もどる    目次


98.6.11

石川憲彦 証人調書 1

Q(質問):原告代理人(森田)


略 歴
証人 石川憲彦
1973年3月 東京大学医学部卒業
1973年4月〜1987年2月まで、東大病院小児科勤務(途中約1年、他院勤務あり)
1987年2月〜1994年3月まで、東大病院精神神経科勤務
1994年4月〜1996年3月まで、マルタ共和国マルタ大学精神科客員研究員
1996年4月から 静岡大学助教授(静岡大学保健管理センター勤務)
     児童青年期精神医学会リハビリテーション委員会委員

Q(森田).(「略歴」を示す)これは先生の略歴ということでお作りした書類なんですが、このとおり間違いありませんか。
A.はい、間違いありません。
Q.これによりますと、先生のご専門は小児科と精神科ということでよろしいでしょうか。
A.はい、結構です。
Q.小児科に勤務しておられたときには、小児科の中でもどういったテーマを専門にしておられたんでしょうか。
A.主には小児の神経学ですが、その中でもとりわけ障害児の療育、医療というようなことに携わっておりました。
Q.本件で転換ヒステリーということが問題になっているんですが、これは精神科の分野の問題と考えられるんでしょうか。
A.はい、基本的には精神科を中心に考える問題だと思います。
Q.それと、リハビリという問題についてですけれども、今おっしゃいました障害児の療育については、リハビリの問題も含まれるんでしょうか。
A.はい、私自身は主に医療サイド、とりわけ小児科サイドからの関わりですけれども、近年では子どものリハビリテーションというのは整形外科分野だけではなくて、いろいろな科の総合体として動いていますので、その意味では関係も深かったし、ある程度の関与もしていました。
Q.略歴の中に、児童青年期精神医学会のリハビリテーション委員会の委員ということが書かれておりますけれども、これは現在そういう職にあるということですか。
A.はい、そうです。
Q.これはどういったことをするところなんでしょうか。
A.現在は児童の精神医学におけるリハビリテーションがどのようなものであるかという、一つの将来像を臨床的に作ろうとしている段階なんですね。そのことの検討に関わってます。
Q.そうしますと、証人ご自身として、リハビリの分野についても関心をお持ちであるという理解でよろしいんでしょうか。
A.はい。
Q.(乙第7号証を示す)これは雑誌に載った論文ですが、これはお読みになっておられますね。
A.はい。
Q.本件で問題になります転換ヒステリーということについて書かれている論文のようなんですが、先生はこの論文全体についてはどのようなお考えというか評価をされていますか。
A.この論文が書かれた時点、1979年から80年ごろの考え方としては、非常に妥当でオーソドックスな考え方であろうと思います。
Q.この事件の被告のほうも、この論文を前提にして転換ヒステリーを論じているようですので、この論文に基づいてお聞きするんですけれども、この論文の中で転換ヒステリーと似たようなものとして、詐病を取り上げているようなんですが、それぞれについてどういうものであるかということを、先生のご理解のもとにご説明いただきたいと思うんですが。
A.この論文においてですか、それとも、まあそれほど変わっていませんが、現代の精神医学の領域で一般的な知識とされているものですか。
Q.まず論文の内容についてご紹介いただいて、もしそれに対して違った見方があるようでしたら、ご説明いただきたいと思うんですが。
A.基本的にはこの論文の著者の考え方と現代の精神医学の考え方との間には、それほど大きなずれはありませんし、また研究者によって多少考え方は異なるところがあるんですけれども、詐病というのは明確な意図、つまり意識の存在下に出てくる状態ですし、転換ヒステリーという言葉自体現在は使われておりませんが、転換ヒステリーと呼ばれる状態は、そのような意図や意識があまり明確でない、あるいは意図的に出てくるものではむしろない状態というふうに考えられると思います。
Q.そうすると、両者は根本的に異なるものであるということになりますか。
A.はい。木下さんの場合は完全に異なるというふうに分けてはおられませんが、やはり基本的に異なるという立場に立たれていると思いますし、今日の少なくとも診断学の分野では全く異なるものとして考えています。
Q.そうしますと、転換ヒステリーと詐病というものは、それが同時に存在するとか、あるいはだんだんに片方から片方に変わっていくというような考え方は、できるものなんでしょうか。
A.全くその可能性がゼロとは言いませんけれども、診断学上はその二つのものが同時に存在する、あるいは移行するということは、原則としてはないと思います。
Q.それと、これはちょっとその論文を離れますが、感情失禁といった言葉が本件のカルテなどの中でよく出てくるんですが、これはどういうことを指して言うんでしょうか。
A.感情失禁という用語を、私の所属した小児科、精神科ではあまり使いませんでしたので、文献からの知識になりますが、失禁という言葉は、基本的には「身体から出て行くものをコントロールできないという状態」で、感情失禁というのも、「感情をうまくコントロールできない状態」というふうに解釈していいかと思います。ただ、これは精神医学や心理学の辞書でも、採用しているものが少ないので、すべての原典がそのようにとらえているかどうか、私も浅学で全部のことは知りません。
Q.そうすると、断定的なことは言えないかもしれませんが、今言われたような意味での感情失禁と転換ヒステリーというものとは、どういう関係になるんでしょうか。
A.基本的にはまったく関係がありません。ただ、医学的な用語を離れて通俗的な用語としてヒステリー・ヒステリックという言葉が使われる、そういう通常用語としてのヒステリックと感情失禁は混同されますけれども、医学的な意味では、その両者は原則として無関係だと……。
Q.そうしますと、例えば「感情失禁があるから転換ヒステリーである」というようなことは言えないということになるんでしょうか。
A.はい、それはまったく言えません。
Q.乙第7号証に戻っていただいて、その697ページ以下の部分をみていただきたいんですいが、ここで「転換ヒステリーの治療について」ということで、何段階かに分けて書いておられるんですけれども、先生の目から見て、とくにポイントなる点はどのような点か、というような観点から、あるべき治療の内容についてご指摘いただきたいと思います。
A.確かに幾つかのポイントがあるので、あまり簡略化することがいいかどうか分かりませんが、一つには「前治療段階」のところで述べられている、「身体的なものとして認める」ということが、まず一つの重要なことでしょうし、それから二番目には、「精神療法」のところに書かれている「言語化」ということも、やはりたいへん重要な問題だと思います。それと、全体を貫いて保護的受容という言葉が書かれていますけれども、受容的保護でしたか、ちょっと私、ここのどこにあるか見いだせませんが、受容ということは確かに重要な意味をもっていると思います。
Q.今の受容ですけれども、例えば697ページの左の段の真ん中あたりに、「不満や攻撃を誘うような言葉あるいは態度を避け、受容的・保護的に接する」という記述がありますが、ここで言われているような受容とか保護的といったことになるんですね。
A.はい、この文献ではそうです。
Q.この受容という言葉は、訴訟上も双方の主張の中で用いられているんですが、先生が理解される受容というのは、どういうことなんでしょうか。
A.一応、精神医学の原則として、診断から治療に至る全過程、受容・支持・保証という三つのことが基本になる、その受容です。つまり、受容をするというのは、何事もすべてあいまいにして受け入れたり飲み込むということではなく、来た患者さんの治っていく方向、改善していく方向を支えるということと、そしてまた、その方向を治療者と患者さんが共有しながら実現できるという可能性を保証するという意味を込めて、受容・支持・保証ということが一体になった考え方、つまり、保証し支持するということを踏まえた受容というのが、精神医学的には受容という言葉だと思います。
Q.それでリハビリの現場で受容ということがいわれる場合に、これはどういう意味で使われるのか、つまり個々人の心構え的なものなのか、あるいはもう少しチームとしてのリハビリをやる場合の原則的なものなのか、そのへんはいかがでしょうか。
A.私はそれが両者が異なるものではないと思いますね。個々人が、今言った、保証し支持するような受容的態度をもつことと、チーム全体としてそのような受容・保証・支持といったものを、全体として共有しあうこととは、どちらも不可欠の条件だと思います。
Q.それから、このあとでうかがっていく際に用いるカルテ等の中に、「キーパーソン」という言葉が使われるんですが、このキーパーソンというのは、どのような意味で使われるんでしょうか。
A.これはかなりその治療者によって使われ方が違うと思いますけれども、基本的には「中心になっていく人」という意味で、治療者集団の中で中心的役割を担う人に置く場合と、それから患者さんの側からみて、もっとも大切な役割を担っていく人に置く場合とがあると思います。ただ、両者が一致していることがもっとも望ましいことであろうと思います。
Q.そのキーパーソンを決めた場合に、医療面での責任者である主治医とキーパーソンとの関係は、どのようにあるものなんでしょうか。
A.チームとしての医療でキーパーソンを決める場合は、むしろキーパーソンのもっとも動きやすい方向に全チームがその人を支える、その意味では医者もキーパーソンを支え、援助していくという役割が一つあります。二つ目には、キーパーソンが医者でない場合は、医療的な立場からアドバイスする、スーパーバイズというふうな言葉も使いますけれども、その人を医療的には客観的な位置からみて、常にアドバイスしたり、一緒に考えたりしていくということが必要になると思います。
Q.それでは、原告に対するリハビリの経過に基づいて、これからうかがっていきますけれども、この裁判の中では、原告が転換ヒステリーにあたるのではないかという議論がされていますので、お答えいただく場合に、「転換ヒステリーといえる根拠があるか」という問題と、反面、「転換ヒステリーだとしたら、それに対する適切な対応がされているか」、両方の問題が出てくると思いますが、そのことを念頭に置いた上で、お答えいただきたいと思います。
 (乙第6号証を示す)11ページ、平成2年10月30日のところに、伊藤医師の証言が書いてありますね。これはまだ入所してリハビリを開始する前の段階なんですが、この時点の所見から、転換ヒステリーと診断できるようなことが書かれておりますでしょうか。
A.ここに書かれている所見からは、まったくそのようなことは見受けられないと思います。
Q.むしろ身体障害があって、職場復帰のためのリハビリをするというような記載なんですか。
A.はい、そうですね。
Q.(甲第16号証の2を示す)「入所面接」と書いてある1枚目のところですが、平成2年11月22日の入所面接から12月11日までの記載があるんですけれども、この記載の中で、リハビリを進めていく上で、とくに注目すべき点というのはございますでしょうか。
A.基本的には問題がないと思いますけれども、ここで「感情コントロールが難しい」ということは記載されているので、どこかで治療者と患者との間に、こういった場面があったのかと想定します。ただ、このことに関しては、事実記載はありますけれども、そのことに関する内容や評価がありませんので、何とも申し上げられません。
Q.今おっしゃったのは、12月11日の記載ですね。
A.そうです。
Q.11月22日のところに「入所目的」というのが書いてあるんですが、先ほどの書類でもそうでしたけれども、基本的には「復職に向けての訓練を目的としている」という理解ができるんでしょうか。
A.ええ、復職に向けてですし、前回の記載も、またここに書かれているものも、体力等を含めた身体的な問題、運動機能を可能にしたいというふうな希望が書かれていると思います。
Q.それでは乙第6号証に戻りますが、12ページから14ページ、これはいわゆる入所措置によるリハビリが始まる前の段階なんですけれども、この記載をみていただいて、とくに理学療法士と原告との関係について何か問題となる点がございますでしょうか。
A.問題というふうに、この時点でいえたかどうかということは分かりませんけれども、全体的な経過から振り返ってみますと、この時点から、少し気になる記載は認められます。例えば、11月7日の「大げさに体幹を動揺させる」という表現の、この「大げさ」というのが、主観的なものか客観的なものかによって、判断は違いますけれども、やや主観的判断がここに記載されている。それから、11月21日の記載に、「すごく大変そうに行う」という、ここも「すごく大変そう」という主観的な評価が認められると思います。それから12月5日の記載で、「ロックを外して歩行、転倒(+)(あり)、ぎこちなし、異常はない」と記されている。この「ぎこちなし」というのが、動作のぎこちなさであるのか、あるいは転倒の様子を見て「ぎこちなし」としたのか分かりませんので、ここにもひょっとすると主観的な価値評価がみられるかもしれません。同じようになりますが、12月12日の記載の下から3行目に「全てのふるまい動作が演技的である」という記載がございます。この記載をみますと、先ほどから私が「ちょっと主観的な評価かな」と思ってきていたことが、この「演技性をおびたふるまい」という、あるものの見方によって形成されている、あるいは、こういった考え方を形成する前提となった主観的評価であろうというふうに思います。
Q.今のご証言の中でもありましたが、13ページの12月5日の記載の中で、「(長下肢装具の)ロックを外して歩行」という記載があるんですけれども、こういったやり方については、問題はないんでしょうか。
A.これは、それぞれのリハビリテーターの考えがありますので、少なくともロックを外すことに、怖さ・抵抗感を覚えている人がいた場合、ロックを外すとすれば、それは相当の信頼関係において、つまり、「この人と一緒だったら、外しても大丈夫」というふうな安心感がないと、一般的には患者さんにとっては怖いことだろうと思います。
Q.今までの範囲では、よろしいですか。
A.まあ、同じことの重複になるかもしれませんが、今言った「演技的」という言葉と同じ言葉としては、12月26日の記載の、右側の下のほうに、「大変自分自身に対して甘い」という言葉、これは「疲労の訴えが多い」ということに対して、「自分に甘い」という形容がありますが、「演技性」「甘さ」とあり、ここで理学療法士の対患者観、主観というものが、ある程度継続している。それは、作業療法士は、例えば「楽しくおしゃべりしながら」というふうな記載を12月12日に書いておられますけれども、作業療法士が様々な記載をされるのに対して、理学療法士の記載は、ある程度、今言いました2つの価値観による主観的形容が大部分を占めているように思われます。
Q.理学療法士の書き方と作業療法士の書き方を比べてみても、原告に対する評価の姿勢といったものに違いがあるということなんでしょうか。
A.そこまで言い切れるかどうか、この短い記載だけですので断言はできませんが、少なくとも、先ほど出てまいりました感情のコントロールを問題にするとしますと、患者さんに対して感情コントロールを強化したり、つきあおうとする場合には、ある主観によってみるという姿勢をまず排する必要があると思うので、このあたりは一面からの評価だけがあるということは、いささか気になるところです。
Q.例えば、今と同じような意味で13ページの12月5日の記載の中で、これは原告のことだと思いますが、「感情的に泣きだしそうな表情で訴える。こちらの説明も受け入れない」という記載があるんですけれども、これも同様に理解できるでしょうか。
A.これについては一概に申せませんが、もし先ほど言った「演技性」と「甘えている」という見方でみるとしますと、一人の人が感情を訴えてつらくて泣くということも、また別の見方になってくる可能性があるわけですね。それと「説明を受け入れない」ということと、また「甘え」というふうなことになりますと、一般的な客観状況が、すでにある主観によってみられていくという可能性はありますので、この記載も、もしそのような見方から成り立っているとすると、一方的な主観性のやや強い存在を認める記載になるかもしれません。
Q.同じく16ページの1月17日の記載として、医師のカルテと理学療法士の記載の両方について、比較的くわしい記載がありますので、まずその中で、医師のカルテから記載しているところですけれども、この医師のカルテの記載の中で、とくに注目される点はございますでしょうか。
A.まず、1月17日の伊藤先生の(注5)という記載のところでは、「復職を口にするが、本当にそれが本人の希望かどうかは不明」というふうに書かれています。そこでは、まず本人が語っている言語と、本人の意識されていない世界との間が結ばれているかどうかを、伊藤先生が疑っていらっしゃるわけですね。ところが、それがどのようなことによって疑われているかという記載は、カルテ全体を見渡してもありませんし、ここにも記されていないので、なぜそのようなずれを感じているかということは、よく分かりません。それから、ここで「ヒステリーの原因としては」というふうに書かれているんですけれども、このヒステリーという言葉も唐突でして、つまり、それまでヒステリーと思われる内容・要件の記載がまったくなくて、突然飛び出してくるんで、少なくともそれまでに伊藤先生が感じられたことがあるとすれば、カルテに記載されるべきであろうと思うんですが、それがなく、いきなり飛び出してきているということですね。同じことが「職場の問題又はセクシュアリティ(性的)な問題か」というふうに書かれている点についても、どのような当人の生活歴や精神的な動きから出てきたかということの裏づけがありませんので、伊藤先生ご自身がどのような面接をなさり、どのような経過で判断なさったかが、ちょっとよく分かりません。その意味では、じつはカルテ記載からは、先ほど申しました転換ヒステリーの病状ないしは状況がまったく触れられておりませんので、ここで言われているヒステリーというのが、精神医学的に申すヒステリーなのか、通俗的な、先ほど申しましたようなヒステリーなのかということも、少し分からない状態です。ただ、その状態でヒステリーということについて、はっきりと何ものかの記載はないんですが、そのような精神的な何らかの問題の関与を突然ここで示されているんですが、「身体障害として扱い、教科書的プログラムを提示して、ある意味では暗示させる」、つまり、どうやら伊藤先生がこのように感じられているので、問題点をはっきりと精神医学的に明示なさろうとしたのではなくて、ここから暗示されようという、つまり医者側の思いと患者側の思いの間に「暗示」というものを置こうとなさっているというところが、精神医学的には非常に重要な点だろうと思います。
Q.その隣の理学療法士記録の中にも、おそらく医師所見を引用していると思われる部分がありますね。「Dr.」と書いてありますが、そこの記載との関係ではいかがでしょうか。
A.「サイコロジカルファクター(心理学的因子)」ということがあって「ヒステリーの診断は慎重に行うべきであるが、ヒステリーとして対応する」と。そして「対応は受容的に行う」というふうな記載と、先ほどの記載とをつなぎあわせますと、この時点で病院側は、何らかの、むしろ心理的なケアへと考え方をシフトさせた、あるいは変更させたというふうなニュアンスは受け取れます。
Q.そうすると、ここにいうヒステリーの意味は必ずしもはっきりしないけれども、「ヒステリーを念頭に置いた対応をする」というような方針が入ってきている記載になるんでしょうか。
A.そのとおりです。
Q.ただ、「具体的にヒステリーに対する対応として、正当な対応がなされているのか」という観点からみるといかがでしょうか。
A.ここの時点ですか。
Q.ええ、とりあえずここの時点で。
A.これは外面しか書かれていないので、この時点で、ここのページのところでどうかということを評価するのは難しいと思います。むしろ、それからおこなわれていく内容と、ここの時点まで、約3か月ですか、経過している時点の間におこなわれてきた、もし診断が、私たちがいう医学的な意味での転換ヒステリーであるということだとしますと、それまでの3か月の内容、それから、これからおこなわれていく内容自体が問われると思います。ただし、私たちが申すような転換ヒステリーではなく、俗に用いられているヒステリーとして語られているとすると、また、まったく違う問題が生まれてくるだろうと思います。
Q.じゃあ、その点はその後の経過をみた上で改めてお尋ねしていきます。同じ16ページの理学療法士の記録のほうをみていただきまして、その中でとくに注目すべき点はございますでしょうか。
A.まずここで、「身体障害者として対応するから、訓練を施行すること自体に意義がある」、つまり、これはほかの内容等と比べあわせますと、訓練によって効果があるというのではなくて、訓練をしているということは、効果はないけれども、そのようなシチュエーションを整えるということに意義がある、というふうに考えられているわけですね。それから「対応は受容的に行う」といった、先ほど言った「受容」のことが出てくるんですが、そのような医師側の対応に対し、ここは三者一体になっていますのであれですが、療法士のほうは「生活訓練係に」というふうに、医者のほうのかけている重みとは違う人に期待をおこうとしている。その中で「本人の意向を当初は取り入れる」というふうに書かれているということは、取り入れることと取り入れないことがあるという、「当初は」ということは、後ほどは違うものが意識された書き方になっている。それから「改善は疑問である」、この「改善」が何を指すかは別にして、つまり、療法士側は「改善は疑問だ」という、すでにスタート点において改善方向への疑問を示している。どなたがどのように書かれてるかここでは分からないんですが、チーム内において、同一の方向、同一のコンセンサスが持てていたかどうか、あるいは訓練を開始する時点で、すでに疑問が呈されているという点が、いささか気になります。
Q.(甲第16号証の2および52を示す)甲第16号証の2の3ページをみてください。先ほどお示しした乙第6号証の16ページは、平成3年1月17日の記載なんですが、甲第16号証の2の3ページは、その翌日の1月18日、初期評価会議の記録ということになります。それと、もう一つ、甲第16号証の52の2ページの、1月16日の「所見」という記載を示します。同時期の記載ですので、一応この時期の所見をもとに1月18日の初期評価会議というのがもたれていると思うんですけれども、そこでの記載について、何かありますか。
A.まず、後からお示しいただいた、これは心理の関谷さんという担当の書かれている記載ですが、これがたしか3回目の面接が1月16日だと思いますけれども、記載の様々な結論として、その次のページのほうがはっきりすると思いますが、「Psy(心理)カウンセリング フォローへの反発強く、デメリット大きいため、Psyの個別対応はスタッフからの要請に応じて行なう」というふうに記録されていまして、つまり転換ヒステリーを、精神医学的な立場にもっとも近い立場からおこなうであろう心理の人が、自らの接触を「デメリット大きい」というふうに判断なさっているというふうに、ますここでは押さえられると思います。そして次に、甲第16号証の2の3ページの初期評価会議の記載のPTというところの2行目に、「改善が見られないので、訓練は終了としたい」というふうに記載されております。そうしますと、17日のところで、かなり中心的な役割を担うと考えられる理学療法士は、すでに入所開始時点で自らの役割を終えたいというふうに考えておりますし、心理スタッフも継続を断念するという状況がここであるということに着目したいと思います。つまり、もっとも中心になりうる両輪が、ここでは疑問を呈しているということが最初の時点であります。
Q.それと同じページの下のほうに、伊藤ドクターと白野ドクターという二人のドクターの記載がありますが、この内容はいかがでしょう。
A.ところが、これに反し、医師のほうは、とりわけ訓練を重視するという立場に立とうとしておられますし、また、その次の4ページになりますが、「心理カウンセリングも継続する」と、つまりそれぞれのスタッフが、自らのところではできなくて、こちらを重視するというように、やや悪い言い方をしますと、自らの領域は形だけであって、他者の領域へ問題を転化していくというような構造と見とれなくもないわけです。
Q.(甲第16号証の25の1を示す)同じ1月17日の「初期評価会議の資料」ということですが、1枚目の「PT」の欄がございますね。
A.はい。
Q.この記載については、いかがでしょうか。
A.「動作能力に評価結果との食い違いあり、心因性の誘因疑われる」という記載ですね。このPTの人がみられた、あるいは期待される動作能力と、当人の期待する動作能力の違いを、心理的な機序から起こる問題、あるいは先ほどいわれたヒステリーというのが、どちらの何を指しているのかというのを別にしますと、そのような心理的な問題から起こってくる現象というふうにPTの人はみておられて、したがって「訓練目標」というところにも、「全く改善がみられないので、訓練を行なわない」というのを、この心理的問題へと帰して言っておられると思います。
Q.それから次のページの上のところに、「心理」という欄、そこの記載についてはいかがでしょうか。
A.「知的な面、あるいは高次機能に問題がない」という記載のあと、「精神面」というところで、「相手による反応の異なりから、本人の真意が分からない」というふうに記載されていたり、「思い込みが強い」という記載はあるんですけれども、このことが何を意味しているかということは、ここでははっきりしませんで、プライドの問題や、あるいは適応性の問題というふうに考えていきますと、それは「どのような心理状況に当人が置かれているのか」とか、「なぜこのような問題が起こってきているのか」というようなあたりの、推論にまで至って考察しない限り、この心理の人の判断を了解することができないわけですね。ただ、そのような了解は不能ですけれども、どちらも自らの領域で解決することから距離を置こうとなさっているというふうに思うというより、今、言い様がありません。
Q.「どちらも」というのは、PTも心理の担当者も、ということですか。
A.そうです。これは「グループカウンセリング検討」というふうに書かれていて、その後、グループカウンセリングがどのようにおこなわれたかは、その後のカルテ記載にないところをみますと、実施がどのようにされたか、私には不明ですので、やはりそのように思います。
Q.(甲第16号証の25の2を示す)甲第16号証の25の2の「更生施設評価会議資料」をみていただいて、これはPTの記録のようですが、下のほうに「E歩行」と書いて、歩行訓練についての記載がございますね。
A.はい。
Q.ここで具体的にききますと、「訓練時と訓練時以外の歩容異なる。評価時とくにぎこちないパターンが見られ、スピードも遅くなる」という記載、あるいは「転倒は、課題の難易度にもかかわらず、突然見られる」といった記載がありますが、こういった記載については、それ以前からの記載に照らして、どのようにお考えになりますでしょうか。
A.先ほど申しましたように、形容詞が主観的なものであるのか、動作を言って客観評価しようとしたものであるのかについては、どちらとも断定しがたいので、そこの評価は分かりませんけれども、全体を通して、先ほど申し上げたような、主観的なある演技性あるいは安易な方向を目指す傾向というようなところから、この方はこの患者さんの状態を判断する位置にいらっしゃるというふうに思います。
Q.(甲第16号証の25の3を示す)その右の下のほうに「精神心理面」ということで、最後のほうだけ指摘しますと、「訓練は意欲的で、復職を強く希望している」という記載がございますね。
A.はい。
Q.一方で、先ほどご指摘されたように、PTのほうは、むしろ訓練を放棄するに近いような記載があって、そういう意味では、リハビリ側と患者の側とで、認識の違いがあるというふうに理解できるんでしょうか。
A.この記載ではありませんが、当人のここへの入所を通じて得ようとしていた内容と、このリハビリテーターの間には大きな差があると。この記載はOTの方の記載ですけれども、少なくともこの時点では、OTの方は必ずしも他の療法士の方と同じようにはみていらっしゃらないということだと思います。
Q.具体的には、先ほどの理学療法士の見方とは異なっているという趣旨でしょうか。
A.この時点ではそうだと思います。
Q.(乙第6号証を示す)17ページから23ページまでが、入所によるリハビリの開始後、転倒事故が起きるまでの記載なんですけれども、主に理学療法士の記録をみていただいて、原告との関係という観点から、気になる点がございましたら、ご指摘いただきたいんですが、まず17ページの中ではどうでしょうか。
A.この入所までの理学療法士の記載と、基本的には大きく変化をしていない可能性を感じます。例えば、18日の時点で一番下のほう、患者さんが「こういうふうにしてみよう」というのに対して、「大丈夫か」という問いかけが……。先ほど言いました「受容的」――保証し、支持する受容性によって「大丈夫か」という言葉も、じつは「大丈夫か」というふうに相手を受容しながら相手を支え、次の目標に向かって保証するという言葉になっているかどうかという点が、いささか疑問な記載があります。それは「(以前こういってたびたびEx(訓練)中転倒あり)」、これはやや内心の疑惑が記載されているわけで、ここではすでに「受容し支持し保証する」という「受容」ではなくて、疑いによる「大丈夫か」という問いかけ、つまりその意味では、言葉として受容言語を発しながら、むしろ拒否的対応に近い、つまり表にあらわれた言語と内心の行動とが乖離した状態に、理学療法士が置かれているというふうに思われます。
Q.18ページの中ではいかがでしょうか。
A.「訓練時間が短い」という患者の訴えに対して、「時間が短いのではない」「あなたの疲労のため、こなせないのである。よってEx量はこれ以上増やせないと説明」とありますけれども、これも受容的に当人の状態をお互いに説明しあい、共有しあって保証していく方向に向かっている言語というよりは、やや「演技性や甘え」という認識から、受容よりは拒否的な対応に、結果としてなっているように思われます。
Q.19ページの中ではどうでしょうか。
A.例えば30日、31日ともに、「メニューの消化不十分、運動量が少ない」というふうに書かれておりまして、これは「訓練が運動的には意味がない」というふうに判断なさっておられるPTの方としては、訓練をおこなうということの中から受容関係を築くという対応としては、いささか否定的な方向で、とくに30日はエクスクラメーションマークが打たれておりますけれども、精神医学的に申しますと、受容性という言葉からいうと、非常に拒絶的に働きうる記載と思われます。
Q.20ページではいかがでしょうか。
A.例えば2月6日のところに、療法士のほうは、「無理はよくない」「過度のExは意味がない」「中止したら」、これも基本的には言葉として受容的に受け取れる言語ですけれども、患者がそれに対して「くやしい」というふうにいう言葉を「演技的」と受け取り、「悲劇のヒロインの様」と書いている見方は、患者の状態を、やはり受容し保証していく方向からは、やや隔たっていると申しますか、むしろ違うのではないかというふうに感じられる箇所でした。
Q.23ページの、まず転倒前の2月22日の記載の中ではどうでしょうか。
A.下のほうに「lt U/E」、これは左上肢の略であろうと思われますけれども、左側上肢の運動時、「体幹の代償運動の様な前後側屈大げさに起こる」と、「身体を非常に大きく揺すって大げさだ」という、ここも以前と同じ記載ですね。
Q.一連の理学療法士の記載をみて、理学療法士と原告の徳見さんとの関係、リハビリを受ける関係については、どういうふうに考えられますでしょうか。
A.つまり理学療法士は、初期評価の時点で「訓練を終了したい」という意図をお持ちになっておられた。それはそれなりに専門的な判断だと思うんですが、それを継続するという形になったあと、医師が意図していた受容方向というものと違う対応を、ずっと取り続けざるをえなかった。それは最初の、以前、あるいは初期評価以前で、埋めなければならない大きな溝がすでに存在していて、その溝が広がったまま、了解されあわないまま進行している。そのあたりは、治療側がそれに対してどのように、状態をお互いに共有しあい明示していく方向になったかということが、みえない動きになっているということでございます。
Q.そういう患者との関係を是正するという意味では、初めにキーパーソンという言葉がございましたね。
A.はい。
Q.キーパーソンについては、この書類の16ページのところに「(キーパーソンは)生活指導員」という記載があるんですけれども、キーパーソンの役割という点からみると、いかがでしょうか。
A.キーパーソンという形式的記載はありますけれども、このキーパーソンと設定された人が、ではキーパーソンとしてどのように機能していったかということに関する記載が、私にはほとんど見受けられません。ただ、本来キーパーソンとすれば、このカルテの記載、「時系列のまとめ」を通じて、理学療法士記載がやはり中心になっていて、キーパーソンによる記載がないということは、やはり、もしチーム的なアプローチをとっているとすれば、キーパーソンの役割がうまく機能していなかった可能性を示唆すると思います。
Q.それで、先ほどの23ページの2月26日の欄にいきますと、このときに本件事故が起きているわけですけれども、2月26日の欄の理学療法士記録の中では、「ローラーがころがってきて、転ぶほどではないのだが、バランスoff(崩した)というより、自ら前方へ転倒」という記載になってますね。
A.はい。
Q.24ページのケース記録の中で、「宮崎PTより詳しい報告を受ける」ということで記載がありまして、最後は「むしろ故意による転倒に見えた」と宮崎PTはみた、という記載があるんですが、この転倒の経過については、双方の主張が食い違っているところなんですけど、従前の理学療法士の記載からみて、この点はどうお考えになりますでしょうか。
A.これは、少なくとも、この理学療法士以外の客観的などなたかが、どのように見ておられたかという具体的な経過や記録と参照しない限り、私も判断できないところですけれども、少なくとも入所以前から一貫して、その後も、理学療法士の記載には、ある一つの判断基準が、主観的なものとして存在していることは事実であろうと思います。その視点が、この日、やはり、ある状態を解釈する際に表われ出た可能性は否定できないと思います。
Q.(乙第12号証を示す)伊藤医師の陳述書です。これも以前にご覧になってますでしょうか。
A.はい。
Q.この中で4ページ目のところに「徳見さんの身体障害については『脊髄神経の器質的障害+心因反応=顕在化した身体障害』」という形で書いておられるんですけれども、この陳述書の記載と、先ほどらい、ごらんいただいた乙第6号証の中のカルテの記載といったものを併せて考えて、「伊藤医師は転換ヒステリーと診断をしていたのかどうか」という点については、いかがでしょうか。
A.カルテの記載以外から私も推測することはできませんが、カルテの段階では、ヒステリーという名前をもちつつ、「慎重である」という言い方とが、両方あるわけで、そこで言われているヒステリーというものが、転換ヒステリーであるということの内容に関しては、触れられていないというところからみると、私たちが精神医学的にいう転換ヒステリーであったということの証明は、残念ながらこのカルテからはできません。心因反応という言葉は、何らかの心理的な要因によって表われた反応ということですので、この心因反応ということは、様々に解釈できますし、幅を広げますので、一つは、その心因反応とはどのようなものであったかという内実がカルテに示されていませんと、解釈しようがないということ、二番目には、その心因反応ということを考えますと、この反応が心というものに原因を置く以上は、その心の動きや論理がどのようなものであったかということを記載なく、心という言葉を使うことは、あまり医学的なこととは思えませんので、ここでは、記録がないものについて、ちょっと判断できないという立場をとらせていただくしかないんですけれども……。
Q.先ほどらい、みていただいた範囲からは、断言はできないんですか。
A.まったくどちらであるということは申せません。
Q.仮に「転換ヒステリーである」という診断をしていたとした場合に、それに対する治療の仕方として、十分なことがされていたといえるんでしょうか。
A.まず第一の仮説としては、転換ヒステリーでなかった場合ではなく、転換ヒステリーであった場合ということですね。もしそうであったとしますと、今申し上げたように、本来、受容し、支持し、保証していくという言葉が、文面のみには見受けられますけれども、実質的には、それぞれの職種の方が、他の職種に期待するという形で動いた結果、および多分最初の時点での食い違いが大きいと思いますけれども、十分な受容的アプローチがチームとしてとれていない。さらに、むしろ個々の状況では、その受容ということの理解が不十分であったのか、あるいは受容ということを理解していても、まったく違う方向へ働かれたのかは別にして、否定するような対応もみられているというふうに受け取られますので、チームとしても、また個別としても、治療上は、もし転換ヒステリーであるとすれば、むしろ悪い方向へ動いていたというふうに思います。
Q.不十分であったということが言えるんでしょうか。
A.はい。
Q.(甲第16号証の28を示す)これは1月31日に作成された「リハビリテーション計画書」というものなんですが、先ほどらい、お示しした証拠にありましたように、原告としては職場復帰のためのリハビリを希望していたということは、リハビリセンターも受けとめているようなんですけれども、それに対して作成された計画書ということなんですけれども、一方で原告のほうの受けとめかたとしては、評価判定ばかりされて、希望するリハビリはなされなかったという受け取りかたをしているんですけれども、計画書をごらんになって、そのへんのずれの患者に与える影響ということについて、ご指摘いただけますでしょうか。
A.まず2ページ目に、「プログラム決定についての本人の意見」というところがありますけれども、「身体の現状と将来的な生活設計が一致し得ないところがあるので、訓練をするつもりでいる」というふうに書かれておりますけれども、私もちょっと箇所はどこであったか、今、細かく覚えておりませんが、当人は運動能力を回復させたい、したがって、そのための身体機能訓練を受けたいという希望は、この間と言いますか、ここに関わっている間、まったく変わらずに一定しているというふうに思います。その意味では、当人の主張は比較的同一のまま、変更を受けておりません。一方、リハビリテーション側のほうは、この評価以前の最初の前年度の評価、入所までの経過において、心因という言葉をめぐる解釈に大きく変化をきたしておりますし、しかし、変わらない当人の希望に対して、先ほど言いましたように、どちらかというと、障害の受容と精神機能の変化というところに焦点をおいて治療をおこなおうとしていく、そういう方向へ変化して、当人はまったく変わっていないわけですけれども、このリハビリテーション案のほうは変化しているにもかかわらず、そこの間を埋めあわせようという形の努力、今の言葉で言いますと、インフォームド・コンセントで、患者さんが入所なさるなら、やはり入所目的をはっきり理解して計画に加わっていくという方向が、どこかで見失われ出しているように思います。
Q.そういう意味では、そのことは患者にとっては、心理的な負担になっていったということが考えられますでしょうか。
A.はい。じつは私、先ほどカルテの記載からは、診断論的にはっきり申し上げられないというふうに申しましたけれども、この方の、今ここの場所にはございませんが、潰瘍を若いころなさっておられるという記載がありますし、その後何度か手術を受けておられるという記載がある。それからさらに、麻酔による注射や、確かハリによる治療の、ハリを刺したときに身体反応があるというような形で、その様な経過からみますと、潰瘍をおこすほど、かなりストレスを律義に身体に背負いこむ方であったとしますと、相当まじめに自分の訓練に取り組まれて、身体にストレスを及ぼすタイプの方だと思いますので、それを安易に転換ヒステリーというふうに判断して動きますと、身体面でも大きなストレスをさらに加えることになりかねない。その意味で、両者の間のズレというものは、相当大きな負担になりえたであろうと思います。
Q.今の「リハビリテーション計画書」の1ページの下のほうに、自宅での排泄動作の確認とか入浴動作の確認、起居動作の確認とかあるんですけれども、そういったことも、今おっしゃられたようなズレのあるままで、そういったことを求められるということが、大きな負担になったということもいえますでしょうか。
A.はい。当人の意図する方向と、このような「確認」とがどのような意味をもって整合性をもって成り立つのかということが、当人に十分に説明されたり、了解されなかったとしますと、このような「確認」は、診断が転換ヒステリーであったにしろなかったにしろ、相当大きなストレスになるだろうと思います。
Q.(甲第43号証の1・2を示す)これは事故後に原告を診察した整形外科医に対する問い合わせ文とその回答ということになるんですが、これは一般論としてお答えを求めることになると思うんですが、甲第43号証の2の第1項、その項目が診察した際の所見についてお答えいただいているんですが、真ん中あたりに「何らかの外傷によって頚髄に障害が加わって、それが、この時点まで遷延したものと考えた」という指摘がございますね。
A.はい。
Q.転倒事故ということで原告が主張している内容については、訴訟記録の中からご理解いただいていると思うんですけれども、原告の主張するような転倒事故も、ここにいう何らかの外傷として考えうるものでしょうか。
A.はい、私自身は整形外科医ではありませんので、断定的には申せませんが、当然その可能性は十分にあると思います。
Q.同じところの第2項ですが、「リハビリが必要であると判断した時期及びその理由」について尋ねておりまして、事故後の6月21日に、リハビリテーションが必要であるという診断書を書いているというお答えなんですけれども、これも、ここの記載の範囲内ということになると思うんですが、リハビリを再開するべきであったということの指摘は、とくにおかしい点はございませんでしょうか。
A.整形外科医がみて、このように感じたのであれば、そうであると思います。
Q.(乙第12号証を示す)一番後ろの丁の第4というところをごらんください。
A.はい。
Q.(第22回口頭弁論証人伊藤利之の速記録を示す)72ページをごらんいただいて、リハビリ再開について言っておられるんですけれども、大体思い出しましたか。
A.はい。
Q.リハビリ再開についての伊藤医師の意見については、どのようにお考えになりますか。
A.まず、医療側としましての、どこで治療するのがよいのかという判断はそれぞれの医療施設でおこなう、そのことは必要ですが、通常の医師の対応から申しまして、自らの施設より、より適切なところがよいというふうに、来ている患者さんについて思った場合は、よりよい施設を探し、紹介するというのは、道義的な任務のように思われるということを一つ感じることと、とりわけこのケースの場合は、もしここで語られている自律神経症状等と言われるものが、一貫して起こってくる、先ほど言いました転換ヒステリーであると考えたのか、考えなかったのかという議論につながりますが、もし転換ヒステリーであるという診断をなさっていたのであれば、その診断の疑いをもたれた時点から、一貫してそれがうまくいかなくなったときに、どう対応するかというところまで、これは医者ですと、手術をしたら、手術がうまくいかなかったらどうするかと考えるのが当然ですから、想定した治療方針を組まれるべきであったろうと推測します。ですから、もし診断がヒステリーという診断をなさっているのであったとすれば、この時点で他の診療所を薦められるのであれば、最初から明確に治療方針を、自分のところではできないというふうに判断するところまでみなければいけなかっただろうと思います。それから、もし最初の診断が転換ヒステリーということではなかったとしますと、その場合は、医療施設をめぐって、後に生み出されてきたような問題(それがどのようなことで生み出されたかということは別にしまして)に対しては、他の医療場所がよいと思われたら、責任をもって推薦するか、あるいは自らのところへ再度治療を求められた人を拒否するということは、通常おこなうべきではないであろうというふうに思われますので、いずれにしても、診断時点での、それが転換ヒステリーであったかどうかということは別にして、診断やその後の見込み等に、大きな甘さないしは誤りを含んでいたというふうに感じます。
Q.(甲第43号証の1・2を示す)「転倒事故の際には、左足を長下肢装具で固定された状態で、うしろに倒れているのですが、このような場合にどうなりますか」という質問なんですけれども、それに対する回答が、甲第43号証の2の6項で、今のような場合に、「必ず『頭蓋骨骨折』『頭蓋内出血』が起きるとは断定できない」「反射的に頭部を前屈して、頭部への外傷を阻止しようとすることが一般的と考える」といった回答がされてますね。
A.はい。
Q.この点について、伊藤医師はこのように言っております。今と同じ調書の90ページのところから、「棒状にうしろに倒れることになって、頭を打つことになるだろう」と。そのことが100パーセントというようなご証言なんですけれども、この点については、どのように考えておられますか。
A.倒れかたに関しては、当人のその当時の病状をはっきり把握しておりませんので分かりません。ただ、棒状にうしろに倒れる場合にも、問題は頭に何らかの障害が生じるかどうかということは、その倒れる位置からの距離、それからスピードの二つの問題、そしてさらに、倒れた場所の下の、それがどんな材質でできているかというふうなものによって、これはまったく異なりますので、うしろへ棒状に倒れて頭を打てば、それが頭部外傷につながるというのは、今言いました、それまでの距離と早さと材質の三者、完全に棒状だといたしましても、それを考慮しなければなりませんし、人間の場合は障害を負っていましても、それに対する防御姿勢も生まれえますので、クッションを、完全な棒とは違って吸収する、その吸収の度合いがどれぐらいであったかということとをぬきに、頭の傷を、それがまったく無害のものから、コブを作るものから、頭の中の出血に至るものまで、さまざまな段階がありうるというふうに考えます。これは完全な一般論でありますけれども。