99.7.29
はじめに 1991年2月26日、リハセンター内の訓練室において、転がってきた訓練用具に衝突されて転倒しました。すぐ近くにいた医者が、ただちに診察し、治療し、その後、適切なリハビリをするなどの対策をとったならば、今回の裁判は、なかったはずです。 目の前にあおむけに倒れて動けない「患者」がいるのに、診察もせず放置する医者、リハセンター内で起こった事故によって「通所訓練者」が家で寝たきりになっているのに、謝罪どころか、見舞いにも来ない職員、「倒れたぐらいで身体症状が出るような、頚(くび)の脊髄が悪い者は、他の総合病院でリハビリをせよ」として、リハビリ訓練再開を拒否する……。常識ではとても考えられないことです。 事故は、PT(理学療法士)が片付け忘れたロールが転がり落ちて起こったものです。PTは、自らの責任逃れのために、「他の患者がロールを落とした」「徳見はわざと転んだ」「事故後も通常の訓練をした」などというウソをついたのです。 リハセンターは、事故について、私とPTの言い分が違うにも関わらず、PTの言うことだけを「事実」として、私の主張をいっさい受け入れず、「事故ではなく、事象だ」といって事故を否定しつづけ、リハビリ再開を拒否して、リハセンターから追い出しました。 さらに、裁判になるとリハセンターは、「徳見は転換ヒステリーあるいは詐病である」「転換ヒステリー・詐病患者は演技的転倒をする」などと、世間一般の「ヒステリー」に対する差別・偏見の意識そのままの主張をするにいたりました。 市行政の「福祉施策の中核的施設」を標榜するリハセンターが、このような差別・偏見を公言するなど、許されることではありませんが、このようなことを平気で言えるのも、リハセンターが、「障害者のためのもの」ではなく、「障害者を選別・分断(これこそが差別です)して管理するための施設」であるからなのだと思います。 『訴状』の「本件訴訟の意義」では、次のように述べています。 この事故の発生する背景として、「障害者のためのリハビリ」という基本的な観点を喪失し、障害者の管理と情報収集に重点がおかれているリハセンターの姿勢が問われなくてはならない。また、事故発生後、事実を正確に把握して、原告にとって必要な処置をすべきことは……リハセンターで訓練を受けている患者に対するケアとして当然なすべきことであった。ところが、リハセンターはこうした対応を一切せず、事故の事実経過については、少数の職員の「報告」のみを鵜呑みにして、原告の訴えに耳を貸そうとせず、事故をきっかけに、これ幸いと、原告に対するリハビリを放棄してしまったのである。こうした対応は、「障害者のプライバシーを無視した情報収集に異を唱え、障害者の主体性を尊重するリハビリ」を求めた原告に対する報復といわざるをえないものである。 ここに書かれている「原告に対する報復」という部分について、少し補足しておきます。 私は、福祉事務所や更生相談所で、リハセンター通所の承認を得るにあたり、健康診断の他、家族・財産状況、自宅および自宅での日常動作等をこと細かに審査され、知能テスト・心理テスト等を受けさせられました。 また、リハセンターにおいては、性格検査・心理相談を行う「心理」のカリキュラムが、1週間に1〜2時間程度ありましたが、「リハビリの名のもとに、障害者に対し心身すべての状況をさらけだすよう要求される」ことを拒否しました。 さらに排泄、入浴の動作等を自宅でおこない、指導員が確認するというプログラムも、「自力での動作が可能であり、指導員による評価は必要ない」と拒否しました。 リハセンターでの「訓練」は、心理状態や、日常生活のあらゆる動作を観察し、測定し、記録し、評価することに終始し、私が最も必要とする職場復帰のための機能回復訓練および障害に見合った仕事上の工夫等に関する指導は、全くなされなかったため、医者や指導員に抗議、あるいは注文をつけてきましたが、それに対しては、希望するリハビリプログラムを削除するという「嫌がらせ」も行われました。 入所の「訓練生」たちに、そのような私の意見や感想を話す中で、それらの人たちの間にも、リハセンターの訓練に対する不満の声が広がって行きました。 「障害者を管理するための中核的施設」として存在するリハセンターにとって、これは由々しき事態だったにちがいありません。「リハビリテーション計画書」の一部を拒否したとき、「(本人が)拒否しているプログラムは、リハビリテーション計画に明記されているものであり、そのプログラムを拒否することは、当施設の方針を拒否することになる(甲第16号証2/平成3年2月8日の欄)」といって、転倒事故前から排除することを考えていました。だからこそ、「事故をきっかけに、これ幸いと、原告に対するリハビリを放棄して」しまい、リハセンターから追いだしを計ったのです。 リハセンターにおける事故によって自力で外出ができなくなった私を、職場は、それを理由に解雇いたしました。 1.リハセンター入所まで 私は、横浜市学校保健会に就職し、歯科保健事業担当歯科衛生士として、児童の歯口清掃検査・歯科保健指導を主な仕事とし、横浜市内の小学校を巡回していました。 私が就職したてのころは、歯科指導を希望する学校が少なかったのですが、希望校が年々増えてきたため、それまでの、一斉授業という形でおこなっていた歯科指導の「授業」の密度を減らして、「検査」の密度を増やすことによって、希望校全体を受け入れていくようになりました。 やがて、規模の大きい学校になると、900人、1000人近くの児童を、午前中一人でベルトコンベアーのように、次から次へと流すように検査しなければならなくなりました。 中腰で前かがみになり、いつもずっと手を挙げっばなしで、口のなかを検査するというきびしい労働条件の中で、78年(昭和53年)4月ごろから、以前から感じていた肩凝り、腰痛、腕の痛みがひどくなり、頸肩腕障害という職業病と認定されました。そして10年間という長い期間、治療を続けながら仕事をおこなってきました。 職業病10年間の過程で、離婚せざるをえない状況がありました。その中で、自分が選んだ道は「子どもと共に二人で何とかやっていこう」ということでしたが、職業病の患者として治療をしながら、仕事を続けていくためには、そしてまた、これ以上職業病の患者を出さない職場にするためにも、職場の労働条件をもっとゆるやかにしなければならない、と思い、当局と交渉を行ってきました(交渉の相手は、教育委員会学校保健課の課長です)。 その結果、労基署からも職場に対して、「検査の人数を1日あたり500人以下にすべき」という行政指導がなされ、それ以後は、職場の歯科衛生士で、頚肩腕障害の患者は出ることがなくなりました。 (1) 頚の手術 女が一人で子どもを育てるということは、社会的にいっても大変なことですが、個人的にも、正直言って、いろんな思いがありました。「自分は自分として生きていきたい」という気持ちの中で、経済的には、リハセンターと同じ横浜市の第三セクターで収入を得て、子どもを育てることができました。 職業病の症状が改善し、また、職場の内容を変えることで、自分がこのままずっと仕事をして行くことができると思っていたころ、手のひらの筋肉の萎縮や足の感覚マヒが出てきました。今まで、職業病でかかっていた医者は、「頚の脊髄からきているかもしれない」ということで、横浜市立大学病院での検査の結果「頸椎症性脊髄症」という、頚の脊髄が萎縮する病気であることが分かり、横浜南共済病院で、1989年(平成元年)1月手術を受けました。 頸の手術をして、筋肉トレーニングをすれば、身体は元にもどれる、という幻想を抱いていました。しかし、手術が終わっても、あまり歩けませんでした。普通は3か月、長くても5か月で退院できるのですが、私の場合はなかなか退院の許可がおりませんでした。そのころの激しい葛藤――自分がこのまま回復しないのではないか、でも、仕事はやり続けたい……。それは、生活上の大きな変化、そして身体の状態の急激な変化がもたらした不安なのでした。 主治医に「なぜ退院できないのか、教えてほしい」と質問したところ、「自分が手術した千人の患者のうち、手術がうまくいかなかった十人うちの一人」という答えであり、主治医に対して不信感をもったこともありました。 それでも、1年半ほどの入院・リハビリの後、歩行は、左足に長下肢装具、両手にロフストランド杖をもって可能となり、90年6月に南共済病院を退院することができました。退院にあたっては、「転倒しないこと」「自動車運転ではムチ打ち事故は絶対におこさないこと」というのが約束でした。医師の勧めで、「頸椎症性脊髄症による両下肢麻痺」により障害者手帳1種2級を受給しました。 (2) 生活の中のリハビリ 退院してからは、車の運転のリハビリをして、オートマティック車という条件つきながら、自力でできました。また、長下肢装具やロフストランド杖を使って、歩行は400メートルくらいなら、わりと無理なくできる状態でしたので、買い物も通院も家事も何もかも、車の運転と両杖と装具でやりきっていました。「障害」に対して、娘と私二人で動作を工夫して、他者の介助や援助なく暮らしていました。それも、無理な形ではなくて、当たり前に生活ができていました。 リハビリを生活の中に入れるために、知人とプールへ行きました。水の中での歩き、水泳、また、知人の作業所で歯科衛生士としてのボランティアをやりながら、陶芸の作業療法をやらせてもらっていました。 ただし、仕事では、右手に大きな歯の模型を持ち、左手に大きな歯ブラシの模型を持ちます。しかし左手が歯ブラシを持つときに、うまく動作ができません。また、両手を使って作業をするときに、その道具をどうやって使ったらいいか、もしかして、私が子どもと同じ方向を向いて、大きな歯ブラシをどこかに置いて固定すれば、歯磨きの指導ができるのではないか、また、杖2本使って歩きながら、資料を見せたり、黒板に説明や絵を買いたりするとき、どうしたらよいか、書類をどうやって運べばいいか、リュックサックで背負ったらいいのか、何かベルトなどちょっとした道具があれば、なんとか運べるのではないか……。ちょっとした工夫に向けた方法と練習がそこにあれば、職場復帰ができる状態でした。 2.職場復帰に向けてのリハビリの手続き (1) 福祉事務所での審査 3年の休職期間は92年4月25日満了なので、それまでの1年10か月以内に、24年間続けてきた学校巡回の歯科衛生士として仕事をする場合に残されている課題――両手にロフストランド杖をついて、どのように歯科指導をすればよいか――を解決して職場復帰をするため、主治医に、自宅近くの横浜市総合リハビリテーションセンターを紹介され、「リハビリの専門機関だから、つらくてもがんばるんだよ」という医師の励ましの言葉に、期待に胸をふくらませてリハセンターへ通うことにいたしました。 私はリハセンターの中身を全然知りませんでした。しかし、リハセンターでは、職業リハビリを含めて「総合的なリハビリ」をやっているということでしたので、ほんとに、日常的には目前に職場復帰できる体の状態にありましたので、きっと、リハセンターは障害者に対する「総合的な施策」をするところだから、障害者のことをよく分かってくれた上で、障害者が自立生活するために、機能のリハビリも含めて、いろいろやるのだろうと思っていました。自分が生きていくために活用できる知恵を、病院よりもっと「専門的に」教わることが多くあるにちがいない……、だって「リハビリの専門機関」だから……と。 90年9月、リハセンターの外来で初めて診察を受けました。私が、今の「障害」で職場復帰するために、マヒのある体をどういう状態で良くしていけるか、訓練や工夫を身につけたい。娘と私の母子家庭で生活していくためにも、今まで勉強して培ってきた仕事も大好きで、これからもこの仕事を続けたいので、お願いします、とリハセンターの医者に言いましたら、「それをやっていくには、外来では限度があるので、集中したリハビリが必要だ」という答えでした。私もきっとそうだろうと思いました。集中リハというのは、すごくたいへんだろうと思っていたし、紹介してくださった大成医師自身も「リハビリはきつくてもがんばるんだよ」といって、送ってくださったのです。 私は「はい、がんばります」と言ってスタートしたのです。病院での「リハビリ」とは全く違うことが待ち受けているなんて、予想もしなかったのです(裁判で、リハセンターは「集中リハ」という言葉はない、と言っています。今から思えば「更生施設入所のリハビリ」のことだったようです)。 集中リハを受けるにあたっては、いろんな難しい手続きがあると、リハセンターから説明されました。「ラッキーな人は3か月くらい先です。それまで外来でリハに通ってください」と。希望が非常に多くてそんなに先にしか訓練できないのだ、と思っていたら、手続き上いろんな審査が入っているので、そんなに時間がかかるということが、後で分かりました。 リハセンターの集中リハを受けるためには、区役所にある福祉事務所に申し込んでください、ということで、福祉事務所へ行きました。すると、窓口の福祉事務所が、私を審査するというのです。リハセンターに送る資料として「集中リハを受けるに値するかどうか」の評価判定が、そこから始まったのです。 私は、自分が職業病のときや健常者であったころに、何も知らない他人に、自分の身内のことを話したり、自分の家の中を見せたりなど、したことはありません。ところが集中リハを受けるための福祉事務所の審査は、自分の親はこういう人で、兄はどのくらいの財産があって、いまは会社のどういうポストにいて、それが本社づけか支社づけかということまで聞かれて……そういう調査から始まりました。 その1――学歴、家族・親戚・親・きょうだいの社会的地位・財産、家族・親戚との人間関係、仕送りはないか、病気の説明・経過、離婚の話、離婚後の生活の状態、子どもとの生活の中身――何でこんなことを説明しなくてはいけないのでしょうか。 その2――自宅の審査。部屋を見せ(親しい人以外に、自分の部屋を見せるのは嫌なものです。見るほうは感じていません)、だいたいの家事や家での日常生活の行動の仕方、例えば、ここで「ひざ歩き」とか、はいずってゆくとか、伝い歩きとか……。 (2) リハセンターでの審査 福祉事務所からOKのお知らせがきて、こんどはまた、リハセンターの中にある更生相談所の審査にまわされました。その審査で、最終的にリハセンターの集中訓練を受けるまでに、家族状況、そして「なんで離婚に至ったのか」という話を5回もさせられました。こちらは必死なのです。職場復帰のために役立つと思っているから、集中訓練を受けるためには、全部しゃべらなくてはいけないのではないか、と。 どうして、リハビリ訓練をするのに、こんなにたくさんの審査が必要なんでしょうか。今までの医療機関では、ここまで調べられません。「きっと、そこでのリハビリは、きめ細かい配慮のある指導やアドバイスがあるからでしょう。専門機関だから……」と、そのときは思いました。そして、疑問を感じつつも、私は、「母子家庭」の大黒柱として生活して行くために、職場復帰がしたいのだから……、ということで、一生懸命説明するのです。 障害そのものは、人によって様々です。たとえ、おなじ障害であっても、その人の生きて行く道は様々で、社会が障害者を受け入れないのなら、社会を変えて行くことをし続ける中で作っていくものです。ところが、リハセンターは、現状の社会条件をすべて前提とした上で、障害者を社会にあてはめていくのです。労働については、「こういう障害者は授産所コース。こういう障害者は授産所では無理だから、地域の作業所コース。この障害者は、ちょっと受入れ態勢が無理だから、在宅……」というように、ふるい分けコースができていて、最終的に集中リハが終わるときには、そういう選別のもとに「はい卒業」となるのです。 そんなことのために、プライバシーも無視されて、こんなぼう大な個人情報をとられるのでしょうか。そして、批判したり抗議したり騒いだりする障害者は、ヒステリーのレッテルをはられて排除され……、障害を受容して、おとなしい障害者になれというのですか。ふるい分けされるために、障害者はリハセンターに行くのではないはずです。少しでも「本人」にとってプラスになることを求めて、行くのではないでしょうか。 3.「集中リハビリ」は「施設」 様々な審査を終えて、やっと「入所」が決定されました。1月7日、学校でいう入学式です。今月の「入学」は、私ともう一人(1か月コース)の二人。受け付けをすませ、いろんな人のあいさつや施設内の説明を受けました。名簿や予定表をもらい、カリキュラムをみると、「心理」が「OT(作業療法)」と同じくらい入っています。心理って何でしょうか。聞いてみたら、「身体障害者になった悩みの相談」だというのです(相談の申し込みもしていないのに!)。私が相談する人は別にいるから、それよりも「訓練」を入れてほしいというのが正直な気持ちでした。 すでに心理テスト(5種類くらいの性格診断)をやったのに、さらに続くのです。非常にいやでした、他人に「心の裏側」まで探られるというのは……。心の相談というのは、信頼できる人にうちあける、それが人間としてのあたりまえの姿だと思うのですが、リハセンターの考え方は「障害をもったら、心理的に不安があるだろう。だから相談があるはずだ」という前提のもとに、知能テスト・性格検査をするのでしょう。それは訓練が始まってからもずっと、続きました(拒否しましたが……)。 「初期評価会議」までの2週間のカリキュラムは、ほとんどが個別評価です。「評価が好きだなぁ。まぁ2週間くらいなら、判断材料だからガマン!」と自分に納得させました。それから、歩いているところや動作をしているところや、顔写真も含めて、カメラとビデオの撮影があります。自分の「障害」を撮られるのはいやなものでした。自分が「思い出」として撮るのではなく、あくまで、障害の「証拠」として撮られるのですから……。 「心理」のカリキュラム 「心理」のカリキュラムの内容は、性格検査と「心理相談」らしいのです。時間内にテスト用紙に書き込みきれなくて宿題がでたり、担当の職員が休んだときには、宿題として性格検査を自分で記入して提出したこともあります。 心理判定は、精神分析をして、その人の隠れている「異常」な部分をほじくり出すのでしょうか。人間と人間が接していくのに、お互いこんな判定結果をもとに人間をふるい分けて、日常的に判定していくのでしょうか。 テストによって「社会への適応性に欠ける」と判定されたら、それは、その人のあり方がよくないから、「正しい社会」に合わせるように生きよ、というのでしょう。このテストを何回もやる「訓練」をすると適応していくのでしょうか。 リハセンターに「私は心理のカリキュラムはいりません」という意見を言いましたら、続々と、今まで、しかたなく心理を受けていた入所者(障害者)が声を出すようになったのです。ときにはサボタージュしたり、職員に「ケンカ」をふっかけたりして、拒否の動きがでてきました。職員個人のせいではありませんが、心や頭の中の分析や評価なんか、どんな価値観でやられているのか分かりませんし、それが管理や圧力に使うのでしたらなおさらです。 PT(理学療法)のカリキュラム 私は長い距離は歩けません。階段も低い段を少しだけしか登れません。そして長い時間立ち続けるのが難しい状態でした。 生活の中での移動方法は、家の中ではひざ歩きや伝い歩きや這いずったり、外では車であったり、2本の杖と装具を使い、段が少しきついところは、通行人や一緒に出かけた人に後ろから装具を持ち上げてもらったり、前に立ってもらい、その両肩に手をかけさせてもらって、一緒に段をあがったり、工夫していました。 それではリハセンターのPT訓練のカリキュラムは、といいますと、 @ 階段を10分間に何回往復できるか。 A 100メートルの廊下のコースを1周何分何秒で歩けるか。2周めはどうか。3周めはどうか。何周やったらダウンするか。タイムを計る。 B 平行棒の間で、支えなしに、装具だけで、何分立っていられるか。 C 機械によるアキレス腱伸ばし。 これらのカリキュラムは、私の身体の状態を把握するためには必要なものだと思います。しかし、それが把握できた後は、その身体の状態でどのように生活上の工夫をすればよいか、筋力を落とさないようにするにはどうしたらよいか、介助の人をどのように「活用」するのか、筋肉疲労を起こさせないように、温めたり、ストレッチしたり、筋肉がパニックにならないような方法や安全上の注意などは、理学療法士だったら分かるはずだし、指導できなければならないわけですが、そのような指導や注意などはまったくありませんでした。タイムウォッチで計るのと回数を数えるだけでした。 「しろうと」の私だって、階段登るときに、どっちの足から出したらよいか、足をそろえて登ったらよいか、降りるときは、どちらの足からか、手すりのどのへんをつかんで、力の足りない部分は、腕を引き寄せる力や体重移動をつけ加えながら(そうしないと登れない)……などと考えながらやっています。 リハセンターの階段練習は、2本の杖を他のところに置いて、杖を使わずに登り下りするのです(データを集めるだけです)。私は「駅の階段」ぐらいの高さや段数では、途中で歩くことができなくなってしまう筋力ですから、リハセンターの階段昇降訓練で街に出たら、どうなるのでしょう。駅の階段で、下に杖を2本おいて階段を登れるのでしたら、歩くのにひじあてつきのややこしい杖(ロフストランド杖)などはつかなくてすむと思います。 リハセンターでは、条件整備のできていない街で、通行人や介助者に「手助け」を頼むわざも指導されません。また、広いスペースの急斜面のところは、スキーをやったことのある方は経験があると思うのですが、横向きになって体重移動を使っておこないます。「しろうと」の私だって、このくらい気がついて考えながらやっているわけです。 しかし、リハセンターPTの「指導」には、何もありません。「評価・判定」ばかりの「指導」についての葛藤もまったく感じられませんでした。結局「指導」と言えるものはまったくなくて、あとは評価です。「昨日より今日のほうが遅いですね。先週のトータルより、今週のトータルは成績悪いな……」と。「ふざけるんじゃないや! 先週、筋肉が疲れすぎたために、今週は筋肉がつってしまったんだい!」と、心の中で文句を言いながらも、顔では笑って、「すみません、成果が伸びなくて」なんて謝って、「まじめに」訓練するのです。ほんとうにリハセンターの指導は、私が指導員やったほうがどれだけよいのかと思いました。 こんな気持ちがつい外に表れていたらしく、PTのカルテには、個人的な感情むきだしのひどいことが書いてあります。 リハセンターの通所が始まる以前は、時々プールに行って、友人とプールの中で歩いて、身体が気持ちよくなっていました。それはきっと、ふだん両杖と長下肢装具使ってふんばって歩いているのに、水の中では、杖を使わずに、両腕をふって肩をほぐしながら自然にストレッチしたり、タイムウオッチに追われないからなのでしょう。疲れたらサウナで筋肉をほぐしたりしていました。ほんとうに身体が楽になって気分がよかった。私は、「ああ、これが生活の中のリハビリだなあ」なんて……、ほんとうに体調もよかったのです。 それが、リハセンターで訓練をやっていたときは、筋肉はすぐにつるし、痛みがだんだんひどくなるし、筋肉がガチガチになりっぱなしで、「成果」もあがらないのです。 それは、リハセンターの「訓練」が、データをとるために、筋力の耐久ぎりぎりまでやるのですから、筋肉がつってしまうのです(病院でのリハビリでは、筋肉がつるのは脊髄が悪い人は絶対よくないことだと何回も言われていましたし、リハセンターの医師も言っていましたが……)。そこで私は、筋肉のストレッチをするために、カリキュラムをこなすには1時間ではできないので、交渉の末、1時間半に延長してもらいました。 これについて、リハセンターから提出されたPT(理学療法士)のカルテには、次のように書かれています(甲第16号証49/91年1月23日の欄)。 「ノルマがこなせない。訓練時間が短い」と訴えあり。「Ex(訓練)時間が短いのでない。ノルマがこなせないのは時間でなく、あなたの疲労の為、こなせないのである。よってEx量はこれ以上増やせない」と説明。先週までは60分であった。一応希望を入れて90分に延長している。「これ以上時間は延ばせない」と説明。 このように、PTは、時間延長の理由をまったく理解できず、また、「疲労」の原因を患者のせいにして、自らの訓練方法にあることをまったく自覚していないのです。 また、同じく2月6日の欄には「マット上にてゴロゴロと90分過ごす」などと書いています。マットでのストレッチ(腰痛対策や腕の筋肉のストレッチ)は、職業病時代に指導されたものですが、リハセンターPTの「訓練」で足のつけ根や腰痛がますますひどくなったため、これも私が何度もお願いして、やっとカリキュラムに入れてもらったものでした。 OT(作業療法)のカリキュラム これは主に手芸的な作業をしました。筋肉を使った後、痛むところをマッサージしてもらったり、脇のストレッチを教えてくれました。残念ながらひじを宙に浮かして大きな歯と歯ブラシの模型で指導するときはどうしたらよいかという、職場復帰にむけてのヒントはありませんでした。でも、一緒に考えて悩んで、指導を考えてくれました。特別な装具も考えて作ってくれましたし(これは、「障害」とあまり関係ないのですが、じつはゴキブリをつぶすときに、勢いあまって手をテーブルに打ちつけてしまい、親指の関節が軽い剥離骨折をおこしたのです。その指で字を書くときの保護装具です)。 職能のカリキュラム 「職能相談」の時間では、職場復帰するために職場と交渉するときは組合があるかとか、どういう組合に入っているか(あまり思想信条にふれてほしくなかったのですが)、「もし職場復帰しない場合はどうするのか」という質問もありました。私は、職場復帰以外はまったく考えていなかったので、「まあ、退職金で『田舎』に家でも買って、山の中で暮らしたい、できたらログハウスなんか建てられると最高なんです」などという夢を話したり、生活の中のリハビリとして、プールへ行ったり、友人の作業所で障害者の歯みがき指導のボランティアをやりながら、自らの作業療法として陶芸をやっていたことなどを、「気楽に」話をしたのですが、職能の担当者は、それを次のように「評価・判定」したことを、裁判になってから知りました(甲第16号証3)。 今後の進路について、次のうちどちらにするか(復職か、ボランティア又はグループホーム設立準備)、本人は迷っている。この点については本人が考え判断していく他ないが、こちらとしては当面、復職を目標というつもりで考えておくことにする。 こうして、「迷っている」という「評価」になっています。そして、「復職を目標というつもりで考えておく」といいながら、「次回はここの授産で訓練をする可能性も考えて、単純な作業への適応を見るための検査を行なうことにした」といって、「授産所送り」も考えているのです。 こうして、職能の「能力判定テスト」をやらされました。ビスやナットが4種類あって、それを何分間にどの位組み合わせができ、ミスがどの位あるか。記号や数字の組み合わせの部品を、何分間に何セットでき、ミスがどの位あるか。これは内職や工場などの組み立てや、地域作業所がおこなっている作業を想定したものらしく、これをテストするときに、担当の職員は、「徳見さんにはたいへん失礼なテストですが……」という前置きがありました。 この職員は、「障害者」の仕事=簡単な組立作業、「障害者」とくに「知的障害者」に対して「これで月に6千円かせげて、交通費も出ます」程度の「おそまつな」作業所政策に疑問をもっていたのでしょうか。それとも、「あなたは作業所対象ランクではないが、リハセンターでのカリキュラムだから」と、おかしいと思いつつ業務としておこなっていたのでしょうか……? 私みたいに痙性麻痺が強い者は、「内職」はできないのです。健常者だって内職で生活費をかせごうとしたら、すぐ職業病でたおれてしまうでしょう。そういう私も、身体が変化した最初は職業病です。 リハセンターでの職能訓練は、 ・中途障害者が原職復帰できるランク。 ・新たに他の職種や他の企業に代わりうるランク。 ・授産所にいくランク。 ・地域作業所にいくランク。 このように労働能力によるふるい分けをおこなっていくだけなのでしょう。リハセンターの授産施設で職能訓練している障害者は、袋づめ作業や組立作業や園芸などを主としているようです。 入所者のうちどのくらいが職能訓練にまわされるか分かりませんが、何人かが自分の意見を言うようになってきました。そのうちの一人が、退所間もないころ、職能通所に移行させたい旨を生活指導員から言われました。それに対して「自分は袋づめ作業で生きていくつもりはない。1か月6000円程度の賃金で、どうやって暮らせというんだ。どうしてそんなことしなくていけないのか」といって、職能通所の意志のないことを表明したら、生活指導員から、「あなたのおかげで1ケース送りそこなったじゃないか」と怒られたと言っていました(「福祉」関係では、対象者を「ケース」といいます)。 こんなことを指導員は日常的に、何の疑問や葛藤もなく「指導」と称して、仕事にしているのです。結局、評価・判定の材料としてしか「障害者」をみていないのです。真剣に「自分が障害者だったら」と考えていたならば、職員と「障害者」との「共に生きる」観点が出てくるだろうと思うのです。 ときには上司や行政の理解のなさを障害者にこぼす職員もいます。しかし、それを聞いても、障害者たちはシラーッとしています。「ささやかな抵抗」なのです。 リハビリテーション計画書 集中リハを開始してから、しばらくすると、「リハビリテーション計画書」が提示されました。それを見て、まずびっくりしたのは、リハビリ終了までのカリキュラムが、すべて評価・判定だったのです。そして、リハビリの目標が「職場復帰」ではなく、「障害の受容」となっているのでした。また「社会生活技術訓練」は、目標も訓練も「確認」だけでした。その中に「排便・排尿・入浴動作の確認」のカリキュラムがありましたので、他の障害者に相談したところ、「これはやりすぎだ」という声がたくさん出ました。その中に、すでにこの審査を受けた人がいました。その人は「パンツ1枚までなったが、それ以上はかんべんしてくれ、と泣きついた」といい、「入浴動作」は「前もって家族に、水を張っておいてもらった」。水を張って置けば、水の中に入れとはいわないだろう、と考えて家族に頼んでおいたというのです。 私は、洋式トイレがあれば、何も困ったことはなかったので、「このカリキュラムは私にとっては必要のないものだから、けずってほしい」という申し入れをしました。3週間それをめぐってのやりとりがありました。その中で、福祉事務所のケースワーカーが呼ばれて説得してきたり、指導員は「本人がやれてるといっても、やれてるかやれてないかは、見てみなければ分からないじゃないか」と言い、それで、私は「やれてるかやれてないか、私が分かります。今までの評価・判定の結果だって、本人に何も知らせてくれないじゃないですか。いろんなこと調べられて、それが私の生活上に役に立つことかどうか、私には分からない。少なくとも調べられたことは教えてほしい」と申しました。 「こんなに評価・判定ばかりで、そのうえ、トイレやお風呂の評価をするとは……。指導するなら、お手本を見せてほしい。私の障害を想定して、やってみせてください」と生活指導員に言いました。このやりとりが記載されているはずの生活指導員の文章が、真っ白に消されています(甲第16号証2/平成3年2月5日の欄)。 これが医者に伝わって、「何のデータが一番気になって、知りたいのか」という医者の質問に、「心理テストの結果がどうだったか知りたい」と答えてしまいました。「それは詳しく言えない」ということで、知能テストの指数だけ教えてくれました。そして、なぐさめてくれるのです。「正常値だからだいじょうぶだよ」って。「あなたがどれだけ正常に近いか」などを知りたくて訓練に通っているのではありません。 4.リハビリ中の転倒事故とその後の対応 (1) 事故直後 こうしてカリキュラムをめぐって、3週間やりあっている最中に、PT(理学療法)訓練中に、訓練用の道具が転がり落ちてきて、私にあたって、転倒してしまいました。背中を強く打って起きることができませんでした。宮崎PTが来るまで、私の感じでは相当長い時間のように思われました。倒れている間じゅう、伊藤医師がベラベラと大きな声で誰かとしゃべっていました。その声がしなくなってから、宮崎PTがやってきて、長下肢装具のロックもロフストランド杖もはめたまま背中を起こそうとするので、背中は痛いし、苦しいしで……。そんな状態で起きられるわけはありません。あれほど転倒したり、首を回したりする運動も注意しながら、とにかくこれ以上頚にダメージを与えてはいけないと思っていた私の状態、つまり頚の脊髄のことを、PTも医者も、何も分かっていないと思いました。 (リハセンターは「本人の希望を尊重し、南共済H.P.の大成Dr.の受診とした(甲第16号証/91年4月4日の欄)」などと書いていますが、なぜ私が、苦しい思いをして、人を頼んで、わざわざ遠くの南共済病院まで通院したのかを、まったく分かろうともしていません。) 背中や腕の中の痛みと、立っていられない状態が、その時点から出てきたのです。痛みと激しい疲労感で、歩けなくて、車イスを持ってきてもらいました。そして、車イスでエッチラオッチラ移動しながら、OTをやろうとしましたが、途中でできなくなりました。このOTの時間に、実習生に「なんでロールを止めてくれなかったの」と言いました(このときのOTのカルテが、なぜか提出されていません)。 お昼の時間になっても、手や腕は痛みでブルブルふるえて、箸が持てないので、「スプーンを貸してください」と言ったら、「なぜですか」と聞かれ、下の事務所まで説明に行かされました。また、食後、休憩室で横になっていたら、先に許可を取るようにと注意され、昼からはほとんどロビーで横になっていました。 入所者たちが心配してかけつけてくれましたが、きちんと返事もできません。視覚障害者の女性は、私の声の様子や周囲の気配を察して、「徳見さん、どうしたのよ」と何度も声をかけてくれましたが、それに応える元気もありませんでした。 午後の移動訓練は、普段杖で歩いているところを車イスでおこないましたが、体調が悪くて、途中で生活指導員が車椅子を押してくれたのですが、それでも1時間の予定が20分で切り上げざるをえなかったのです。 手術した頚の脊髄が心配でしたが、これまで経緯から、自分の判断でリハセンターの「指導」を変更したり、途中でやめるということができないと思っていました。指導員が私の体調の悪いのを知りながらも、訓練の中止の指示をしないかぎり、私はがんばるしかありませんでした。 こうして、結局リハセンターからは、全く何の対応もなく、一人で帰るしかありません。やっと玄関にたどりついたとき、生活訓練係の係長が「さようなら、お先に」と声をかけて出ていきましたので、5時ごろだったのでしょうか。3階から玄関まで1時間ぐらいかかったことになります。必死の思いで家に帰ったら、もう真っ暗でした。 次の日から吐き気が出てきました。起きてもいられません。その次の日も起きていられません。たずねてきた友人に、「脊髄が心配だから、大成先生のところへ連れて行ってほしい」と頼んで、南共済病院へ行きました。 1回目の診察は転倒して2日後でした。今まで「絶対に転倒してはいけない」と、大成医師に言われていました(脊髄の悪い障害者はみんな「転倒しないように」と言われます)。「転倒したくなかったけれど、転倒しちゃって、こういう状態です」と言ったら、1回目のときは、きちんと治療してくれました。「とにかく起きていてはだめだ。首を横にして、トイレと食べるとき以外は、寝てなければいけない。1週間それをやり続けなさい」という指示があって(ムチ打ちの処置ですが、私も当初はムチ打ちだと思っていました)、1週間後に再び行きました。 行くと、医者の対応ががらっと変わっていて、リハセンターからの速達を見せながら(中身は見ませんでした)「リハセンターから心配して手紙が来ている。もうリハビリに行きなさい。これ以上やりようがないから」と言います。 3回目、4回目、行くたびに、医者の対応が変わっていきました(その間、私の知人の医師が、伊藤医師に「徳見が青い芝と手を切るように説得をしろ」と言われたり、南共済病院では、入院中の「青い芝の会」の患者さんに対して、大成医師から「徳見に協力するなら、青い芝の人たちの頚の手術をやってあげないぞ」という形で、青い芝の方たちにおどしがありました。私は大成先生に、どんないろんな動きがあろうとも、患者と医師という関係で患者を診てほしい、治療してほしいということを申しました。また、外来でかかっていた青い芝の事務局長さんの話によると、「自分(大成)とリハセンターは上下関係があるから、(徳見と青い芝が関わることは)困るんだ」という意味のことを言ったそうです。 リハセンターには、「具合が悪くて自分では通えないし、医者がもうリハビリをやってもいいと言っているので、入院か入所に切り替えて、やってもらえないか」と頼んだら、「今まで通所していた人が入所した例はないから、できない」。福祉事務所、更生相談所、リハセンターの集中訓練部門のいずれでも「だめだ」ということでした。 (2) リハビリ再開拒否 私の再三の要求によって、事故から2か月後になって、やっとリハセンターからは高塚医師、大場生活指導員、福祉事務所の飯田ケースワーカーの3人が私の自宅にやってきました。 この訪問を受けて、リハセンターでは「今後の対応」を相談しています。そして、リハセンターでは、事故の責任を認めているのです(甲第16号証/91年4月4日)。 〈今後の対応について、センター内で打ちあわせ〉 ・高塚Dr.、伊藤Dr.、庄子総合相談部長、白野医療部長にて、今後の対応について打ちあわせる。 ・その結果、庄子総合相談部長、秋田PT、大場指導員で訪問し、事実に対し、遺憾の意を表明することとなる。また、以下の事項について、説明を加える。 @事故は確かにセンター内に於いてあり、機材の管理上の問題である。 A転倒時には、首に衝撃はなかった。 B本人の希望を尊重し、南共済H.P.の大成Dr.の受診とした。 C今後は治療に専念する時期のため、措置を一端打ち切り、いつでも通所ができるようになったら、センターでは受け入れる。 ・今後の対応は、総合相談部長に一任することとする。 こうして、「事故は確かにセンター内に於いて」おこったこと、また「器材の管理上の問題である」ことを認め、「……訪問し、事実に対し、遺憾の意を表明する」ことになったのですが、8日後に訪問してきたリハセンターの「責任者(庄子哲雄)」は、「事故ではなく事象である」として、ついに事故の責任を認めず、謝罪もしませんでした。 休職期限は1年ほどあとに迫っていました。それまでに体調を整え、リハビリを再開して、何としてでも職場復帰したいと、非常にあせりを感じていました。しかし、リハセンターは、その後の何度かの「交渉」に際しても、ノラリクラリと事故の責任逃れ・言い逃れに終始し、私のリハビリ再開要求には応じようとはしませんでした。このようなリハセンターの対応に対して、不信と怒りの念がますます強まるのでした。 伊藤医師は、転倒事故からおよそ3か月後のカルテで、次のように書いています(甲第16号証43、91年7月10日)。 生活訓練係へ通所することが適当だろうと判断し、判定を出したことは、結果的にはあまり有効ではなく、pat.(患者)のニーズには適していなかったのではないかと、現在私は思っている。 このように、私の求めていた職場復帰のためのリハビリをいっさいおこなわず、評価・判定・確認だけのリハビリを押し付けながら、何らそれに対しては問うこともせずに、「(リハセンターの方針は正しかったが)患者のニーズに適していなかった(だけである)」といって、「リハビリ再開拒否」を正当化しているのです。 転倒してからおよそ8か月後の92年3月、最終的にリハセンター(伊藤医師)は、「頚の脊髄の人は、責任を持って預かることはできない。よその総合病院へ行け」として、リハビリ再開を拒否しました。他の病院への依頼も紹介もありませんでした。 やむなく、外出介助を人に頼みながら、治療できるところ、リハビリできるところをさがしました。事故当時は「むち打ち」だと思っていましたが、むち打ちの不定愁訴がとれても、車の運転や、前のように装具と杖を使ってもできません。右足もしょっちゅうつってしまう状態は、とれませんでした。 それ以後通った汐田病院でのリハビリは、平行棒の中をPTが腰ひもを持ち上げながら2往復ないし3往復、平行棒をつかまって、立ったり座ったりが10回で、それ以上は筋肉を痛めると言われました。また、脊髄の検査入院をした九段坂病院では、汐田とほぼ同様ですが、それに加えてストレッチ、筋肉マッサージでした。訓練をずっと続けたら、そのうちロフストランド杖と長下肢装具を使って、日常的に歩けるようになるか、ときくと、PTは、「奇跡でもおきない限り、そうはならない」と言いました。リハセンターでやっていたPTは、片杖歩行ですから、転倒事故後に、身体の状態がずいぶん違ってしまいました。 5.解雇 リハセンターでの転倒事故は、休職期間が切れる1年ほど前のことですが、すでに述べたように、その1年間は、リハセンターに対して、リハビリ再開を要求しての「交渉」に費やされ、休職期間直前に、最終的に「リハビリ拒否」の通告となりました。 また、職場である横浜市学校保健会に対しては、私の身体の状態に合った職務内容の提供――具体的には「介助者つきの職場復帰」と「養護学校での歯科巡回指導」を、何度も要望してきました。そして、休職期間が切れる92年4月25日を目前にした4月10日には、次のような「願い」を文書で提出しました。 職場復帰願 横浜市学校保健会会長殿 私は、首の手術後、リハビリ訓練中の事故により予定より一年あまり休職を延長せざるをえない状態となりました。 今後も医療的治療等を引き続き必要としますが(障害がある限り)、休職期間が残り少ない現在、上記の条件を維持した上で、また別紙診断書の通り、単独では就労はもとより、生活全般においても介護人付きの生活が、私にとって不可欠の状態にあります。 つきましては、今までの業務と違った形で、私に合った仕事をつくってくださるよう、再三お願いしてきました。そのような形で職場に復帰できるよう、ご配慮・ご検討くださいますようにお願い申し上げます。 1992年4月10日 歯科衛生士 徳見康子 これに対して、保健会は、次のように、拒否の回答をしてきました。 平成4年4月18日 徳見康子様 横浜市学校保健会 会長 手束和之 要望書に対する回答について 先日、ご要望のありました職場復帰について、検討させていただきましたが、平成4年4月8日付けの杉井吉彦医師の診断書から判断して、養護学校の歯科巡回指導を含め、あなたの職場復帰は困難です。 また、介護者つきの身体障害者を雇用することは、横浜市でも行っておらず、学校保健会といたしましても同様でございます。 ご要望について、上記のとおり回答いたします。 この回答を受けて、私は保健会に「交渉」を申し入れ、「なぜ職場復帰を認めないのか」という理由を追及しました。学校保健課長は、「自力で通勤し、自力で勤務できることが、職場復帰のための条件である」として、次のような理由を述べました。 @検査をする場合、距離があるので、車椅子では難しい。 A子どもたちの机と机の間は、車椅子ではいれるほど広くないから、一人一人に指導ができない。 B子どもの口を開けるのに、両手を使うので、徳見には無理。 C学校では児童数が多いので、徳見が仕事をすること自体、無理。 D飛んだり跳ねたりする子どもが大勢いる中で、リハセンターで起こったような転倒事故が、また起こる心配があるので、現場の教師は責任が持てない。 E徳見は、今のように身体が悪くなる前から、休み休み検査していたのだから、今の状態では、とても検査は無理。 私は、「いろんな工夫、条件を整えたり、整備すればできないことはない」と、具体的に説明し、いくらでも工夫し、条件を整備することで、できるはずだ、と主張しましたが、当局は、「ダメだからダメ」「もう決めたこと」というだけでした。 そして、休職期間が切れてからは、「欠勤扱い」として仕事の提供をせず、また、何度かの「交渉」に際しても、職場復帰を認めない具体的な理由を説明することなく、「自力通勤・自力勤務ができないからダメ」と述べるにとどまってきました。 「職場復帰を認めよ」という署名活動もおこないました。多くの人に署名をもらって提出しても、保健会の態度は変わりません。「徳見は働けない」として「欠勤」を強制することに対して、「車いすで仕事ができる」ことを示すために、93年1月4日から横浜市教育委員会学校保健課へ「自主出勤」をしました。 脊髄の検査入院のため、半年あまりで中断しましたが、その間、保健会は、私が一貫して「職場復帰に向けての検討をしてほしい」と要望し、「介助者や道具などがあれば、職務の遂行は可能である」と主張し、「不可能というのならば、実際にやらせてみてほしい」と、何度も申し入れたにもかかわらず、まったくそれをやらせようともせず、「立ったり座ったりできないから、仕事ができない」「すでに結論は出ている」というだけでした。 そして94年12月、解雇の予告、そして翌95年1月、解雇(分限免職)の通告をおこなってきました。「免職の辞令」には、「横浜市学校保健会職員の任免・給与・勤務時間・その他の勤務条件に関する規程第3条第3項の規程により免職する」とあり、その規程とは「心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合」は免職することができるというものです。しかし、解雇を認めることができないので、退職金の受け取りを拒否したため、学校保健会は供託しています。 解雇当日の夜、私の解雇を不当とする人たちで、「抗議集会」が開かれました。そして、この夜から、私はハンストにはいりました。23日間、ミネラルウォーターだけを飲んで、職場に自主出勤しました。「無謀だ」「一人よがりだ」という批判の声もありましたが、私としては、それまで28年間培ってきた学校保健会の歯科衛生士としての仕事を、「立ったり座ったりできない」というだけの理由で奪い去ることへの憤りと同時に、「障害者になったこと」をもって(すなわち、障害者を、その障害を理由に)社会から排除することが許せなかったのであり、その意志を表すには、このような方法しか考えられなかったのでした。 6.終わりに 休職期間が切れてからすでに7年、解雇から4年半経ちました。支援者の方たちの協力も得て、当局と交渉をおこなってきましたが、「交渉」による解雇撤回の実現の見通しは立っておりません。 中途で障害をもった者が原職復帰するのは、たやすいことではありません。それでも、休職期間中に、体調や仕事のやり方など、職場復帰の準備が整えられていたならば、当局との交渉もまたおのずと異なっていたでしょう。 休職期間の始めの1年半は、80パーセントの給与が支払われ、その後は健康保険組合から傷病手当金として給与の60パーセントが支払われていました。しかし、休職期間が満了になると同時に、それも打ち切られて、解雇に至るまでの3年近くは、「欠勤扱い」として、「身分はあるが、給与はもらえない」という状態におかれ、文字通り無収入となってしまいました。その後、94年5月から、やむなく生活保護を受給しております。 収入もさることながら、リハセンターでの事故によって休職期間満了前に職場復帰できず、「車椅子では仕事ができない」として「欠勤」を強制して仕事を与えず、一方的に解雇したことに対する怒りが大きいのです。 したがって、事故による障害の状態変化に怒っているのではありません。あたりまえに障害者を一人の人間として見ていただきたいのです。障害者差別や不利益すぎる今の社会を変えていく作業そのものが、リハビリではないでしょうか。ましてや、精神障害者への偏見や差別意識を利用して人をおとしめたり、「(ロールを落とした)加害者は、(通所していた)障害者だ」というようなウソをついて、責任逃れをし、障害者をおとしめようとするのは、障害者差別でしかありません。 もし、本当にリハセンターが「障害者のための」ものなら、リハビリを再開し、私の希望する「職場復帰のためのリハビリ」をきちんとやるべきではないでしょうか。そして、このような市・学校保健会の「障害を理由にした解雇」に対して異議を申し立て、職場復帰のために努力してください。社会や市の制度が障害者を受け入れないのなら、障害者と共にそれを変えていくべきだと思うのです。 それこそが「障害者のための」リハセンターの役目なのではないでしょうか。 (以上) |