「障害者」は、脳死・臓器移植に反対する

徳見康子

 神奈川では、東海大学付属病院で、末期ガン患者が塩化カリウム多量投与で殺害されるという事件があった。「家族の強い申し入れと、同情した医師の〈判断〉が、この殺人の原因である」と報道されました。
 青い芝の会神奈川県連合会が、先頭を切って東海大学付属病院に抗議。引き続き、神奈川赤堀さんと共にたたかう会・リハビリを考える神奈川の会のメンバーが抗議しました。県知事あての声明も同時に行ってきました。
 医学的に「修復不可能」な状態や、生命の末期的状態にいる者は、家族や医療の中だけではなく、社会からも「生」そのものを否定されるということを、この東海大事件は教えてくれました。この事件以後、私たち「障害者」にとっても「安楽死」、末期医療、脳死・臓器移植などの問題が、ものすごい攻めとも思える状態で襲いかかってきています。
 それは、私たち「障害者」が「修復不可能」として医療拒否されている事実、そして経済的有意性のない者として、家族や医療からも見捨てられている現実をいやというほど味わってきているからなのです。

神奈川における脳死・臓器移植反対集会
 六年ほど前から、脳死・臓器移植反対を打ち出していた青い芝の会神奈川県連合会会長の横田弘氏の呼びかけで、10月19日、横浜において、障害者団体・医療被害者・差別とたたかう方々・肝臓病患者連合会・腎臓病患者の方々、労働組合・学識経験者等、団体22・個人4名の賛同で、脳死・臓器移植反対の集会を開きました。集会は、予想を越える83名の参加者があり、「技術と人間」出版社の天笠啓祐さん(「市民会議」世話人)の講演から始まりました。
 天笠さんは、世界的な政治・経済・医療の流れの中から、移植術がどのように登場したか、また「和田心臓移植」に始まる日本における移植の歴史・実態、筑波大学で「精神障害者」が治療を打ち切られ、臓器摘出をされた事件などを例にあげながら、脳死・臓器移植をめぐる問題について語っていただきました。「結局、移植術は、他人の〈死〉を期待して成り立つものであり、そのことによって〈生命〉を、『生きてよい命』と『生きてはいけない命』とに選別することになる」という指摘もありました。そして、今回の厚生省・脳死臨調が出してきた「中間答申」の説明などをしていただきました。
 会場から質問や意見が、いろいろな立場から出されましたが、残念ながら時間が足りなく、十分論議しきれなかった点もありました。集会後の交流会の場では、さらに医療現場での脳死が立法化されたら、医療そのものが大きく変化してくることや、移植術がどんなに金もうけのできる医療なのか等、医者の立場からの提起もあり、今後も具体的に、さらに検討し、市民レベルできちんと活動していかなければならないと確認いたしました。
 講演のビデオ作成は終わり、現在「天笠氏講演報告集」を作成しています。完成後は、これを資料として、神奈川で脳死移植を考える場を普及させていくつもりでいます。
 この間、市民会議に、青い芝・赤堀・リハ考える会が団体加盟し、脳死臨調公聴会、東京・大阪・広島に対し、市民会議と共にたたかってきたところです。とりわけ大阪においては、全国連絡会の結成が確認されたことは、大変重要なこととして位置づけています。

移植学会公開シンポジウム
 「脳死」を人の死として規定し、「社会的合意」が難しくなった臨調は、臓器移植推進のみに的をしぼろうとしています。また臓器移植を進める医学の中枢として移植学会がありますが、今年度の移植学会公開シンポジウムにおいては、「人間愛」だ「共に生きる」だとか連発している方々の集まりですが、車椅子で階段が登れない私に対し、気がつかないどころか、大きな声で何度も「階段を登るのを手伝ってください」「お願いします」と声をふりしぼらなくてはならないほどでした。やっと主催者側の職員が手伝ってくれました。医者たちに「もっと遠慮なく臓器移植をやれ」とあおりたてた方々は、私の階段での出来事をチラリと見て通りすぎて行くのです。これ一つを見ても「ドナーにならない人たちには文化水準の低い階層や人種が多い」と発言した「学識経験者」たちの人間性が明らかになります。その他は前回のニュースレター7号に報告されていますので、ご参照ください。

講演会「臓器移植とHLA」
 神奈川の地、とりわけ横浜は全国に先がけて、国直轄の動きがあるもので、横浜で日本尊厳死協会の全国大会があり、加賀乙彦氏の講演で、積極推進をかかげていました。
 また、横浜市衛生局健康推進課主催で、オランダとアメリカから移植医を呼んで、「臓器移植とHLA」と題して講演会が開かれました。HLA登録を横浜から神奈川へ、そして全国へと一億総登録化にもって行きたい、そして臓器移植を推進させていくために、行政・医療が一体となって進めて行こうというものでした。
 この講演会で、私が本当に素朴な質問をしました。「もし仮りに臓器移植が成功した場合、患者が風邪を引いたり、料理しているときに包丁で手を切って、そこから魚の汁が入ったらどうなるのか。ころんで泥が傷口についたらどうなのか。(HLAで骨髄液を取る際、脊髄に麻酔の注射をするのですが)針で脊髄を傷つけたときの根治療はありますか」等と質問しました。
 その他多くの質問をしましたが、演者は「大変大事な質問です。これらの問題は今後重要な課題なのです……」としか答えられませんでした。
 またオランダでの臓器移植を「理解」するためのビデオを上映し、その中では「弱視」で暗い気持ちで生活をしている少女が、学校で見えないために友達と遊んでもらえない。移植に成功して「幸せ」に遊べるようになった。オランダの移植術の最初の例として「黒人奴隷」の足を取ってつけた絵を出したり、肝臓ガンの根治療は移植しかない、腎不全で透析を受けている患者に透析の苦痛をなくすのに移植が必要である。すべての治療は移植で行えば「幸せ」になります、という内容のものを、日本語にセリフを変えて使っていました。
 すべての医療の根治療の方法は移植術だと言っています。このビデオは、日本が行ってきた石井七三一部隊と「医療的」に何ら変わりはないのです。その考えそのものが、今の移植医療に見られるものであるのです。
 講演会が終わってからロビーで主催者側が「本主旨にそわない質問がたくさん出てしまってすみません」と「えらそうな方々」に平あやまりをしていました(私たち以外はほとんど質問はありませんでした)。

署名活動の中で
 10月19日、反対集会後、賛同していただいた労働組合等に署名のお願いをほぼ終え、法律関係・医療関係への働きかけをしつつ、街へ出て、街頭署名活動をしました。12月4日・14日は全国一斉に街頭署名を行うという市民会議での提起を受け、その日は神奈川県庁・横浜市庁のある関内周辺で行動しています。
 12月4日、関内伊勢崎町での署名では、私たち「障害者」2名と健常者1名の計3名で行いました。大きな布に「脳死・臓器移植に反対します」と書いて、2本の木に結わいた舞台設計です。車椅子のため、ボールペンを持って人の流れにつっこむスタイルはできませんので、座ったまま署名してくださる流れを待っているわけです。大きな布に大きな字で書き、大きな声で呼びかけをしました。遠くのほうからこちらを見て、近づいてきて署名してくれます。
 半数以上の方が高齢の方でした。そして寿町の「労働者」が何人も遠くから真剣なまなざしで近づいてきました。一緒に考え、意見の交流ができました。ものすごい差別の現実のなかで生きている人々だからこそ、この脳死・臓器移植の「事実」を見すえて、生きている生命を「物」として見たり、「死」を、作為をもって選別し、生きていることをも選別していくことを「偽り」として考えられると思います。「臓器移植は医療ではない。実験だ」とはっきり意見を言った方も多くありました。
 これまで、町へ出て反対のビラを配り、署名活動を行ってきましたが、一般市民の方々は、臨調や推進する立場の打ち出している「すでに脳死は人の死ととして、社会的合意がなされているE臓器移植しか解決の方法はないのに、臓器が足りないのですE人間愛がある人は、臓器を提供するEドナー登録を簡単にすれば……」というような考えは、ほとんど感じることができませんでした。

「脳死・臓器移植」の思想は、障害者を抹殺する
 くり返しになりますが、推進派や臨調の言う「人間愛のある人はドナーになるE社会的合意の中で……Eドナーが足りない。それが集まるようにするのを阻害する要因をさぐりだせ」とする意気ごみや本音のゴマカシや誤りに対して、市民の考えている現実との違いを、街頭での署名活動の中でしっかりと確認できました。
 また、私たち「障害者」は、つねに「手のかかる」存在として「社会の役に立つため」に臓器の材料として殺されてきました。施設の職員の手がかからないようにと、子宮を摘出されています。また「精神障害者」ゆえに透析を拒否され、殺されています。これらを「正しい判断」として、医者の判断はすべて正しい――死を決めるのは医者である――これを認めるわけにはいきません。
 患者当事者にとって、誠意をもって医療を行っている医者がいたとしても、百パーセント誤りなく何年も行える者は誰一人としていません。
 「科学的」とか「合理性」とか「発展のために」といってすることが、どんなに非人間的なご都合主義であるか、今、見ることができました。そして、矛盾だらけの移植を、何が何でも進めるために、「生きた新鮮な臓器」を集めるために、「脳死」を出してきていることがはっきり分かりました。
 そして、ご多分にもれず、私たちの署名活動を1時間も邪魔した方もおり、制服警官の動きがあったのは、いうまでもありません。
 マスコミが取り上げなくとも、市民に私たちは体をはって訴えることができます。医学の「進歩」のためとか「活用」ではなく、人間の根源として、生きている現実のこととして、問い続けたいと思います。いつわりのない、そして「作為」によるものではない、素朴に生きている現実や死を見つめる中で、脳死・臓器移植に反対していきます。

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