8月1日(日) バザー(相模原・鹿沼公園)
 相模原の川上和男さんが口をきいてくれて、淵野辺駅ちかくにある鹿沼公園でおこなわれるフリーマーケットに出店できることになった。彼に案内されて、9時近くに会場に到着すると、木陰の涼しそうな場所はほとんどふさがっている。何とか場所を確保して、準備にかかる。
 徳見の持参したものは、例によって、本や衣類、瀬戸物、雑貨などである。今回はメインの「川上人形」がないだけに、売り上げについてはそれほど期待せず、「楽しければいい」という気持ちであった。そして、それは十分にかなえられた。
 フリーマーケットは「銀河祭り」と称する地域の祭りの一環であり、参加者は祭りのさまざまなイベントを楽しみ、フリーマーケットを覗いて行く。お客だった小学生の女の子たちが、徳見の「店」の手伝いをしてくれたり……。そして、思いがけないものが売れる。
 川上さんの知人、松下英男さんが、電動車イスで徳見の店に顔を出し、川上さんと祭り見物に出かける。
 持参した品物が残り少なくなり、客足も落ちたころには、期待していなかった売り上げも1万円を超えていた。2時半ごろ店をたたむ。片づけをしたりして、16時ごろ、出発して、関越自動車道で長岡へ向かう。

8月2日(月)〜3日(火)長岡(新潟県)花火見物
 「長岡の花火」は全国的に有名で、とくに「3尺玉といって、直径約1メートルもある大花火は、日本ではここでしか打ち上げられない」とは、連れてきてくれた川上和男さんの話である。徳見も「山下清の『花火』の絵は、ここの花火だ」と、知識を披瀝する。
 昨日バザーのあと、彼とともに、そのまま関越自動車道にのって、6時間ほどかかって、ここ長岡市にやってきた。川上さんの両親が住む敷地の一角に、彼の「車イス住宅」があった。相模原に住む彼は、「ここにはめったに来ない」というが、部屋はいつでも使えるように整っている。
 長岡市は、中心部を日本一長い河が流れており、その広い河川敷を使って、毎年8月はじめに「日本一の花火」がおこなわれているのだという。
 日もとっぷりと暮れた7時半、河川敷を埋め尽くした「観客」の見守る中、スピーカーから流れる黄色い声が、スポンサー名をつげ、「ベスビアス超大型スターマイン(徳見には意味不明)打ち上げ開始です」などと、ひときわ声を張り上げる。そして、打ち上げ音が腹に響いて、星空いっぱいに、色とりどりの火花が炸裂する。10万の観衆がどよめき、そして拍手がわきおこる。1時間45分の間に、40発の「ベスビアス」や「スターマイン」「超大型」「外打止響き10号48発」などが、黄色い声とともに次々と打ち上げられる。最後の「正三尺玉」が、全身をつらぬくような轟音とともに打ち出され、火花が全天を覆いつくすと、10万の観衆は思わず息を飲み、一瞬の静寂が空の明かりに映しだされる……。 翌3日も花火はおこなわれるが、昼間の「長岡祭り」を見物して、帰路につく。

8月12日(木)「脳死・臓器移植に反対する市民会議」(駒込・こもん軒)
 夕方、駒込の「こもん軒」へ。着くなり、古賀さんが「徳見さんテレビに出てたよ!」という。「大きく映っていた!」と、目の見えない古賀さんが言うので、徳見は思わず、「どうして分かったの?」と叫んでしまう。「ナカちゃんと一緒に見てたから」という返事に納得。
 会議は「臓器移植法案」のその後の動きの分析などを中心に進む。途中遅れてきた天笠さん、石川さん、入ってきて徳見の顔を見るなり「テレビで見たよ」。昨夜、朝ちゃんから「TVK(神奈川)テレビ」と聞いていたので(本紙前号「伝言板」参照)、「アレッ?」と思う(皆さん、東京や埼玉の人たちだから)。よくよく聞いてみると、10チャンネルの「ニュースステーション」と判明。2月11日のことが、今ごろ放送されたらしい(本紙5号の「日誌」2.11欄参照)。

本紙前号「伝言板」
 このところ、本誌『リハ裁判』作成時に、なくてはならないワープロ2台が、次々に故障してしまいました(おまけに裁判が終わる頃にはできるハズの「リハ裁判ビデオ」作品のためのビデオカメラも故障)。修理代もままならない(?)状態の中で、本誌7号と8号は、読みづらいところがたくさんあり、失礼しました。この9号はきれいにワープロ打てました(え〜っ?  あっ、そう、徳見がワープロ打っているわけではありません。スケット係のスタッフです)。ビデオカメラも修理してきれいに撮れます。でも、8/11日、久米宏のニュースステーションで、私の姿はウチのカメラより美しく撮れていたでしょうか。といっても私は見ていません。放映するのを知らなかったのです。その夜、朝ちゃんから電話で「徳見さん、テレビ見てる?  今、ド・アップで出てるよ」と、けたたましい声。「えっ誰が?  テレビ神奈川?  ウチUHF入らないよ!」。次の日、市民会議で何人も「徳見さん、テレビ見たよ」。何と10チャンネルだ。そそっかしい朝ちゃん。シーツ交換のテスト、落ちないようにね!(朝枝は看護婦学校の学生です)。
  というわけで、2月10日の大倉山記念館での「エイズ差別」と闘っている写真家・石田吉明さんの写真展を見に行ったときのこと(本誌5号「裁判日誌」参照)が、放映されたらしいのです。ビデオを撮った方、いませんか?
8月18日(水)「リハ裁判」弁護団会議
 先月末にリハセンターから提出させた「徳見関連資料」の検討。
 帰りがけ、自治労横浜の事務所に寄る。相馬委員長自ら、「お茶を……」といって、事務所の片隅におかれたソファーで、15分ほど雑談。委員長は「教育委員会においては、自治労も市従(共産党系の組合)も、組合員の数はウチと同じくらいだ。一番多いのは非組合員」「(当局との交渉に)組合がかかわると、当局の態度がちがう」などと語る。

8月20日(金)長谷川頸腕(けいわん)訴訟(東京地裁)
 「スタンダードヴァキューム石油自主労組」の長谷川さんの職業病闘争。
 「労働省375通達」によるハリ・キュウ治療打ち切りをめぐる裁判は、全国で数多くおこなわれている。その一つ「七沢リハ労組・鍼灸労災保険給付打ち切り反対裁判」の判決が3月25日にあり、全面敗訴になっている(本紙6号「裁判日誌」参照)。その判決の日には、五十人以上の組合員や支援者がつめかけ、公判前の支援集会、判決後の「不当判決弾劾集会」がおこなわれた(徳見:私も、「通達」による治療打ち切り問題で、当初、裁判提訴の予定であったが、組合の分裂、私自身の入院などで、不可能になってしまった)。
 この長谷川さんの「頸腕訴訟」は、裁判官は1人、原告席には弁護士1人だけ(どういうわけか原告の長谷川さんは傍聴席だ)。それに対して被告側は、弁護士以外に都の役人など4人。傍聴席は、支援の労組の人以外は徳見だけだ。
 これまで幾つかの裁判を傍聴してきたが、いずれも、裁判官は3人、弁護側の席には複数の弁護士(徳見の場合は3人)と原告自身がいて、被告側は原告側より数が少なく、そして、多数の傍聴人が見守る、という例が多かった。しかし、原告一人だけであろうと、傍聴人が少なかろうと、長谷川さんの闘志は十分。公判後に、弁護士・支援者との打ち合せをテキパキとすませて、次回の公判に備える。原告の信念の強さを感じさせられた裁判であった。

8月23日(月)職場復帰をめぐる学校保健会交渉
 昨年4月25日に「休職期間」が切れて以来、徳見をクビに出来ない当局は「欠勤扱い」という変則的な状態のまま放置し、「兵糧(ひょうろう)攻め」にして自己退職を待つ作戦のようにみえる。事実それは成功しつつある。収入はまったく入らず、退職していないから、雇用保険ももらえず、年金も請求できない。それにもかかわらず、健康保険・厚生年金・雇用保険などの費用は支払わされている。貯金をくいつぶす「竹の子生活」もいつまで続くことか(徳見:アッー・当局に知られちゃう……)。
 4月30日に交渉を持ったときには、当局の側から「連絡する」と言ったまま、以後何の連絡もない。結局、徳見の側から連絡したときには、人事移動で、担当の課長・係長が代わっている。それやこれやで、本日やっと新課長・係長との交渉となった次第である。
 事前に「介助者つき職場復帰を認めない理由を明らかにするように」という趣旨の要望書を提出(本紙9号に収録)しておいたが、
回答は「前任者の通り」ということで、今回も平行線だ。ただ今度の課長は、前任者とはちがって、生粋の役人タイプらしいので、なんらかの「結論」が出てくる可能性があり、それへの対応が迫られてくるかもしれない。

8月25日(水)「9.19集会」実行委員会(飯田橋)
 障害児・者の人権侵害問題の相談や裁判などを手がけてきた弁護士(児玉勇二・副島洋明さん)たちが中心になって、今月28日に障害者の「人権弁護団」を結成することになり、9月19日(日)には、それを記念して「障害者の人権擁護全国ネットワーク」づくりに向けての集会をもつことになった。
 この集会では、徳見もパネラーの一人として、横浜リハセンターの問題、とくに「施設」におけるプライバシーの問題について語る予定である。
 そのための準備会が、飯田橋の東京都社会福祉センターでおこなわれた。事務的な連絡のあと、「障害者と人権」をめぐって、さまざまな意見が出る。
 最後に副島(そえじま)弁護士が、「アメリカの『障害者法(ADA)』が、障害者の権利を具体的にあげているのに、日本の法律はそうなっていない。したがって日本の福祉法は、人権を確立するようには出来ておらず、裁判には使えない。法律は支配の道具にすぎない」と、熱弁をふるう。
 終了後、飯田橋の町に出て、飲むほどに副島さん・小玉さんたちのボルテージはあがって行き、11時を過ぎても、話は尽きない。


8月27日(金)「リハ裁判」弁護団会議
 台風11号接近の大雨の中を、前回に引き続き、リハセンターから提出された「徳見関係資料」の検討(徳見:この資料のひどさに、ずっとウー、ウー、落ち込んでいた私の心境は、誰も気がつかなかった。渡辺弁護士に「徳見さんはずいぶん寛容な人だね」と言われて、「実は……」と始めて口に出す。側にいたスケット係も、落ち込みに気がつかなかったという。徳見、再びウー……!)。

8月28日(土)「教育を考える会」(目黒)
 今年の「貧乏旅行」は、9月4日〜5日の全障連大会(天理市)を最終ゴールにすることにして、ワゴン車に布団や炊事道具・当座の食料などを積み込んで、昼ごろ出発。
 10時から中目黒(東京)でおこなわれている「学校の密室主義とどう闘うのか!?」と題する「夏季教育交流集会」に立ち寄る。
 玉置和江さん(小学校教諭・「校長裁量権の乱用事件」裁判原告)と、前田功さん(町田市つくし野中学校の「いじめ―自殺に係る作文非開示・廃棄事件」裁判原告)、そして佐藤さん(町田市の教育委員会を相手に、弁護士を頼まず一人で裁判提訴)の「報告」が午前中にあったらしい。
 午後2時近くに到着すると、会場では30人ほどが熱心な議論の最中である。何人かの現役および元教師が、学校現場における激しい体罰(教師による暴力)の実態と、それを告発しようとする教師への、校長や教育委員会などの隠然たる圧力について、生々しい報告をする。そして、そのような暴力とその隠蔽工作を許し、それに加担してしまう親(PTAのP)の側の問題(徳見:これが差別構造を生み出すのだ)について、参加した「一般市民」も含めて、議論が進む。結局、「親・教師も含めて、体罰問題に関するネットワークをつくろう」ということになったようだ。

 4時30分終了。そのまま中央高速で長野方面へ向かう。
 双葉S.A(山梨県)で、月を見ながら車中泊。

8月29日(日)〜30日(月)本多さん方(長野・松川町)
 昨年11月の全障連大会で初めてお会いした本多節子さん(「長野青い芝の会」代表)のお宅(長野県松川町)に、29日夕方到着。
 この松川町は、東には赤石(あかし)山脈
(南アルプス)、西には木曽山脈が連なり、その間を流れる天竜川によって形づくられる巨大な渓谷――伊那谷(いなだに)の一角にその位置を占める。
 本多さんは、この町に生まれ、この町で生きてきた。両親はすでに20年以上前に亡くなり、たった一人の兄(本多勝一さん)は、東京で多忙な日々を送っている。「兄が高校のころ、私を連れて町に映画を見に行ったことがありました。そのとき、障害者である私を見る他人の冷たい目に気づいたことが、兄の仕事の原点なのだと、黒人問題を取材に行っていたアメリカからの手紙に書いてきたことがあります」と本多さんは語る。
 節子さんは若い頃、「両親の束縛がいやで」東京に出て、施設で生活したことがあったという。しかし(だから?)「施設は嫌いよ……・」という。今は両親の残した屋敷(ここの母屋に徳見は泊まらせてもらった)の一角に「車イス住宅」を建て、ヘルパーやボランティアによる介助体制をつくって、一人で生活をしている。「福祉の町・松川」は、節子さんがつくり維持してきたようなものだ。
 「こんなに長く生きたのだから、いつ死んでもいいのよ」と、ケロッと言う。それは「障害者」として、したたかに「反権力」をつらぬいて生きてきた、その生き方が言わせるのだろう。その「生き方」を描いた本がもうすぐ(10月末)出来上がるというから、楽しみだ。

8月31日(火)アルプ・カーゼ 
 徳見が昨日午後ドライブに行ったとき、「部奈(べな)という部落を通った」という話を本多さんにすると、「そこは、私が子どものころよく遊びに行った場所」と言い、思い出話になる。というわけで、2泊の予定が、結局3泊になって、3日めの今日は「部奈」へ「ハイキング」。この村は、山の中腹に広がる台地にある水田地帯だ。田の畦(あぜ)に車を止めて、持参のおむすびを食べる。「30年ほど前は、うちのまわりもこんな様子だった」と、広々と広がる水田を眺めながら、本多さんは言う。ひとしきり風景を楽しんでから、本多さん知り合いの牧場「アルプ・カーゼ」へと向かう。
 人里から遠く離れた大鹿村の山腹にその牧場はあった。「アルプ・カーゼ」とは、「南アルプスの主峰赤石岳を間近に望む標高1000mに位置する牧場とチーズ工房」であり、ドイツ語で「山のチーズ」の意味だと、思いがけず都会的な風情(ふぜい)の若い姉妹の一人が説明してくれる。以前父親がスイスに修業に行き、昨年は姉が1年ほど、同じくスイスで勉強してきた。姉の名は野花(やおい)、妹は泉(いずみ)。こう聞くと、「経営者」は、今はやりの「脱サラ」かと思うが、さにあらず。地元の人だ。母親は病気で入院中。父と二人の娘が、牛を飼い、乳をしぼり、チーズを作る。ごちそうになったチーズは、素朴な山の味である。「小学校まで4キロ。中学までは10キロほどあるから、4キロ歩いてさらにバス。高校は町で下宿」だという。今、二人は東京の大学の通信教育を受けている。「この夏は、二人とも、東京へスクーリングに行ってきた。東京は蒸し暑かった」と妹。
 着くなり、徳見は「こういう自然の中で暮らすのが私の夢……・」と言って、一人電動車イスを駆って、あちこち走り回る。(アルプ・カーゼのチーズを賞味されたい方は、問い合わせ先、0265−39−2818)

9月1日(水)和知野川キャンプ場・ログハウス(長野・天竜村)
 天理市でおこなわれる全障連大会に、本多節子さんと一緒に行くことになり、それまで本多家を離れて「旅行」の続きに出発。天竜川に沿って下ること1時間ほどで、長野県のいちばん南の村、天竜村に着く。ここは昨年通過した村である。過疎の「村おこし」の目玉(?)として(多分、例の1億円を使い)和知野川が天竜川に注ぐ広い川原に、ログハウス5棟と付随する施設を作っている。
 徳見は「田舎でログハウスに住むのが私の夢……!」と言って、村役場まで車を15分ほど走らせ、1夜の宿を申し込む。1棟6000円なり。さて必要な荷物を運びこむと、徳見はさっそく一人電動車イスを駆って出かける。
 途中で急勾配の山道に入り、景色を楽しみながらしばらく進むと、エンジンが加熱して安全装置が働き、エンストしてしまう。幸い、通りがかった車に乗せてもらい、無事ログハウスに帰ることができた。めでたし、めでたし……!(徳見:いやはや……。人がほとんど通らない山道。来るのはヤブ蚊ばかり。1時間くらい、しゃがんだままで歩く。「もう大分下に降りた」と思って、うしろをふり返ると、電動車イスがまだ見える。朝までかかったら車道に出られるだろうとは思ったが……。ログハウスに戻れて、足を見ると、細かい皮下出血があった。行きはヨイヨイ、帰りはコワイ〜!)。
昨年通過した村
 92年8月21日から28日に、山梨(大河原)、長野(美ヶ原)、高山、能登、立山などを経由して、天竜川を下り、天竜村に到達した。このころ徳見は、リハセンターでの事故をめぐって交渉を続けると共に、裁判提訴に向けて、体の痛み・頭痛などと闘いながら、多忙な日々を送っていた。さらに「臓器移植」をめぐる動きにも関わり、「周囲」からは、「そんなに手を広げないで、焦点を絞った方が……」と忠告されたりしていた。そんな日々の中で、「息抜き」のための旅行が必要であった。一方で「田舎暮らし」は徳見の長年の夢であり、「どこかいいところ」を見つけたいという思いもあった。
 92年は、4月に高槻でおこなわれた「脳死・臓器移植反対、関西集会」に参加するついでに、信楽・鳥羽などを3泊4日でまわり、9月、天城2泊、10月は9泊で、山陰・京都、そして高速道路を使わずに、東海道をのんびりと帰宅した。
 9月2日(木)二瀬キャンプ場(長野・阿南町)
 天龍村のログハウスから和知野(わちの)川をさかのぼること数分で、すぐに村営の二瀬キャンプ場に到着する。トイレやシャワー室があり、しかも使用料は無料。無料だけに、あまりきれいではない。「キャンプ場に満足したら 500円程度のカンパを」と緑色に塗られた「元郵便ポスト」の前に書かれている。
 シーズンオフのため、「お客」は誰もいない。必要な荷物を下ろすと、徳見は、一人電動車イスを駆って川原の「散歩」。「砂地の走行可」という電動車イスの宣伝文句を信じて走っていると、砂にはまって動けなくなる。悪戦苦闘するが抜け出せず、必死になって、のんびり昼寝をしているはずのスケット係を呼ぶ。
 30分ほどたって、やっと気づいて「救出」される。めでたし、めでたし……・ どうやら、「平坦な砂地」という条件を見落としたに違いない(徳見:山道や川の砂地を走れる電動車イスが欲しい。ゴーカートは公道を走れないし……)。

 食事の支度をしてから、近くにある「和知野温泉」に向かう。ここは、3年ほど前に掘り当てられた鉱泉で、村の人たちが交替で、ほとんど年中無休で管理している。掃除をしたり湯を沸かしたり……、「なかなか大変」と、当番のおばさん。公民館ふうの建物で、村の「公共浴場」であり、社交場にもなっているようだ。 300円を払えば「よそもの」でも気持ちよく入浴させてくれるのがうれしい。
 開いたばかりで、「お客」はほとんどいない。温泉好きの徳見は、1時間あまりも、のんびりお湯につかる。出ると、すでに何人かが風呂からあがってタタミの上で歓談中だ。徳見もカンビールを買って、話の輪に加わる(徳見:「どこかに空き家はありませんか」「アル、アル」「村の人でなくても貸してくれますか」「ソリャー、交渉シダイダ」「家賃はどのくらいでしょうか」「町ハ高イヨ。家ヲ借リルト4万円ハ越ス。山ノ中ハ、サアテ、イクラカナア……」)。

9月3日(金)「交流(むすび)の家(奈良市)
 古田光(あきら)さんは30歳前後であろうか。本多節子さんと共に「長野青い芝」のメンバーで、「本多さんと出会わなかったら、一生施設で暮らしたかもしれない」という。今は公営住宅で自立生活をしている。詩人である。古田さんのガイドを務めるのは、信州大学1年生の可愛いぼうや(失礼!)の「哲ちゃん」。そして本多節子さんのガイドは、同じく信大1年生の心優しい女性「あーやん」だ。
 徳見の車は、総勢6人と旅行の荷物、それに車イス3台、そして昨日とうとう故障してしまい、今や無用の長物となっている電動車イスも詰め込まれて、満腹の状態。「戦後最大級台風日本列島縦断本日夕刻九州上陸」のニュースを気にしながら、断続的に激しい雨の中を、高速道路を西へ、南へ、台風に向かってひた走る。
 今日の泊りは、トンちゃんに紹介された「交流(むすび)の家」(奈良市)。この家は「ライ回復者の宿」として作られたものだが、今は「誰でも自由に来て泊まることができる施設」になっているという。到着した夜9時ころには、台風はどこへやら、空には星が瞬き、「交流の家」には誰もいない。買いこんできたビールで乾杯をしていると、2か月ほど前から泊まっているというフランス人の画家、アンドーシュプローデルさんがのそっと入って来る。一緒に乾杯。

9月4日(土)全障連大会(天理市)
 天理市でおこなわれている全障連大会に向かう。昨夜は遅くまで飲んで騒いだので、会場の天理大学に着いたのは、午後1時近く。この日の午後と翌日の午前におこなわれる分科会に出席する予定である。本多さんと徳見は「医療分科会」に、古田さんは「生活分科会」に顔を出す。
 医療分科会は「優生思想と徹底的に対決し、『脳死・臓器移植法案』の立法化を粉砕しよう」という、すばらしく「過激な」テーマに、期待して参加したのだが、定員40人ほどの教室に参加者はまばらで、しかも、予定していた報告者(「脳死・臓器移植に反対する市民会議」の石川さん)が来ないため、司会は四苦八苦の様子(後で石川さんにきくと、「オレ、そんな約束してないよ」という)。徳見は途中で、「施設分科会」を覗き、結局「精神障害者の分科会」に腰を落ち着けてしまう。本多さんは「まじめに」医療分科会につきあう。
 さて、夜は、本多さん・古田さん・哲ちゃん・あーやんの4人は、すでに申し込みをしてある宿泊所「天理教38母屋」へ。名前はいかにも宗教的だが、8階建てのちょっとしたホテルで、1泊2食つき2000円は安い! 「アルコール類は持ち込み禁止」とあるが、途中の酒屋で、何人も、カンビールを荷物の中に忍ばせている人がいて、本多さん・古田さんも、それにならう(徳見:玄関の外だったらイインダヨ! でも外は寒かったネー)。
 徳見は、宿泊申し込みをしていないので、今夜の「宿泊車」を駐車場に置いて母屋へ。「医療従事者の交流会」に参加する。9時ごろ終わって、本多さんたちの部屋に行くと、4人はすでにビールを前にしてにぎやかである。

 「今日の分科会はつまらなかったねぇ」という本多さんが、「小学校の修学旅行に行けなかった私を不憫(ふびん)に思って、父が奈良の鹿を見に連れて行ってくれた」と、思い出を語ると、一同たちまち「明日は奈良へ鹿を見に行こう」と衆議一決。
 どうやら、明日の「全障連・分科会」は、奈良公園での「鹿分科会」になってしまったようである。

9月5日(日)奈良公園
 朝食を食べに行くと、すでに全員、大会の会場に移動してしまったらしく、食堂はガランとしている。「天理教38母屋」を出たのは、本多さん一行が正真正銘の一番最後。
 快晴。風なし。日差しは強いが湿度が低いらしく、快適な朝だ。1時間足らずで、奈良公園に到着。さっそく「鹿せんべい」を買って、皆、無邪気に鹿とたわむれる。せんべい売りのおばさんが、「台風の強い風を恐がって、山からあまり下りて来ないので、今日は鹿が少ない」と解説してくれる。奈良の鹿は「飼われている」と思い込んでいた一行は意外な顔。
 鹿が頭をさげてせんべいを催促することや(徳見:なぜか、角を切っていない雄鹿が近寄ってきて、大サービスのおじぎをする。角をよけるのが大変。恐かった!)、鹿せんべいの帯封の紙も食べること、子鹿は警戒心が強くて、人に近づかないことなど、「鹿分科会」でいろいろ学ぶ。最後に、本多さんが、「青い芝」の名の由来や、「施設」の問題、「障害者が生きること」などについて語る。
 こうして、「全障連大会」は終わり、徳見の短い夏休みも終わった。



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