2000.6.1
一審判決批判……篠原睦治・ 「リハ裁判」の横浜地裁判決文を批判する ――特に、「争点2」に関する裁判所の判断について 篠原睦治 はじめに 私が、今回、この横浜地裁判決文で着目したいところは、「争点2 本件事故前の財産状況の調査、知能テスト、心理テスト、被告更生施設のカリキュラムとしての『心理』は、原告のプライバシーを侵害するか。また、原告の排泄動作、入浴動作を確認することは、原告のプライバシーを侵害するか」に関してである。 というのも、私は、専門領域として「臨床心理学・心理臨床」を勉強しながら、また、その問題点について考えてきたので、「争点2」の問題については、他人事ではなく、自己検証的にも考えておきたいのである。以下に明らかにするが、実は、この判決文は、原告側の主張を一蹴して、被告側の主張を全面的に採用して、被告側に偏した事実認定と判断をしている。以下に、そのことを詳しく見ていくことにする。 本稿は、裁判所が「争点2」をめぐってどんなふうに事実認定して、どのように判断しているかを紹介する。そして、それらに関する臨床的・倫理的妥当性を検証する。 A. 判決文の事実認定 以下の内容は、判決文が認定している事実を項目に分けて整理したものだが、大半の表現は判決文で使われたままである。ただし、ここで付された番号は、本稿における後半の議論をする関係で、任意に付けている。 (1) まず、被告更生施設は、「争点2」で記された一連の臨床的諸行為は、原告の更生援護を行うという目的の為に、身体障害者法などに基づいて合法的に行われたものであると主張するが、裁判所は、これらの主張を事実として認定している。 (2) 次に、初期評価期間に三回予定された「心理」の時間は、原告の通院で、一回抜けているが、あとの二回に関しては、「原告の了承の上」で持たれたとしている。そして、原告は「現時点では必要ないと」主張して、以後の「『心理』のカリキュラム」を拒否していると事実認定している。 「『心理』のカリキュラム」における「P−Fスタディ」に関しても、「原告の同意」を得ているし、このテスト内容は、社会生活上の欲求不満を引き起こしやすい諸場面で、そこに書き込まれている相手の発言に対する被験者の応答を書き込むものだが、原告はすべて解答したとしている。 (3) その結果、被告は、原告について、「知的な面ではnormal」「高次機能面での問題なし」「障害理解、現能力、認識しようとしない」(、は私が付加)「精神面 @相手により反応が異なり、本人の真意不明(常に注意を集めたい) A思い込み強く、相手の意を考えられない B社会性は表面的に高いがプライド高く、攻撃的で適応性低い」と判定しているが、裁判所は、この判定をそのまま採用している。 (4) 被告更生施設の生活指導員らは、自宅における排泄動作、入浴動作の確認をさせるように説得したが、このことについて、原告は、職員の前で実際に衣服を脱いで動作の確認をさせられると誤解し、その確認を拒否した、という被告の主張を採用している。 B. 判決文の判断 以上の4点が、被告が事実であると主張した中で、裁判所が肯定的に認定した事項である。さらに、裁判所は、これらの事実にそっての判断を行っているので、それらを紹介する。 (5) 知能テストと心理テストに関しては、福祉事務所の依頼を受けた更生相談所が判定業務の一環として行ったものであって、被告更生施設が実施したものではないし、財産状況の調査は福祉事務所が行ったものである。その点で、被告更生施設がプライバシー侵害を行ったとする原告の主張は、それ自体失当である。 (6) 次に、被告が行った「心理」のカリキュラム(P−Fスタディ)の実施については、原告の同意を得ていること、そしてその実施目的からして違法性がないことは明らかである。そして、三回目以降の「心理」のカリキュラムについては、原告が拒否しているのだから、原告のプライバシーを侵害する余地がない。 また、その実施を強く薦めること自体は、更生援護の目標を設定する為であって、一定程度の時間をかけた、医学・心理学、その他の専門分野からの対処が必要なことは自明である。特に、リハビリの成果が当該障害者の心理的要因により大きく左右されることから、被告更生施設がリハビリ計画を策定する上で必要と認めるカリキュラムの受け入れを説得するのは当然であり、むしろ、更生施設の義務である。この点で、原告の主張は独善であると言う他なく、採用の限りでない。 (7) 裁判所は、上記(3)の判定内容が、原告の人格を誹謗するものであり、そのように評価すること自体がプライバシーの侵害に当たる、という原告の主張を批判して、判定は被告更生施設の裁量に属するものであり、原告の立論は、被告更生施設の役割を否定していると判断する。 (8) 被告が、自宅での入浴動作と排泄動作の確認をさせるよう説得したことは、原告が拒否した以上、プライバシーの侵害と言えない。 また、これらの動作そのものの確認を求めたわけでないし、更生施設においては、身体障害者の日常生活の安定を含めた更生を目的とするので、それらを確認して、その支援策を講じること自体は、なんら不合理なことと言えず、プライバシーを侵害する違法な行為であると評価し得ない。 原告は、他の入所者らから、衣服を脱いで下着姿にさせられると思っていたと供述しているが、とすれば、その点について、生活指導員らに確認すれば足りるのだから、原告の弁解には説得力がない。 (9) 原告は、職場復帰を目的として被告更生施設に入所したのに、そのことと無関係な、障害の受容を目的としたプログラムを強制させられたことがプライバシーの侵害に当たるとも主張するが、初期評価期間は、リハビリ計画策定のためのオリエンテーションであり、現在の障害を正確に理解し、これを原告に受容してもらうことが、その目的であるので、当初このようなプログラムが組まれることはやむを得ないことであり、プライバシーの侵害と言うことができない。 C 判決文の事実認定と判断に関する検討 C1 心理学的手続きと「プライバシーの侵害」問題 上記(1)と(5)をまとめて考えるが、財産の状況調査、知能テスト、心理テスト、カリキュラムとしての「心理」は、「更生援護」の目的上、合法的に行われたと言うが、果たしてそうであろうか。ここでは、「財産の状況調査」を除いて考えるが、このような心理学的手続きが、本人の「更生援護」上、臨床的合理性を持っているかが、合法性に先んじて論じられなくてはならない。 原告は、職業生活の中で頸肩腕障害にかかり、やがて、頚椎症性脊髄症と診断されて、手術を受けている。そして、職場復帰を目指して、被告更生施設での通所訓練(リハビリ)をうけることになるのだが、知能テスト、心理テストは、その為の初期評価期間になされたものである。 ここで明らかなように、原告が願ったリハビリは、身体機能に関するものであり、心理的問題があってのことではない。もちろん、身体機能の障害に関しても、心理的要因は無関係であるとは必ずしも言えない。心理的要因があって、身体機能の障害が起こることがあるし、身体的障害の故に心理的問題を抱えることもある。ただ、このような学説や仮説は、そのことがかなり承認されているものであったとしても、個別的・臨床的に適用される際には慎重でなくてはならない。 というのは、職業病とまで認定された身体機能が心理学的に説明されてしまうことで、原告の置かれてきた状況、関係、場の諸問題が見えにくくなるからである。それどころか、そのような社会的・関係的問題が免罪され、個人の心理、性格、病理の問題に還元されて、今度は、その個人が責められる立場を背負わされることになるからである。このような事態は不当なことと言わなくてはならない。 あと二つほどの問題があると考えるが、原告は、身体機能に関するリハビリを求めて通所しようとしたのだが、被告側は、その動機や願いに直面することから始めるべきであって、かくほどに早々と、そこに心理学的仮説を設定して、その確認の作業をやるべきではなかった。私は、このようなりの方法と姿勢に、身体機能のリハビリがその本来的・中心的課題(原告の場合、職場復帰を目指した身体機能の回復)を解決することに対して、安易かつ責任回避的になっている感じを受けてならない。そのことは、本件の場合に関しても、順次明らかにする。 もう一つの問題だが、このような心理主義的接近は、リハビリを受ける側を、専門家の意図、判断の中で、本人の願い、意図とは別個の世界に、不本意に包み込んでいく、つまり、呪縛された世界に追い込んでしまうことがある。 さて、裁判所は、「更生援護」の目的との関係で、このような心理学的手続きを合法と言うが、ここでは、このような心理学的な手続きが、上述のような問題を、原告の場合にそって引き起こしていないかを検証する必要がある。また、これらの手続きが、どのような臨床的必然性をもって、身体機能に関するリハビリに結びついているかを検討することが大切である。 上記(5)を読んでまず感じたことだが、被告側における心理学的な手続きは、上記のごとき配慮をまったく欠いた、ずさんなものになっている。つまり、知能テストは、心理テストの一種であり、普通、心理テスト群の紹介にあたっては、必ず冒頭にリストアップされているものであるにもかかわらず、「知能テストと心理テスト」といった具合に両者が並列的に列挙されている。これは、裁判所が心理テストの臨床的妥当性を個々に慎重に検討していないことを暗示している。 このような表現は、被告専門機関の主張からの引用であろうが、とすれば、このような安易な姿勢は、被告側のそれでもあると言わなくてはならない。「心理」関係職員が、あらかじめ用意しているテストの組み合わせを、誰に対してもルーティン・ワーク的、機械的に行っている様子が推察される。そして、そこでは、「調べられる」側が誰であろうと、まずは、「知能」を測定するという習慣があるようだ。 裁判所は、「知能テストと心理テスト」は、更生施設が実施したものでなく、更生相談所が行ったものなので、更生施設が「プライバシーの侵害」をしたというのは成り立ちようがないと、被告更生施設を擁護している。思うに、原告は、更生施設を代表させ象徴させながら、「調べる」側総体を告発しているのではないか。ましてや、「更生援護」という観点から言えば、福祉事務所、更生相談所、更生施設は、三位一体の関係にあるし、本件の場合も、更生施設が、当施設の「更生援護」という業務遂行上、その職務分担から、更生相談所という連携機関に委託したにすぎないと考えるべきなのである。裁判所は、更生施設をかばい過ぎているという印象を拭えない。 私は、臨床業務における「プライバシーの侵害」問題について、以下のように考える。確かに、治療やリハビリには、その合理的な方法・技術を決定する為に、適切かつ慎重な診断が必要である。その中には、個人の社会的・経済的状況、身体的・心理的事情という「私事」を系統的・組織的に探るという(調べられる側からすれば)非日常的な行為も含まれる。その分だけ、診断行為における治療・リハビリにそった合理性と、他者が「私事」を探る際の慎重さと作法が求められる。昨今では、インフォームド・コンセントが強調されているが、これは、「私事」に対する慎重さと作法が、臨床的合理性に優先する場合があるという考え方やシステムを含んでいる。 本判決文は、以下でも見るが、臨床行為の合法性・合理性を優先させているばかりで、このような考え方に対する熟慮が認められない。それでも、「プライバシーの侵害」問題について少しは気に掛けているようで、この問題は、他の連携機関に押しつける形で処理している。つまり、「私事」を探るという非日常的な行為に対する慎重さや痛みを、被告側に求める様子はまったく認められないのである。 C2 心理テストにおける協力と拒否の問題 ここでは、上記(2)と(6)で紹介したことについて検討する。ここで明らかだが、裁判所の「プライバシーの侵害」問題の扱い方は簡単、明瞭である。つまり、原告が「了承」し、「協力」したので、また、「拒否」したので問題がないというものである。つまり、「更生援護」という大義名分と、「専門家と被治療者」という力関係のもとに原告が置かれているという認識を欠いたまま、「拒否」とか「協力」とかは原告に自己完結した事態であるかのように捉えている。この場面や関係における「拒否」や「協力」は、これらの状況に抑圧されたり屈従したりした結果である側面を否定できないにもかかわらずなのである。 確かに、もともと「了承」、「協力」、「拒否」は、原告の主体的・自覚的な態度や意識に属することである。とすれば、被告側によって主張された、これらの言葉を、「プライバシーの侵害」がないとする証拠とするには、相当の無理があるし、ご都合主義的であると言わなくてはならない。
ところで、本来「拒否」という表現の扱いには、原告の態度として尊重しなくてはならないという含みがなくてはならないのだが、判決文にはその感じはない。むしろ、「拒否」した以上、「プライバシーの侵害」は成立しようがないではないかと開き直っている。このような姿勢は、上記(1)と(5)に関わって論じた箇所で紹介した、この問題に対する言い逃れの仕方とよく似ている。 心理テスト「P−Fスタディ」に関しても、「同意」と「協力」が強調されている。このテストは、日常生活における幾つもの対人的・社会的葛藤や欲求不満に直面した際の、個々人がとる行動傾向を予測しようとするものだが、繰り返すが、「更生援護」という大義名分と「専門家と被治療者」の力関係のもとの「同意」と「協力」であったことを勘案しなくてはならない。 特に、テスト場面は、「調べられる」「探られる」という圧力のもとにあり、そこで被験者が「協力」的であれば、権威に従順とか社会性があるとか、また、反対に「拒否」的であれば、権威に反抗的とか、社会的ルールに従わないとかの心理学的解釈を受けることになるので、ここでの被験者は、自己防衛的、警戒的にならざるをえないのである。それが、テストする側には「協力」的と見える場合があるのである。つまり、その見え方は、テスト「する」側が「される」側の言動を都合よく解釈した結果なのである。 さて、「『心理』のカリキュラム」としての「P−Fスタディ」ということだが、正直、よく分かりにくい表現である。というのは、初期評価期間の「知能テストと心理テスト」というのは、判定業務の一環というのだからまだわかる。しかし、「『心理』のカリキュラム」として、なぜ心理テスト(しかも、選りに選って、P−Fスタディ)なのであろうか。そもそも「『心理』のカリキュラム」という言葉は聞き慣れないが、文脈上、身体機能のリハビリを補助する心理的援助(カウンセリング)を想像することは間違っていないであろう。とすると、「心理テスト(診断)→カウンセリング(治療)」という一つの心理学的図式から言っても、おかしな文脈に、この心理テストはある。 にもかかわらず、判決文は、被告側がこのような心理学的接近を説得するのは当然であり、それは義務であると言い切っている。とすれば、「原告の主張は独善」となるのだが、「説得と義務」に関する合理性、説得性を示し得ていないので、判決文は強引であるという印象を拭うことができない。それは、被告側に加担し過ぎているし、原告側の主張を軽視しすぎていると言わざるを得ない。このことは、上記(3)と(7)を検討することでいよいよ明らかになる。 C3 心理学的手続きの臨床的妥当性と道義的問題 ここでは、上記(3)と(7)で述べられていることについて検討するが、(3)で紹介されている「知能」「性格」などの描写は、知能テストから始まって「『心理』のカリキュラム」としての「P−Fスタディ」で終わる、一連の心理学的手続きによってなされたものである。 (3)で述べられている臨床像を、もう少し分かりやすい表現に置き換えると、次のようになる。すなわち、原告は、知的には普通で、抽象的、論理的な思考では問題がない。だが、自分の「障害」や「能力」を素直に受容できず、「現実の自分」以上の自分であることを見せびらかそうとする。相手により態度を変え、相手に自分をよく見せようとするだけで、なかなか本音を言わない。思い込みが強く、自己中心的で相手の気持ちを汲めない。社会性は一見高く見えるが、表面的で、自己顕示的かつ攻撃的、しかして社会適応性が低い。 このような臨床像は、原告が「心理的・性格的に問題のある人」であることを強調しているし、「障害の自己受容」「自己顕示性・攻撃性の矯正」「社会的、対人的技術の改善」を目指す「『心理』のカリキュラムが是非とも必要な人」という判断を伝えようとしていると思われる。 しかし、これでは、身体機能のリハビリ(→職場復帰)の補助的援助としての「『心理』のカリキュラム」という意味合いが見えにくい。この段階ですら「診断」ということに終始しているし、その描き方は「頭の程度は普通だが、性格は悪い」という、救いようのない悪印象に終わっているからである。 そして、次のことは、臨床的に言って重要な指摘と思うが、もし、身体機能の障害に心理的要因が関わっていると仮説するならば、その心理学的・精神医学的手続きは、心身を相関的かつ力動的に探るものでなくてはならないし、例えば、乳幼児期に溯る生活史をていねいに調査したり、意識と無意識の関連構造を探る(ロールシャッハテストなど)投影法を含んだ諸テストの組み合わせも考えなくてはならない。 ただし、このような接近方法は、被験者の人格への侵襲という事態を、より深刻に生起させることになるので、その際には、その分だけ、そのことの臨床的妥当性に関する慎重な吟味と、被験者の了解と同意がどうしても必要である。 さて、「『心理』のカリキュラム」が(既述のごとく)「障害の自己受容」「自己顕示性・攻撃性の矯正」「社会的、対人的技術の改善」を目指しているとすれば、これらの目標は、身体的機能のリハビリの心理的要因や効果促進に寄与するとは考えにくい。つまり、第一義的に期待されている身体機能のリハビリとは無関係である。 そもそも、これらは、原告の社会的・対人的行動に関する特徴的傾向を、負的にのみ描き、その責めを個人に帰せしめつつ、その上で、社会的、道徳的適応行動の改善をねらっているものである。かくて、医療施設で「行動の矯正」をすることになる。具体的には、「P−Fスタディ」における原告の反応内容を手掛かりに、被告側が、原告の現状の態度・行動をどう改善したらいいかを、原告と話し合っていくことでもしたかったのであろうか。原告にとっては、予想だにしない不本意な事態と言わなくてはならない。 しかし、裁判所は、人格を誹謗し、プライバシーを侵害したとの原告側主張を一蹴して、原告は、被告更生施設の役割を否定していると非難している。私には、既述したが、被告側行為は原告に対して、臨床的にも道義的にも不適切なそれになっていると思われてならない。そして、被告側は、「更生援護」という大義名分と、診断・治療する側とされる側の力関係によって、自分たちの一切の行為を一方的に「医療行為」に丸めて正当化してしまっていると言わざるを得ない。 その意味で、「『心理』のカリキュラム」に到る一連の心理学的手続きは、臨床的な妥当性を欠いており、自分たちの立場を隠れ蓑にした越権行為であると指摘しなくてはならないが、判決文は、そのことを批判する様子がまったくない。 C4 入浴動作と排泄動作の確認と「プライバシーの侵害」 ここでは、上記(4)および(8)の「自宅での入浴動作と排泄動作の確認」に関して検討するが、まず、私には、「自宅で」という場所の特定が気掛かりである。これらの行動が「自宅で」と限定されることで、これらがすぐれて私事性を有していることを明示している。 言うまでもないが、入浴と排泄はもっとも私事に関わることであり、これらの行為を覗くことは反道徳的であるだけでなく、犯罪行為とみなされる場合すらある。このことを勘案すると、「自宅で」の(たとえ)模擬動作であっても、そのことを観察すること・されることは、異例な事態と言わなくてはならない。観察する者は、その模擬動作から卑猥な姿を想像するかもしれないし、観察される側は、羞恥な気持ちに襲われるかもしれない。 百歩譲って、もし、被告側が、これらの行動を生活の場や人間関係の中の日常的事態として知りたいならば、「自宅で」という強調はわからないでもないが、被告側にも判決文にも、そのような理解の仕方は認められない。つまり、場や関係を射程において行動を状況的・関係的に理解しようとする姿勢は、驚く程に欠如している。その分、心理主義的人間理解が強調されてくるのである。 ここでの文脈では、これらの動作に関わる身体機能の状態を知ろうとしているのだから、更生施設の場で、それらの行動を含む日常的な諸行動に関わる身体的な諸機能を分析的に観察しながら、総合的に組み合わせればすむことである。また、原告から、自分の生活上、身体機能上の困難点をていねいに尋ねればよいことである。 ところで、判決文は、被告側主張を採用して、原告が「衣服を脱いで下着姿にさせられる」ということはあり得ないことであって、原告は勝手にそのように想像して不快に思っているにすぎないといったふうに、原告側主張を一蹴している。 このように、被告側を全面的に擁護して、原告側を一蹴する(重ねて認められる)パターンに、裁判所の一貫して偏った姿勢をうかがうことができるのだが、このような事態では、もはや、原告側が、被告側によって書かれた文献を根拠に、被告側は、ADL(日常生活動作)能力の評価にあたっては、動作を直接観察しなくてはならないと述べているではないかとか、実際の入浴状況等を観察することを前提とした記載があるではないかとか主張して、原告の危惧は決して根拠のないことではないと述べても、裁判所は、そのことを一顧だにしていない。 このような強硬な態度によって貫かれた判決文は、公平性と客観性を欠いているという印象を拭うことができない。 ところで、ここでは、「プライバシーの侵害」ということが、二つの異なった文脈で論じられていて、いずれでも被告側を擁護した結論になっている。ひとつは、原告が拒否した以上、プライバシーを侵害したと言える対象事実がそもそも成立し得ないという論理である。ところが、もう一つの文脈になると、入浴と排泄の動作に関する支援上の観察なのだから、プライバシーを侵害する違法な行為と言えないという論理になる。 前者の場合には、拒否しなければ、プライバシーの侵害が成立する可能性が残されているのだが、後者の場合には、臨床上の合理性を持っているのだから、その他の場合であれば、プライバシーの侵害行為になることがあっても、ここでは成立しないというわけである。 ところで、前者の場合、判決文に、原告の「拒否」に対する尊重の姿勢があるならば、「プライバシーの侵害」は成立しないという判断を素直に聞けるが、判決文では、他の箇所でも見るように、「拒否」したことはけしからんとする、原告に対する一貫した拒否的態度が認められるのだから、嫌味以上の印象を与えることはできない。 一方で、「私事」の観察が臨床的合理性を持っている後者の場合、その場合ゆえにプライバシーの侵害にならないと判断するのだから、判決文は、この問題の解釈に論理的一貫性を与えていないことになる。つまり、判決文は、(被告側が行おうとした)「自宅で」の入浴と排泄に関する動作観察が「プライバシーの侵害」行為になりうるとはつゆだに考えていないのである。 私は、臨床場面において、生活状態を調べたり、諸行動を観察したり、内面の世界を理解しようとすることは、常に「私事」に関わることになると考える。したがって、第三者の「私事」への介入は、臨床上の目的と成果にそって、必要最低限でなくてはならないし、被験者の了解と同意が求められなくてはならない。こう考えると、「する」側の道義的態度として、「原告の誤解は、職員に確認さえすればすむこと」といった程度の簡単な認識で済まされることでない。判決文には、臨床行為における「私事」への介入ということに対する真摯な思索が欠如していると指摘しないわけにはいかない。 C5「障害の改善・回復」と「障害の受容」の関係 ここでは上記(9)について検討するが、判決文は、「障害の受容」がリハビリ計画における当初からの目的であったとする被告側の主張を追認している。はたして、このような目的設定は妥当なのであろうか。 私は、身体的機能の障害の改善・回復と「障害の受容」とは、しばしば相対立する事態であり、矛盾するものであり、せいぜい後者が前者を補完するという関係になっていると考える。つまり、障害の改善・回復が目ざされている限り、「障害の受容」はいまだ求められていないのであり、障害の改善・回復が断念されたとき、追って、「障害の受容」ということが臨床的課題として浮上してくるのである。 すなわち、ここでは、「障害の受容」は、当初からの当然の目標となっているとしているが、むしろ、本来的には、障害の改善・回復に期待通りの展望が見えなくなった時点での補完的な課題として登場するものである。 また、「障害の受容」ということは、現状を甘受して身の程をわきまえて振る舞えという、社会的要請を含む場合がある。原告が身体的な機能回復を願っている際、被告側がそのように要請することは、原告の願いと期待を軽視し抑圧することであり、原告側がそのことを「プライバシーの侵害」と表現したとしても十分にうなずけることである。 つまり、「障害の受容」は、当初からの目的とは成り得ず、「障害の改善・回復」を断念した時点での事態なので、「障害の受容」は、治療される側にとって、それ自体で葛藤と苦悩の課題であり、その意味で、治療される側によって時間を掛けて了解、同意されていかねばならない人生論的課題なのである。 私が疑うに、「障害の受容」ということが、判決文が追認するごとく、被告側の当初からの目標であったとするならば、被告側は、当初の時点から「障害の改善・回復」は困難であると診断、予測していたのかもしれない。従って、そのような物言いになったのかもしれない。とすれば、そのことは、なおのこと、原告側に十分に知らされているべきであった。それがなかった様子なので、この観点からも、「プライバシーの侵害」は生じていると言うべきである。 いずれにしろ、いささか不可解な論理展開になっている。 おわりに 判決文における「争点2」に関する事実認定と判断を検討してきたが、判決文は、原告の身体的機能に関するリハビリ(→職場復帰)という文脈に対する自覚を欠如していると言わなくてはならないし、その分、心理学的手続きの(この文脈上での)臨床的妥当性に関する吟味を行っていない。 また、判決文は、臨床行為における「私事」への介入という事態は不可避であるとする深刻な現実認識を押さえていない。また、「私事」への介入が、「調べられる・探られる」側にとって、不快であり苦痛であるという緊張的・葛藤的難題をどのように解いていったらよいかの思索をまったく展開していない。その軽薄さは驚くべきほどだが、この事情は、被告側主張を全面的に採用して、原告側の言い分を一蹴した結果である。つまり、被告側こそが、臨床行為における「私事の介入」というテーマをめぐって、日常的に葛藤していない現実を反映している。 「争点2」において、「プライバシーの侵害」問題が軸にあることは確かだし、原告は、そのような概念で括ってしまっているけれども、臨床場面における心理学的手続きが、原告の体験世界に不快と苦痛をもたらしたという事実の正体を明らかにしようとしているのではないか。特に、原告は、自らが希求した身体的機能のリハビリとの関連が納得できないまま、専門家の論理だけで、心理学的手続きにさらされ続ける不快と焦りの事情を探ろうとしていたのではなかろうか。とすれば、被告と裁判所は、このような原告の体験的世界を追体験しようとしながら、臨床的行為の妥当性と権力性を同時併行的に吟味し続けなくてはならないのである。 横浜地裁判決は、そのことをまったく放棄して、原告を敗訴に追い込んだが、控訴審は、この課題に真摯であることを願って止まない。 |