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平成四年(ワ)第三〇八八号事件 原 告 徳 見 康 子 被 告 横浜市リハビリテーション事業団 一九九九年一〇月四日 原告訴訟代理人 弁 護 士 森 田 明 同 大 塚 達 生 同 渡 辺 智 子 横浜地方裁判所 第四民事部合議係 御中 記 頭書事件の被告最終準備書面に対し、次のとおり反論する。なお、これは事実上提出するものであって、弁論再開を求める趣旨ではない。 一 転倒事故後の原告の状況 1 被告は、転倒事故後の原告の様子は、いつもどおりであった、という(被告最終準備書面四から六頁)。 しかし、そこに述べられた事実は、被告に不利な事実を一切無視して、「いつもどおり」に見える事実だけを取り上げたものに過ぎない。すなわち、原告は転倒直後、車椅子を求めて持ってきてもらい、生活訓練係の人に押してもらって理学療法室を出ている(したがって事故後のPTの訓練はしていない)。その後、ロビーで横になって休み(原告本人一八回一三頁から一六頁、甲一六の二 二月二六日の欄)、そのあと予定されていた作業療法訓練を行なおうとしたが左手が震え、また、両手を挙げていることが困難だったため、プログラムは不十分にしか消化できず、座っていることも困難になって、中止を余儀なくされた(原告本人一八回一六頁から一八頁、甲一六の五〇 二月二七、二八日の欄)こと、昼食後、午後の移動訓練は杖歩行ができない状態であったため、歩行訓練に代えて車椅子でセンター内周を二周する訓練をさせられたが、それ以上はできずに中止を余儀なくされた(原告本人一八回二〇頁から二二頁、甲一六の二 二月二六日の欄、甲一六の二九 左二月二六日の欄)こと、そして、四時に訓練を終えたものの、職員の援助がないために原告一人で一時間近くかかって、三階から玄関まで移動し、やっと自動車にたどり着き、ようやくの思いで帰宅した(原告本人一八回二八頁から二九頁、甲五一 一三頁)こと等の事実は無視されている(原告準備書面五六から五七頁)。 2 ところで、被告は、同日事故後に屋内廊下でのPTの歩行訓練を行いその成績(訓練データ)が、むしろ他の日よりもよいものであることを指摘する。しかし、実際には同日屋内廊下での歩行訓練は行なっておらず、この点の理学療法士の記載は虚偽と言わざるを得ない。そして、次に述べるように、この記載された成績がよいこと自体が虚偽を裏付けている。 事故当日の成績は(両杖歩行 一〇〇メートルあたり所要時間、以下同じ) 四分一六秒、三分四八秒、四分二二秒 である。 それ以前の両杖歩行の成績は、 一月九日 三分三三秒 一月一六日 二分四〇秒 一月三〇日 八分六秒、九分四四秒、一三分一二秒、二〇分四秒 一月三一日 一一分五七秒、八分五四秒、一〇分三四秒、一一分八秒 である(甲一六の四九 各該当日の記載より)。 被告は要するに、一月三〇日、三一日の成績に比べて、事故当日は良い成績だったというのである。 しかし、一月三〇日、三一日にそれまでの片杖歩行ではなく両杖歩行をし、かつ成績が落ちたのには理由があった。一月二八日の補装具の仮合わせの際、「膝が抜けて、こけちゃった」ことがあり(甲一六の四九 一月二八日の欄)、これは「転倒」といえるほどものではなかったが、その程度の軽微なダメージで、翌二九日の片杖歩行の成績は極めて悪くなり、また、疲れを訴えて中断せざるを得なかった(甲一六の四九 一月二九日の欄)。そこで、翌三〇日は、両杖歩行のみを行い、三一日は両杖歩行三回と片杖歩行一回をしたが、いずれも成績はよくなかったのである。 「こけちゃった」程度でも三日にわたり明らかな運動能力低下が見られているのである。本件事故直後に歩行訓練を行なったとしたら、このような良い成績が残せるとは考えがたく、その意味でも理学療法士の記録(甲一六の四九)にある二月二六日の訓練データの記載は真実とは言いがたいものである。 また、これを記載した宮崎理学療法士は、事故当日二六日に原告は「三〇〇メートル連続して歩いた」と証言している(宮崎一五回一三頁)。しかし、二月二二日に生活訓練係が行なった歩行訓練では、「三〇〇メートル弱を約三〇分で歩く」(甲一六の二九 左欄)とあり、その実施状況として「一〇〇メートル程度で歩行速度が落ち、二〇〇メートルを越えると足をひきづり腕の力のみで歩く状態になり五センチメートル程度の段差を越えるのに時間と工夫を要した。」とある(甲一六の二九 右欄)。 普段でもこのような状態にある原告が、事故直後に三〇〇メートルを一一分二六秒(=四分一六秒+三分四八秒+四分二二秒)で歩行したというのはあまりに不自然である。 さらに、生活訓練係の記録では、事故当日二月二六日について「PT訓練時に転倒し、立位歩行ができないとの訴えがあり、車椅子にて実施。センター内周二周、段差、坂道は両手を使用したが平坦路は右足をこぐ。二周目は疲労し、移動速度が遅くなった」とある(甲一六の二九 左欄)。これによれば、転倒事故のために通常の杖歩行の訓練が行われなかったと言わざるを得ない。また、宮崎理学療法士の記録による原告の状況とこれが食い違っていることも明らかであり、PT記録(甲一六の二九)の事故当日の記載は到底信用できないものである。 ちなみに、別の記録(甲一六の二 二月二六日の欄)には次のように記載されている。 「宮崎PTより 本日、訓練中に転倒し、杖歩行での移動ができないとの訴えがあるため、車椅子を持ってきてほしいとの依頼がある。車椅子を持って行った際、今日は訴えが多く、指示してもできないとの返答ばかりである。 何か言いたいことがあるのではないか、とのことであった。」 これをみても、PT訓練が「通常どおりおこなわれた」ことはありえず、同日のPT歩行訓練の成績の記載が不合理であることがうかがわれる。 3 宮崎は他にも、「他の患者がロールを落とした」「ロールはゆっくりころがった」(原告は)「前に手をついて倒れた」等の事実に反する証言をしているが、右に述べた訓練データの記載が虚偽であることと同様に、これらの証言も措信しがたいものである。このことは、本件事故が宮崎がすべきロールのかたづけを怠ったことに起因するために、責任を逃れようとする立場にあること、原告に対して一定の偏った考え方を持っていたこと(石川証言によれば、「一貫して、ある一つの判断基準が主観的なものとして存在している」(石川二八回四一頁)という)からも裏付けられる。 二 原告の転倒状況について 被告最終準備書面七頁以下では、原告に対する裁判所の質問を引用して、原告の主張が措信できないことは明白である、などというが、転倒時に反射的に首をかばって、後頭部を打たないようにすることは常識的にもありうるし、杉井医師の回答でも指摘されている(甲四三の一、二)ところである。 また、「原告が履いていた靴は底がゴム性の滑り難いものである」として、原告の調書を摘示している(同準備書面一一頁)が、実際の証言は靴が「ゴム性である」と言っているだけで、「滑り難い」とは言っていない(原告一九回六三頁)。ゴム性の靴でも滑ることがあることは言うまでもない。 その他、後方に倒れた場合、骨折、頭蓋内出血等の大けがを不可避的に生ずるといった類の主張(同準備書面一一から一三頁)は、生活常識に照らしても、杉井医師の回答、石川医師の証言に照らして認めがたいものであり、これを前提に原告主張の事故を否定する議論は成り立たない。 三 転換ヒステリー・演技的転倒の主張について 被告は、転倒事件の原因として、転換ヒステリーを主張する(被告最終準備書面二一頁以下)。 しかし、リハセンター長である伊藤証人自身、原告を転換ヒステリーと「断定しているわけではない・・・その診断を我々は積極的につけた覚えはない」(伊藤二二回一五頁)、「転換ヒステリーと特定されたことはない」などと証言している(同二二回一一二頁、一一三頁)のであり、原告が転換ヒステリーであるとの医学的判断をしているものは誰もいないのである。そして、転換ヒステリーの患者であったらすべき治療も何らなされていないのである(石川二八回四四頁、なおこの点は後記「五」において再論する)。 なお、被告は石川証人の証言について、「臨床的に原告のリハビリの現場にいたものではない」ことと、「文字面を捉えた抽象的かつ観念的なもの」「医学的根拠がない」「誹謗としか言いようがない」などと決めつけているが、(同準備書面四九頁)、これはそれこそ根拠のない抽象的な反論に過ぎず、被告が石川証言に具体的反論ができないことを露呈している。 そもそも、転換ヒステリーであるとの主張は、提訴(平成四年一〇月)後二年あまりを経た、平成六年一二月一五日付けの被告準備書面(五)においてはじめてされたものであり、時期に遅れた主張と言うべきものであるし、実際のところ事故原因の説明に窮して持ち出されたものに他ならない。 四 ロールの形状について 被告は、「ローラーは柔らかいマットでできておりかつその重量からして高さ八二センチメートル程度の平行棒の上から落下しても高速で容易に転がるようなものではなく・・」という(被告最終準備書面三七頁)。 しかし、この訓練用ロールの形状は、直径が約三二センチメートル、長さが約九一センチメートルの円筒形で、重量は約一一キログラムであり、芯は木製でその回りに約三センチメートルほどの幅でスポンジ様のものが巻き付けられている(乙一三、甲四八、四九)。このロールは「転がしたり馬乗りになったり」して使用するもので、「適度な固さがあり、使用中に身体が沈むことはありません」(乙一三、甲四八別紙1)とされている。被告のいうように「やわらかいマットでできている」ものではなく、むしろ「丸太を薄いスポンジで包んだ」ものである。実物を法廷に持ちこんだ際、床にあてればゴトゴトと音がしたことを裁判所もご記憶であろう。 要するに、長さ約一メートル、直径約三〇センチ、重さ一〇キロあまりの丸太状の固形物が一メートル近い高さから転がり落ちたのであり、これは極めて危険な事態と言わねばならない。 五 治療の進め方自体が不適切であったこと 1 被告は、リハビリ実施にあたり、プライバシー侵害がなかったと主張する(被告最終準備書面四六頁以下)が、その前提として、原告に対する治療が適切かつ合理的に行われたことが認められなければならない。しかし、以下に述べるとおり、原告に対するリハビリは、被告関係者が一般論として述べていることにも反する極めて不適切なものであった。 2 伊藤医師は、次のように書いている。「リハビリテ−ションは、チ−ムによるアプロ−チを基本としている。(略)当然のことながら、チ−ム・メンバ−間の意見の統一がなければ混乱を招くのは明らかであり、一定の意思統一が行われていることが、チ−ム・アプロ−チの条件となる」(甲三八 一七五頁)。 そして、伊藤医師は「徳見さんのリハビリテ−ション計画としては、顕在化している身体障害者のすべてを器質的損害によるものとみなし、その訴えをできるだけ受け入れる環境、雰囲気をつくりつつ、まず治療者と患者間の信頼関係を確立することに努めることにしました。なお、この間の機能訓練や社会生活訓練も、脊髄神経の身体障害に器質的損傷の結果生じたと思われる身体障害ではなく、より重度になっている顕在化した身体障害のすべてを受け入れ、それに対する基本的訓練を行いました」(乙一二(陳述書)第二の三)と書いて、「信頼関係の確立と」「患者を受容する」ことをリハビリの基本としたと述べる。 3 原告を担当するリハビリチ−ムの主なメンバ−は、医師・理学療法士・臨床心理士・生活指導員などであるが、石川証人は、これらのメンバ−の間で、このような医師の方針についての意思統一が行われていなかったことを指摘している(石川二八回一七から四七頁)。 具体的には、次のとおりである。 原告の入所目的は「職場復帰」であるが、被告は入所以前から、「障害の受容」を目的にしていた(甲一六の二 一一月二二日、二八日の欄)。 入所一〇日間は「初期評価期間」であり、この期間に、各チ−ムメンバ−によって、今後のリハビリの方針を立てるための評価・判定がおこなわれ、その結果をもとに、九一年一月一七日に「初期評価会議」が開かれている。 ここで理学療法士は、「動作能力に評価結果との食い違いあり。心因性の誘因疑われる」とし、「改善が見られないので、訓練は終了したい」と述べて(甲一六の二五 PTの欄)、すでにこの時点で「精神的な問題があるから訓練はしない」という態度をとっており、「患者を受容する」という医師の方針とは真っ向から対立しているのである。 また、臨床心理士は、「Psy(心理)カウンセリング/フォロ−への反発強く、デメリット大きいため、Psyの個別対応はスタッフからの要請に応じて行なう」、つまり自らの接触を「デメリットが大きいから、継続は断念する」状況になっている(甲一六の五二 三頁)。 もし臨床心理士が、「受容することは、自分が関わらないことだ」と判断して、自らの接触を断念したのならば、「誰が、どういう形でその役割を担うか」が、リハビリ・チ−ムの中で検討されなければならないが、それが行なわれた形跡はない。 これに対して、医師の方は、「心理的な要因があるとしても、絶対、身障者として、教科書どおりの訓練を行なう」「訓練を施行すること自体に意義がある」として、とりわけ訓練を重視する立場に立って、「生活指導員をキ−パ−ソンとして、PT・心理カウンセリングを継続する」と結論している(甲一六の二 一月一八日の欄)。そして、「対応は受容的に行なう」といって、「受容的な対応を」をチ−ム・スタッフに要求するのである(甲一六の三一、甲一六の四九 一月一七日の欄)。 医師側は生活指導員に心理的な面のキ−パ−ソンとなることを期待したのであるが、生活指導員は精神医学的な観点から見て、医師が期待するキ−パ−ソンの役割をとっておらず、半ばソ−シャルワ−カ−的、半ば生活上のル−ル係的な役割をとっているにすぎない(甲一六の二の全記述)。 こうして、医師の期待する「患者を受容する」ということが行なわれず、当初の方針であった「患者に(障害を)受容させる」という更生施設の方針は変わらないままリハビリが行なわれた結果、キ−パ−ソンであるはずの生活指導員は、「リハセンタ−のプログラムを拒否することは、当施設の方針を拒否すること」と決めつけ、ついに患者(原告)を受容することなく、患者側に責任を転化した上で、治療を放棄して排除するに至ってしまう。そして伊藤医師が、「チ−ム・メンバ−間の意見の統一がなければ混乱を招くのは明らかであり・・・」と述べたとおり、原告のリハビリは「混乱」の中で、転倒事故によって中断してしまった。 4 被告は、転換ヒステリーに関連して、次のように述べている。「転換ヒステリ−等の精神的・心理的問題を原因とする疾患の治療やリハビリテ−ションでは、患者と治療との間の信頼関係がきわめて重要であり、それが失われるかあるいは障害の原因が残存しており潜在的にそれ以上の回復を拒絶したときは、再び最初の治療やリハビリテ−ションの段階に立ち戻り、根気よく信頼関係を築きながら治療やリハビリテ−ション計画を進めるしか方法がなく、できれば信頼関係を失った担当のスタッフを代えて、これに対処することが必要となる(被告最終準備書面五三頁)。 自らこのように言いながら、こうした努力を被告は全くおこなわなかった。すでに初期評価期間の時点で「患者と治療者との信頼関係」が失われていたにも関わらず、「根気よく信頼関係を築きながら治療やリハビリテ−ション計画を進める」努力を全くせず、「信頼関係を失った担当のスタッフを代える」こともしなかった。医師と理学療法士、臨床心理士、生活指導員という、リハ・チ−ムを構成する主要な部分において、リハビリの方針が合意されないまま、医師以外のチ−ムメンバ−のほとんどが、医師のいう「受容的な対応」を否定するような対応を行なったのである。 事故後、伊藤医師は、「心理的問題による障害が予想以上に大きくて(治療がうまくいかなかった)」と述べて(乙一二(陳述書)第三の四)、ここでもリハビリテ−ション治療の放棄を患者側の責任に転化しているが、むしろリハビリを進める上で重要な「患者の受容」「患者との信頼関係の確立」のための努力を怠ってきたものに他ならない。 このようにリハビリの進め方自体が他ならぬ被告関係者の言うリハビリのあるべき姿を逸脱し、原告に不利益に進められているのであるから、リハビリ実施上の必要性を理由に被告によるプライバシー侵害を正当化することは許されない。 5 なお、前述のとおり被告自身が「転換ヒステリ−等の・・・治療やリハビリテ−ションに重要」だという、患者と治療者との間の信頼関係の確立を怠ってきたことは、被告が実際のところ原告を転換ヒステリーとは考えていなかったことを裏付ける。また、他方で、伊藤医師が、「精神的・心理的な問題がある場合、通常のリハビリとは異なる特別なケアが必要となるのではないか」と問われて、「いや、そんなことは考えておりません。そこまでやるんだったら、私たちの範疇ではできないです」と証言している(伊藤二二回一二二頁)ことも、結局、転換ヒステリ−のためのリハビリを何もしていなかったことを物語っており、被告の転換ヒステリ−の主張に相反するものであることを指摘せざるを得ない。 六 入浴等の動作確認について 被告は、生活関連動作の確認について、被告が原告に求めたのは、「被服をつけたままでの模擬的動作であり、入浴や排泄そのものではない」という(被告最終準備書面四五頁)。しかし、一方で、被告は、「広く動作の改善方法を検討するためには、とくにADLにつき機能障害の段階で障害因子を検討するため、直接動作を観察評価することが不可欠である」(同四一頁)、「高次脳機能障害やその他の心理的問題に関しては、これがADLに及ぼす影響を日常生活の場の中でも具体的に把握すべきであり、家族や病棟が問題の所在を共有して理解するためには、実際の動作を共同の場でも評価することが必要であること」(同四二頁)などと述べており、こうした目的からすれば、入浴や排泄については被服をつけずにすることが必要になるはずである。 七 心理のプログラムの強制等について 被告は、「その必要性の下に、心理を受けるように説得することは、むしろ医師等における義務ともいえる」もので、説得することをもってプライバシー侵害とは言えない、という(被告最終準備書面四〇頁)。また、「被告は専門家としての見地から、心理的アプローチ及び日常生活動作の確認が必要との判断を有していたのである。一方、原告が有していた職場復帰のために右プログラムが必要ないとの判断は、医学的な判断を無視した、主観的なものであり、障害受容の不十分な段階での原告の希望に過ぎない」から、訓練の必要性を説得し、実施を求めることは許される、という(同準備書面四八頁)。 しかし、まさにこうした発想そのものが、障害者の人権を全面否定するものに他ならないのであり、リハセンターがこのことになんら無自覚であることに驚かされる。 リハセンターの発想は、「心理」が必要か、「日常生活動作の確認」が必要か、は医師ら専門家が決めるものであり、決めた上でそれに応じるよう障害者を「説得」して同意を取り付ける、というものであり、これに反する当該障害者の希望や考え方は「主観的」と決めつけられて無視されるのである。 これは、障害者の自己決定権、インフォームドコンセントを真っ向から否定することに他ならない。被告は、同意を得られなければしないのだから、障害者の自己決定権を侵害しないとでも考えているのかもしれないが、それは大きな誤りである。 障害者の自己決定権を認めるのであれば、まず、「心理」なり「日常生活動作の確認」なりがどのような意味を持ち、どうして必要であるのかをあらかじめ説明し、当該障害者の同意をえてはじめてプログラムに入れるべきである。その過程で、障害者側の認識が主観的だというなら客観的な認識を持たせるようにし、誤解があればそれを解く努力がされなければならない。こうした手順を踏まず、当事者たる障害者を排除した場であらかじめプログラムを策定してそれに応じるよう「説得」することは、実際には「同意させられる」選択肢しか与えられていないのである。現に被告は、専門家の決めたプログラムを受け入れることが当然であるとして、原告にリハビリテ−ション・プログラムの受入れを「説得」し、「同意」を強制した(甲一六の二 二月五日〜一二日の欄)。そしてこれを拒んだ原告に対しては、様々な形で非難が浴びせられ(例えば「プログラムを拒否することは、当施設の方針を拒否すること」(甲一六の二 二月八日の欄)と決めつけられた)、ついには事故を契機にリハビリ継続を拒否するに至るのである。 伊藤医師は、「障害者とリハビリテ−ション・チ−ムの間において、障害者自身のautonomy、すなわち自己決定権を十分に尊重しうるような行動規範をつくる必要がある」と述べている(甲三八 一七六頁)が、被告リハセンタ−の原告に対するリハビリのありようは、伊藤医師の自身のいう「自己決定権の尊重」を自ら否定するものに他ならない。 どのようなリハビリを実施するかについて、伊藤医師の言う「自己決定権」とはうらはらに、リハビリを受ける障害者が事前に説明もされずに、リハビリの内容を決められ、同意を強制させられてしまうこと自体、障害者の人権を否定するものであることが、判決を通じて明らかにされるべきである(原告最終準備書面二二から二六頁)。 以上 |