「サービス」であるならば、なおのこと、「自宅訪問」は、サービスする側の説明と受ける側の同意に基づかなくてはならないのではないか。十分な説明の後でも、受ける側が断ることで「サービス低下」になるとすれば、その事態は、受ける側が引き受けることなのであって、提供する側が負うべきことではない。 それでも、伊藤氏が、上記のように言い張るとすれば、我々が正しいと思ったサービスは受けなくてはならないし、そのための自宅訪問は受ける側にとっての義務であるとなる。「サービス」を与えると称しつつ、その行為は、恩着せがましい押し付けになるし、人々に対する公的機関の権力行為になる。恐ろしいことと言わなくてはならない。今日、そのような押し付けは、サービスを受ける側の「選択の自由」という観点から批判される傾向にある。 (7)伊藤氏によれば、私は、本件の事実関係を十分に調査もせず、このように一般論だけを述べて、被告が原告のプライバシーを侵害しているかのような結論を導くことは、極めて無責任であるとなる。ここに述べられていることについては、既にくり返したので、簡単に、その論点を要約して、この事項に答える。 ここのポイントは三つある。それらは、私は本件の事実関係を十分に調査していない、一般論のくり返しである、そして、プライバシーを侵害しているという結論を導くことに終始している、である。 くり返すが、私は、原審の事実認定と判断に関して、原審が採用した範囲の原告-被告の資料に基づいて検討したのであるから、原審が採用した範囲が間違っていたり、不十分だったりしているならば、その批判は、私に向けるのでなくて、原審に対して向けていただかなくてはならない。私は、勝訴した側である被告に関する事実認定と判断に関しては、被告側に異存がないであろうという前提で、これらを検討しているからである。 「一般論のくり返し」という批判については、原告-被告の場合にそって考えたという点では「一般論」だと思っていない。しかし、これらの場合を、「一般論」の是非を確かめつつ、それで論じたという点ではその通りである。伊藤氏は、そのことを終始批判するが、私は、その姿勢と方法が間違っていると考えることができない。 「プライバシーの侵害」問題についてはもはや論じない。それにしても、この議論に終始して、「私事への介入」という臨床行為に不可避的に伴いがちな難題を直視しようとしない伊藤氏の防衛的、自己保身的態度に驚く他ない。伊藤氏こそ、臨床家として不真面目であり、無責任である。 |