98.8.27
Q(原告代理人・森田).(第28回口頭弁論、証人・石川憲彦の速記録を示す)10ページの一番最後の行から11ページにかけての部分ですけれども、ここの中で、質問として、「受容」ということが「個々人の心構え的なものなのか、チームとしてのリハビリをやる場合の原則であるのか」という質問に対して、どちらにとっても不可欠の条件であるというお答えをいただいていますね。 A.(うなづく) Q.ここで言う「個々人」というのは、質問した私の趣旨としては、「チームの中の個々人」ということであって、リハビリを受ける側のことではないという前提の質問なんですが、先生のご理解も、そういうことと理解してよろしいんでしょうか。 A.はい、けっこうです。 Q.同じ調書の22ページの11行目、うしろから3行目ですが、「ここから暗示されよう」という表現になっているんですが、これは意味としては「暗示させよう」という趣旨でよろしいんでしょうか。 A.はい。たぶんその3行前に「ある意味では暗示させる」という、そこまでが、たぶん私が、引用をカルテからさせていただいた言葉だと思うので、この「されよう」というのは、伊藤先生がされようという意味の、やや敬語的に用いたんですが、内容としては前文の「させる」と同じで、「させよう」ということですので、「させよう」と変えていただいたほうが分かりやすいかもしれません。 Q.それと、そのページの最後のところに、今の点についてですね、「非常に重要な点だろうと思います」と言っておられるんですが、これはどういう意味で重要だとお考えになるのか、ご説明いただけますか。 A.前回の最終部分付近で、私が申し上げたことと関係すると思うんですけれども、暗示、つまり患者さんの側が希望をしている事柄と、医師側が患者さんに分かってもらいたいと思うことがずれているときに、その内容の差を医者が暗示させるということが、ここで浮かび上がってきている。そうしますと、そのような最初からあったずれを、どのように調節するかということが、非常に重要なポイントになる。とりわけ、これは転換ヒステリーであると仮定した場合と、仮定しない場合という二つの言い方で、私は前回お話したと思うんですけれども、仮定した場合ですと、これはもはや治療の決定的なポイントが、この「暗示」というところにかかってくると思われる点が、非常に大事だと思います。つまり、治療要件として、暗示ということは、すべてを決定するような条件になりうるという意味で、転換ヒステリーであると仮定した場合には、治療上最も大事な点になり、それから、もし転換ヒステリーでなかったとしますと、これは前回申し上げたように、インフォームド・コンセント、つまり医師側と患者側の同意という点で、決定的な落ち度ということになるかというふうに思われることがありますので、この「暗示」というのが、非常に大事だと申し上げたんです。 Q.同じ調書の46ページを示します。ここは簡単に意味だけお答えいただきたいんですが、10行目に「ここにかかわっている間」という表現があるんですが、これは具体的にはどの期間を指しているんでしょうか。 A.これは、「この間ここにかかわっている間」ということで、リハセンターにかかわっている間、その前後ということも含めていただいて、かかわる前から後まで、直後までと、そのような期間……。 Q.同じ調書の53ページ、ここはちょっと文章の区切りが悪いので、確認をしたいんですが、後段のほうで、「責任をもって推薦するか」云々とあって、「通常おこなうべきではないであろう」というふうに続くんですが、ちょっとここを分かりやすく表現していただけますか。 A.うしろから5行目ぐらいから、こういうふうな意味だというふうに読んでよろしいですか。 Q.はい。 A.「他の診療場所がよいと思われたら、責任をもって推薦することが必要であったろうし、さもなくば自らのところへ再度治療を求められた人を拒否するということは、通常おこなうべきではないであろう」というふうにしていただければ分かりやすいかと思います。 Q.同じく55ページの最後のところなんですが、調書の中で、「その吸収度合いがどれぐらいであったかということをぬきに、頭の傷を、それがまったく無害なものから」というところなんですが、ちょっと文章が切れずに続いてるようですが、この点もどういう趣旨かご説明いただけますか。 A.つまり、クッションを吸収する度合いの程度を考えることで、初めて傷があるとかないとか、てきるとかできないということを考えることができる。したがって、吸収度合いを考えませんと、このようなことはいえないということで、つまりそのクッションの吸収度合いによって様々な状態が考えうるので、それを一言のもとに断定することは難しいという意味です。 Q(被告代理人・栗田).証人は前回、児童青年期精神医学会のリハビリテーション委員会というところに属しておられるということですが、この委員会はどういうような組織になるんでしょうか。 A.いわゆる学会の中で、理事会によって任命された委員会ということです。 Q.ちょっとうかがい方を変えますけれども、じゃあ、この児童青年期精神医学会リハビリテーション委員会は、どのような人を対象とする、まあ、リハビリですか、それを検討されているんですか。 A.現在WHOで障害者全般に関する定義そのほか、全面的見直しがおこなわれております。とくに国際障害者年後の推移を踏まえた全般的なリハビリテーションの変更にあたって、この委員会は、主としてその中の児童青年期における精神医学的な問題を、リハビリテーション分野の中でどのような形で再構築していくかという、一つはその点と、二番目には、それが総合政策としてリハビリテーションの中でどのように反映されていくのがいいかというようなことを検討しています。 Q.そうすると、先ほどの話では、リハビリテーションの内容としては、精神医学的な面からの検討をされているということですか。 A.はい。従来の枠組みや分類でいいますと、そういう形になるかと思います。 Q.ちょっと専門的にはよく分からないんですが、「障害者」と先ほどおっしゃいましたけれども、その「障害者」というのは、どのような方を指されるわけですか。 A.ですから、じつは「従来の」と申し上げたのが、今WHO自体が、障害というものを過去の「医学的分類」から考えるのではなくて、「生活の状態」から考えるという方向へ、この十数年、転換してきております。したがって、これまでは医学の中から、リハビリテーションが生まれたために、医学の古い分類によって、リハビリテーションを区切ってきたのですけれども、なるべくそのような壁をなくして、むしろ障害者の生活や生きている場での問題から障害を再構築しようというふうに、WHOが動いてきて、世界へ提言している、その流れにありますので、つまり古い従来の枠にとらわれて語ることが、逆に難しいですね。 Q.というと、私のお聞きしたかったのは、障害者の範囲というのはどのような……。 A.それもすべて、今、障害者というのは、「生活において障害を感じる」「何らかの不利益を感じる」――それが精神的・身体的、いかなる理由であれ、それを感じると認定された事柄自体を、まず生活上の障害ととらえて、それに対して、他のあらゆる分野はどのような取り組みをできるかというふうに変わってきておりますので。過去の障害観といいますのは、何らかの病気があったと、病気の後、後遺症が残ったと、その後遺症を障害という、というのが、だいたい40年ぐらい前から20年ぐらい前の定義なんですけれども、それが20年ぐらい前から大幅に変わって、この20年の間に、今言ったような方向で、ほぼ落ち着きつつあるというのが、WHOの動向かと思います。 Q.そうすると、何か新しい障害者概念というか、そういうふうな動きをされていると、そういうことですか。 A.と言いますより、新しい障害者概念がWHOから各学会、あるいはこれは各国政府にも下りてきておりますので、それに向けて様々な形で、有機的に、各学会・各分野で討論が起こり、研究が始まっていると考えていただければいいと思います。 Q.この児童青年期精神医学会リハビリテーション委員会ですか、これは創設されたのはいつごろなんですか。 A.創設時期は私がマルタにいた期間ですので、明確に何年というふうに覚えておりませんけれども、概略でよろしければ、3年前というふうにお考えいただければよろしいと思います。 Q.会員数というのは、どれぐらいいらっしゃるんですか。 A.学会のですか。 Q.はい。 A.多分、2000から4000ぐらいの間では……。私もいくつかの学会にはいっているので、ちょっとあれなんですが、おおよそ二、三千人の規模の、ちょっと多いかもしれません、学会ということです。 Q.この児童青年期精神医学会ですか、これは日本医師会に属されている団体ですか。 A.はい、そうです。 Q.どのような部会に属されているんですか。 A.大きな体系でいいますと、精神科分野と、それから小児科分野の流れというふうに考えて……。ただし、母体は精神科部会。 Q.証人は昭和62年までですか、この前拝見した経歴書によると、ご専門は小児科医だったということですか。 A.そうですね。 Q.昭和62年の2月から、精神科のほうに勤務されていると……。 A.はい。 Q.そうすると、精神科医として実際に診療等にあたられてきたのは、その昭和62年の2月ぐらいからだとおうかがいしてよろしいですか。 A.はい、そうです。 Q.小児科のほうから精神科のほうに変わられたのは、どのような理由からですか。 A.もともと私は、小児科の中では小児の神経学、およびそれから小児の心理というふうなことを専門的分野としておこなっていたわけですが、子どもたちもつきあってますと、十数年たちますと、みんな成人になってくる。その人たちを小児科分野が終わった後も、小児科で診続けるということには限界がありますので、その人たちがほぼ成人に達してくる年齢を含めて、精神科分野へ移動したということです。 Q.前回のご証言で、転換ヒステリーについて、木下論文、先生もお読みいただいたということでしたけれども……。 A.はい。 Q.一般的には正しいというふうにおっしゃってるんですけれども、これは、例えば内科医なら内科医で、どの内科医においても、例えば糖尿病や高血圧症の患者さんを診ているという、そういうふうな感じで、それと同じような意味で、精神科医においても、よく経験される疾患ということでしょうか。 A.はい。 Q.証人は前回、転換ヒステリーと詐病が同時に存在する、あるいは移行するということは原則としてはないとおっしゃっているんですけれども、実際の診察において、転換ヒステリーと詐病というものは、明確に区別がつくものでしょうか。 A.同じ時期に、ということでしょうか、それとも全く違う時期に、ということでしょうか。 Q.時期というよりは、私どもとすれば、転換ヒステリーと詐病とは明確に診断上区別できるか、ということなんですが。 A.原則として、しなければ逆に治療も成立しないだろうと思います。 Q.というと、区別がつくということでしょうか。 A.はい。 Q.証人は、いわゆる成人の転換ヒステリー、これについて現在まで何件ぐらい、その治療にあたられたことがございますか。 A.じつは転換ヒステリーという考え方自体が、現在は変化しつつあります、ということは前回申し上げたと思うんですね。ですから、どのレベルのどういうものをもって転換ヒステリーとよぶかによって、これはかなり、もうすでに転換ヒステリーという枠組みで名前をつけること自体がなくなってきておりますので、そこで人数を確定することは難しいんですけれども、非常にアバウトな概念で、いちおう転換ヒステリーとよばれている、あるいはそれに類縁するもの、とりわけ木下論文がいうような形で、というふうに限定してお答えしてよろしいですか。 Q.ええ、それはけっこうです。 A.桁としては多分100人内外です。ただし、「治療に」という場合。今言いましたのは、私がほぼ主治医的立場にあって、というふうに限定させていただいて。つまり、病棟には、いろんな方が入院なさいますし、その指導医として、若いドクターの指導に携わるような形で関わるレベルから、横でアドバイスするレベル、それからカンファレンスに出るレベルというふうなことがございますので、非常に大まかに言いますと、私自身が責任ある主治医として、というのは、多分そのオーダーだと思います。 Q.証人は、その木下論文の概念で結構なんですけれども、詐病と診断されたようなケースも何件かございますか。 A.転換ヒステリーというふうに私が木下論文の範疇で考えている人で、なおかつ詐病と診断したということですか。 Q.じゃなくて、転換ヒステリーと診断されたわけですから、それは詐病でないという先生のお考えだと思いますので。 A.はい。 Q.そうではなくて、先生のほうで、「いや、これは詐病である」というふうに診断された方は、どのくらいいらっしゃいますか。 A.詐病というのは、いちおうこの間申し上げた形の詐病ということでよろしいですか。 Q.ええ、木下論文の概念でけっこうなんですけれども。 A.それですと、多分、じつはこれは非常に難しい問題になってきまして、先ほど言いましたように、詐病自体を主たる治療対象として治療する形では、たぶん10人あるかないかだと思います。と申しますのは、詐病という状態は、関わっている様々な、例えば身体的・精神的な状態にある患者さんが、ある状態においていう詐病状態ということでしたら、これは時々あるわけですね。つまり、ある状態をみて、「これは、今の状態で詐病的に何かをしている」というふうに申し上げるような状態というのは、これはありますので、それを入れると、ちょっともう、桁が分からない。ただし、詐病であるということを主な理由として受診なさる方というのは、大学病院におりましたので、ほとんどないという意味で、たぶん10人ぐらい……。ただし、「詐病的状態」という状態に限っていえば、それはもう、それこそ数百ないしもっとの桁になるだろうと思います。 Q.べつな言い方をすると、証人の見方からすると、転換ヒステリーと詐病というのは、積極的に区別して診断するようなものではなくて、結局、ある心理状態を指して言っていると、そういうふうにお聞きしてよろしいですか。 A.どちらの状態ですか。 Q.転換ヒステリーと詐病です。 A.詐病の場合には、ある心理状態を指しているというふうに申し上げていいと思います。ただ、これは限定つきの詐病でございまして、つまり虚偽性障害と言われるような、つまり虚偽をむしろ中心として行動するような場合には、これは私は詐病とは考えておりませんので、全く別の概念ですので、詐病という形で表現される、病気的な形で表現されるものは、心理的状態であると申せると思います。ただ、転換ヒステリーは、私は単なる心理的状態ということではなくて、無意識における心理的状態が、さらに身体的症状をとるに現れた、やはり病的状態と考えております。 Q.それを今、転換ヒステリーということですね。 A.はい。 Q.そうすると、詐病との一番の違いというのは、どこになるんでしょうか。 A.ですから、今申し上げたような反応性、あるいは、ある意図性における、意図をもった疾患的状態というふうに申し上げております。それと、無意図性、つまり無意識の中から起こってくる状態ということの差ということになると思います。 Q.そうすると、意図というのは、もともと主観的なもののように思われるんですけれども、どのようにして、その意図的か意図的でないかを区別されるんですか。 A.基本的には、意図的というのは、意図が当人のほぼ意識において意識化されているのか、当人自体はまったく自らのある意図性・方向性を意識していないか、というふうに、いちおう分けて考えればよいかと思います。 Q.ちょっと分かりづらいんですけども、具体的にはどのような客観的事実をもって、区別されるんですか。 A.ですから、私のほうでは、それはある単純な事実ではないわけですね。いくつものつながる、生活の中に起こってくる様々な行動や様々な状態を総合的に判断しますので、例えば、私も、前回も言うときに、ある一つの言動からある事柄を判断するのではなくて、言動の連続性の中から、ある、そこに認められる意図性というものを明らかにしようとしたと思うんです。つまり、何かあることがあるからどっち、というふうに分けるのではなくて、起こってくる事態を全体としてとらえますし、それから当人に起こっている背景事情ですね、それを構造的に考えた上で、意図的であるかどうかと決めますので、それほど主観的に簡単に決まる――あることを見て、これは意図的である、意図的でない、というふうに――決めるものではありません。 Q.証人は、この甲号証等ごらんになったと思うんですけれども、徳見さんについてはどうなんでしょうか。転換ヒステリーとか詐病とかですね、そういうふうなもの、先生、見た中でですね、ご意見はおもちですか。 A.このあいだも申し上げましたように、私はそれを判断できるに値する精神医学的な最低限の記載を見つけることができないので、判断ができないというふうに申し上げたいと思います。 Q.証人は、前回、感情失禁という状態を、「感情をうまくコントロールできない状態というふうに解釈してよい」と述べておられるんですけれども、これは、病的に感情をコントロールできない状態、あるいは症状、そういうものをいうんでしょうか。 A.私、そこにお断りしましたように、私自身は感情失禁という用語は用いたことがございませんので、それはいわゆる辞書などから、あるいは辞書や文献にあるものから調べたものでして、少なくとも多くの精神医学的な辞書は、感情失禁という言葉を採用しておりませんで、2、3の辞書に見受けられる言語なんですね。したかって、「誰がどこで述べた感情失禁という言語であるか」という定義性をぬきに、今の問いにお答えすることはできませんので、そこを限定していただいたほうがいいかと思いますが。 Q.先生は、「文献からの知識になりますが、基本的には体から出ていくものをコントロールできないという状態で、感情失禁というのも、感情をうまくコントロールできない状態というふうに解釈していいかと思います」と述べられているんですけれども、この表現からしますと、いわゆる何か病的なとか、そういう症状的なものを指しているように聞こえるんですけれども、そういう意味ではないんですか。 A.ですから、どちらともいえないと申しましたのは、例えば尿失禁という言葉がありますが、これは「尿が自らの意図を禁じ得ずに出る」ということですね。これも、例えばその状態や状況においては、まったく病的とは考えられませんし、しかし、状態や状況によっては病的と考えられる事態もございますので、今申し上げたように、精神医学というのは、ある出来事があったら、すぐ病気、病気でないと判断するのではなく、全体的な構造や状態を総合的に判断して判断いたしますので、どちらともいえないというふうにお答えしたわけです。ですから、病気的な場合もございますれば、そうでない場合もあるとしか、言語的定義できかれますと、そうとしかお答えしようがありません。 Q.そうすると、例えば、まあ、感情失禁の問題でもいいんですけれども、例えば脳等の器質的傷害よって、そのような感情失禁的なものが起こるということはありうるわけですね。 A.そのような場合はもちろん、当然存在すると思います。 Q.反対に、心理的な意味でも、例えば器質的な障害がないような場合ですね、こういう場合でも、感情失禁というのは起こりうることもあると。 A.十分にあります。 Q.そうすると、そのような感情失禁を起こす中に、先ほどの無意識下の転換ヒステリーですね、そういうようなものも、原因の一つと考えられるということはないんでしょうか。 A.先ほど申し上げたように、じつはそこが転換ヒステリーというものが、すでに精神医学が逆にそれを使用しなくなっている一つの原因であるかと思うんですね。過去は、むしろヒステリーの人というのは、感情的にそういうものを出しやすいというふうに書かれているものも少なくなかったと思うんですけれども、むしろ、そのような解釈自体への疑問がかなりふくらんできているということも、片一方でいえるわけですね。ですから、どの人のヒステリー論に立つかによって、先ほど言いましたように、含むものが違ってくるわけなんです。ですから、何を指してそう言われたか分かりませんが、一般的に現在の考え方でいえば、二つのものは原則として切り離すということだと思います。ただし、その二つが、じゃあまったく合併しないと言えるかといえば、それは言えないというような言い方しかできません。 Q.証人は、前回、転換ヒステリーの治療として、「言語化が大変重要だ」と述べられているんですけれども、言語化とはどのようなことをいうんですか。 A.先ほどの無意識的、つまり意識の中で自らの意図を了解しえていなかった、その了解しえていなかった無意識の意図を、自分の意識の言語として使うということです。 Q.いわゆる意識下の隠れた心理状態を、まあ自分は気づいていないわけですよね、それを言語化することによって、本人の意識にのせてくるということですか。 A.はい、いちおうそれでけっこうです。 Q.(甲第16号証の52を示す)最後のほうになりますけれども、1月16日の心理の所見が書いてあるところなんですけれども、ずっと所見が書いてありまして、その次のページ、最終的に方針のようなのが書いてあって、これは、プシ(Psy)ですね。 A.そうですね。 Q.心理ということですかね。 A.はい。 Q.「フォローへの反発強く、デメリット大きいため、プシの個別的対応はスタッフの要請に応じておこなう」と。 A.はい。 Q.プシ、フォローへの反発、デメリットが大きいというふうに、この心理のほうは考えているようなんですけれども、この時点で、原告は心理療法を求めていたと判断できるでしょうか。まあ、「デメリット大きい」と書いてありますけれども。 A.心理療法を求めていたかどうか、ということですか。 Q.ええ、原告自身が。 A.それは、たしか1月17日よりは以前の段階の記載ですね。 Q.はい、これは1月16日ですね。だから初期評価会議の前の……。 A.私は、その時点も、それからその後も、一貫して心理療法を求めていたという記載は、少なくともそのカルテ関係からは発見できなかったように記憶しております。ですから、その時点でも求めていなかったのではないかと思います。 Q.「反発強く」というのは、どちらかというと拒否といった拒絶的な対応のように思えるんですけれども、このように患者が心理療法を求めるのを拒否、または姿勢がはっきりしない場合に、一方的に心理の側から治療的介入を深めるということは、何か危険はないんでしょうか。 A.それは仮定としまして、私、前回、状態によってずいぶん違うだろう、それがカルテに記載されているというか、疑われているように、転換ヒステリーであった場合と、そうでなかった場合というふうに分けてお話したと思います。ですから、いずれにしても、まず相手側の拒否があるときに、拒否というか、したくないという意図に反発して介入する、かかわるということは、原則として、それはよくない行為だと思います。 Q.どういう危険があるんでしょうか。 A.危険というより、原則としてよくないと申し上げているわけで、危険があるという前に、了解をとるということが、心理療法――私は精神療法と心理療法は分けて考えなければならないと考えておりますが、心理療法というのは、当人が自らの心理的なケアを求めて、その心理的ケアを受ける側と共通に解決していくということであろうと思いますし、そういう理解を当然共通してもつぺき、つまり最初の段階で、お互いが共通の土台に立たないでスタートできないことだろうと思うので、危険かどうかというより、共通了解をとることが、まず最低限の治療者の第1歩のステップというふうに考えます。 Q.先ほどお見せした甲第16号証52のところの、「スタッフからの要請があれば、要請に応じておこなう」とありますが、スタッフの要請があればおこなうというのは、スタッフの一員として門戸を開いていると、そういうふうにいえませんでしょうか。 A.「スタッフからの要請」というときに、自らもスタッフの一員と感じられておられれば、スタッフとして議論しあうということになりますね。スタッフからの要請というときには、どちからというと、ややスタッフから距離を置いたときに使う用語のように思います。そこはどういう構造になってるか、私、分かりません。 Q.じゃあ、ちょっとべつな聞き方しますけれども、そうすると、証人は、当身体障害者更生施設リハビリテーションセンターにおいて、生活指導員とかが、どのような地位を有して、役割を果たしているかというのは、ご存じですか。 A.そこに記載されている範囲の中での了解しか、私の中ではございません。生活指導にあたっておられる方の記載文書は拝見させていただきましたので、この方のケースにおいてどのようなであったかというのは、そこに記載されている範囲ではだいたいつかんでおるつもりでおります。 Q.つかんでおられる内容とおっしゃいますと……。 A.生活指導の方が、少なくとも全体の治療方針の中で、キーパーソン的役割を期待されておられたということが、まず医療サイドからの要請としてあると思いますね。それから、二番目は、しかし、記載されている事柄の中では、生活指導にあたっておられる方のとられた言動の中に、私たち精神医学的な観点から見て、治療的であったり、治療サイドが期待されるキーパーソンの役割をとったと思われる記載はなく、むしろ生活状況の中で、どちらかというと半ばソーシャルワーカー的、半ば生活等でのルール係的な役割をとっておられるというふうに拝見しております。 Q.(第28回口頭弁論、証人・石川憲彦の速記録を示す)前回の調書の25ページ、最後から3行目くらいなんですけど、「療法士」というのは理学療法士のことだと思うんですが、「療法士のほうは、生活訓練係にというふうに、医者のほうのかけている重みとは違う人に期待を置こうとしている」と。で、これが、そもそも結論からいくと、26ページの後ろから7行目以降、「チーム内において、同一の方向、同一のコンセンサスがもてていたかどうか、あるいは訓練を開始する時点で、すでに疑問が呈されているという点が、いささか気になります」と、こういうふうにも述べられているものですから、これは、私のほうとすれば、生活指導員をキーパーソンとして、医師と生活指導員が中心になって、そのプログラムを決めているので、結局ばらばらではなくて、それに即応しているというふうに考えているんですけれども、そういう意味では、リハビリテーションセンターにおけるリハの内容がどのように決定されているかご存じか、というのをおうかがいしたかったわけなんですが。 A.分かりました。それ自体は、もし生活指導員と医師とが決定していることがあって、ということであるとしますと、そうしますと、医師側が生活指導員に心理的な面のキーパーソンとなることを期待したということと、生活指導員がその役割を十分に了解し得ていたというようなストーリーの側面が見えないということが、そこで申しました、一番最初から、もし、それ、仮定して話しますのは、この患者さんが転換ヒステリーであるとした場合には、転換ヒステリーであるといいながら、そのことに対する最も基本的な治療を、そうすると誰も担ってなかったということになるわけですね。 Q.いや、そうではなくて、先生のほうは、一等最初から、初期評価会議の段階から、理学療法士は生活指導員に責任を押しつけて、また心理のほうも、最初から、もう継続は困難だというふうな評価をして、みんなばらばらの方向で動いているというふうにおっしゃっていますので。 A.いえ、そこは、例えば私が申し上げた「ばらばら」というのは、受容ということを前提にするということが話し合われてますね。その受容ということは、ある、目の前にいる患者さんに対して、「そのことが治療の基本だと考えた」ということですから、その治療の基本をどなたが決定なさろうと、守られている形で進行していない。それは心理の方も、理学療法士の方も同じだろうと思うんですが。ただ、心理の方の場合は、例えば受容することが「自らが関わらないことだ」と判断されれば、それはそれでいいんですが、そうであるとしたら、では「どなたが、どういう形で役割を担うか」ということが、次に話されなければいけないわけですね。私が「仮定して」と言いますのは、転換ヒステリーであると仮定すれば、当然そのことを含み込んだ治療が立てられなければならない。そして、転換ヒステリーに対する治療という見方からいうと、最も原則的なことの「受容」ということをめぐっては、悪い言い方をしますと、決定されたことと、おこなわれていることとの間に、あまり流れがないという点で、ばらばらだというふうに申し上げているわけで、最初からやはりばらばらだったように思われます。 Q.証人は、前回、理学療法士の「大げさ」とか「すごく大変そう」とか「ふるまい動作が演技的である」という記載をとらえて、「主観的評価」とおっしゃってるんですけれども、これは観察者(ここでは理学療法士になろうかと思いますけれども)観察者の見方がゆがんでいると、そういう意味合いを込められているんでしょうか。 A.少なくとも、主観的であるというのは、私、一つのことでなく、流れの中で理学療法士が自分の役割であると思っていることと、それから、その流れの中の違いといいますか、理学療法士の人が一連の流れの中で、今申されたような主観的な対応をとっていらっしゃるんですが、その主観的対応が――そこの話も転換ヒステリーであると仮定してお話したと思うんですが、そうであるならば、あるネガティブな、否定的な評価をなさるならば、受容という考え方からいえば、当然それに見合う肯定的な受容的評価は同時に存在しないと、つまり、「ある評価をしてはいけない」というのではなくて、ある評価がおこなわれたら、必ずそれと見合う、それを克服していくような方向の評価がなされなければ、治療的態度とはいえないだろう、その意味で、非常に一方的であると……。 Q.そうすると、観察者の見方がゆがんでいるということではない……。 A.ゆがんでいるというのは、今言ったまず仮定に立った場合には、両義的な評価が必要なうちの片一方しかとられていないというのは、治療者としては、すでに、つまり両義的でなければならないものが、片一方ということは、すでにゆがんでいるのではないでしょうか。 Q.そうすると主観的だから間違っているということですか。 A.主観的な判断ははいりますが、治療者として対しているのか、それともまったく個人的な形で存在しているかというのは、そこはまったく違うんではないでしょうか。私が申し上げているのは、あくまで「転換ヒステリーの治療という立場に立ったときの治療者としては」ということを申し上げているんです。 Q.先生の前回のご証言は、「転換ヒステリーの治療に」というふうな観点ではないような気がするんですけれども。前回の調書の15ページなんですが、「乙第6号証に戻りますが、12ページから14ページ、これはいわゆる入所措置によるリハビリが始まる前の段階なんですけれども、この記載を見ていただいて、とくに理学療法士と原告との関係について、何か問題となる点がございますでしょうか」ということで、この部分に先ほど述べたことが書いてあるんですけれども、このご証言自体は、必ずしも転換ヒステリーに関係しているというふうには読めないんですけれども。 A.私、ここだけを全部取り出したのではなくて、このあとも続けて、同じ一連の形としてお話ししていると思うんですけれども。そのあとのところにも、見方の一方向性ということは、お話していると思いますし、これは入所以前の段階の行動を取り上げて言ってますね。これは全体の流れの中の、全体を振り返ったときの、もう一度前へ戻ったときの時点ですからね。その方向が入所前と入所後で、どのように変わってきたか、あるいは変わらなかったか、そのあたりを含めてのことです。 Q.「主観的であるから間違いである」ということではないんですね。間違いなんですか。 A.意味がよく分からないんですが。つまり、その入所前と入所後と申し上げたのは、入所前は全体の方針としては、「患者さんのほうに障害を受容してもらう」というテーマになってますね。患者さんが自分の障害を障害として認めて、受容していけよ、というのが方針になってるんですが、入所の段階では、今度は「職員が患者さんのもっている精神的な状態を受容していく」というふうに、180度変化が生じているはずなんです。これはまったく違うことなんですよね。相手にまず何かを受容してもらうということと、その受容を促進するために、職員の側がまず受容をもつというの、これは同じ意味でも、方向もまったく違う対応が決められているということ、その中での前段階の流れとしてあったものが、その後も引き継がれているとなりますと、治療方針とは無関係な主観的な見方ですので。 Q.先生がここで述べられている「主観的価値評価」というのは、どういう意味にお聞きすればいいんですか。 A.ごく簡単に言いますと、まずある人が来て、ある人の動作を見て、大げさだなと思った、それはそれで一つ主観的にあるし、主観的なことと客観的なとは同じですよね。ところが、その大げさというものを、どのようにとらえるかということで、ずいぶん評価は変わってくるわけですね。例えば、「ああ、今、この状態が不安だから、ちょっと大げさにしている」と思うのか、あるいは「どうもこういう状況では、大げさにならざるをえない」というふうな理解があって始めて、大げさということの意味が成立するわけですね。そこの意味性が説明されていないわけですね。 Q.ただですね、例えば理学療法士がずっと見てるわけですね。 A.はい。 Q.そういう多くの経験のある理学療法士が「大げさ」とか「演技的である」というふうな判断をしたとしたら、それはそれで、まあ、ある程度主観的なものかもしれないんですけれども、正しいとは言えないんですか。 A.大げさに見えたというような状況があるわけでしょう。 Q.ええ。 A.そういうふうにその人が思ったということは、そう思います。 Q.証人は、前回、先ほども言いましたけど、「他の診療所がよいと思われたら、責任をもって推薦する」とか、あるいは「自らのところへ再度治療を求められた人を拒否するということは通常おこなうべきではない」と、リハビリテーションについてですね、調書の53ページです。ここに「医療施設をめぐって、後に生み出されてきたような問題(それがどのようなことで生み出されたかということはべつにしまして)に対しては、他の医療場所がよいと思われたら、責任をもって推薦するか、あるいは自らのところへ再度治療を求められた人を拒否するということは、通常おこなうべきではないであろうというふうに思われます」とおっしゃっているんですけれども、そうすると、本件ではどうするのが一番よかったとお考えですか。 A.まず治療を求められたときに、一番最初の時点からそうだと思うんですが、自分たちにできること、そして自分たちはどのような治療を考えているか、ということを、来られる方と共有して了解するという、そして了解のもとに治療の方向を決定していくということが、最もよかったことだろうと思うんです。ですから、その時点でもお互いの間で何を了解できるかということが問われるわけで、少なくとも紹介をするほうがいいということを、患者さんが了解なされば紹介するし、あるいは、もう一度続けることがいいということが了解点だとすれば、了解していくということだろうと思います。 Q.例えばですね、原告のように転倒後に多彩な症状を訴えられたり、リハセンター自体は、当時整形外科医がいないわけなんですけれども、専門の整形外科医のもとで治療訓練すべきと判断された場合でも、もし患者の求めがあれば、自らのもとでやると、やらなきゃいけないと、そういうことになりますか。 A.いえ、私は、専門的な判断があれば、それまで半年間、自分たちのところでケアなさってるわけですからね、最も必要なものや自分たちの手には負えないことがあれば、その場合には、それの一番できるところを紹介してあげるということが、最善になると思いますけれども。 |