「障害」を理由に解雇されて(16

 「障害を理由に解雇されて」というタイトルで、連載してきましたが、肝心の「解雇問題」に至らないうちに、思いがけず長くなってしまいました。
 横リハでの事故のため「車椅子の障害者」となり、「車椅子での職場復帰」を求めての裁判と生活については、いつか機会があったら、報告できれば幸いですが、最後に、簡単に、その顛末を書いてみたいと思います。 

自主出勤闘争
 横リハでの事故で車椅子になった徳見は、3年間の休職期限(92・4・25)を前に、「仕事のやり方を工夫すれば、車椅子で仕事ができる」として、職場復帰を要求しましたが、学校保健会(教育委員会学校保健課)は、「能力主義・効率主義」を掲げ、「身体障害者の雇用についての基本方針」にある「自力通勤・自力勤務」を理由にして復職を拒否し、「欠勤扱い」としました。
 その後、何度か当局と交渉しましたが、主張は平行線のままで、進展がみられず、当局への抗議の意思表示と、「介助体制があれば出勤・勤務ができる」ことを示すために、教育委員会学校保健課に「自主出勤」をしました(94・1~95・4のうち166日間)
 あくまで原職復帰を求める徳見に対して、労働組合は、「障害者の復職」については及び腰で、「条件交渉」しか考えておらず、当局との交渉も「立ち会い」程度で、積極的支援には至りませんでした。そして、この「自主出勤闘争」は、組合が徳見の「闘い」から完全に手を引く結果となりました。
 こうして、「組合から見離された」徳見は、95年1月19日、解雇されたのでした。

「解雇・抗議集会」とハンスト
 95年1月17日、「阪神淡路大震災」で、神戸を中心に甚大な被害をうけましたが、徳見が解雇されたのは、その2日後のことでした。
 の夜、解雇に抗議する集会がもたれました。そして、この日から、抗議の意思表示として、ハンスト(ハンガーストライキ)に入り、翌日から、「自主出勤」は「ハンスト自主出勤」となりました。
 ハンストは23日めに「ドクターストップ」で終了しましたが、ハンストの後遺症は、その後長く、徳見の身体を苦しめることになりました。
 「断食中はミネラルウォーターを一日2リットル以上飲むこと」という「漢方医」の指導でしたが、震災のため、首都圏のミネラルウォーターが、すべて店頭から消え、徳見は自家製のミネラルウォーターで23日間のハンストを続行したのでした。
 その「抗議集会」での加藤彰彦先生(当時・横浜市大助教授)の発言を掲載いたします。

 
徳見さんは二八年前に歯科衛生士として就職されたということですが、そのころぼくは、横浜の小学校の教師をしていました。小さな田舎町の小学校の教師で、たくさんの子どもたちと一緒に学び、遊んでいました。
 そこに徳見さんが歯科衛生士としてお見えになったのです。もう何年も前のことですが、その場面を何度も思い出します。徳見さんもよく覚えていただいたので、いろんな機会にそのころの様子が蘇ってきます。
 徳見さんは、ものすごく熱心な方でした。そして、とても明るくて、子どもたちの特徴というか気持ちをすぐとらえてしまうのです。子どもたちが夢中になって、口をあけて、見てもらって、注意を受けたりするわけですが、子どもたちって、とても正直なものですから、本当に自分たちのことを分かってくれる人、受け止めてくれる人、というのを瞬時に見抜くのです。
 そういう意味で、徳見さんが子どもたちに受け入れられている、ということ、そして、さっきの話では「一日に九〇〇人くらいみていた」というので、ちょっとビックリしていますが、そういう中で、たぶん、自分の天職という感じで仕事をされていたのだろうな、というふうに、ずっとぼくの記憶にあったのです。
 そのときの気持ちが鮮明に残っています。ぼくもかなり自由に子どもたちとつきあっていましたから(格好よくいえば「教育実践」をしていたわけですが)、子どもたちとつきあっていくということは、人間のむしろ一番本質的なもの――自分自身を飾って言っているのではなくて、自分のありのままをぶつけていくのでなければ、子どもたちとつきあえない、そういう意味の生き方を、ぼくもしたいな、とずっと思い続けているのです。それから長い間、徳見さんとはお会いしていなかったのでした。
社会臨床学会……
 何年か前に(一九九三・四・二五)、福祉とか心理の専門家の人たちが、新しい学会をつくることになり、「日本社会臨床学会」を設立しました。
 それまで心理臨床をやっている人たちの集まりである「日本臨床心理学会」の中で、「《臨床心理士》という国家資格を認めよう」という動きがあって、それに対して、「国家から資格をもらうのではなくて、むしろ相談を受ける当事者から認めてもらうほうが大事だ」として、国家資格に反対をとなえて、そこから脱退した人たちを中心に、新しい学会をつくる動きにななっていったのでした。
 臨床心理というのは、福祉や心理学の専門家の方たちが中心ですから、対象者の方たちからみれば「する側」になるわけです。「何かの相談をする」とか、「心理判定をする」とか……。そのときに、基本的なモノの見方というのは、「される側の人たちの立場に立つ」あるいは「される側の人たちの視点になって、自分たちの仕事をもう一度点検する」ということを、自分たちに課していたわけです。
 しかし、それをやったにしても、たくさんの問題がありました。「当事者の方たちの思いには近づくことはできない」という考えもあったのですが、しかし悪戦苦闘しながら、そういう方向で仕事をしようという人たちが中心になって、この新しい「社会臨床学会」をつくったのです。
 その学会は、同時に「自分たちもいつ障害を持つか分からない。病気になるかもしれない。さまざまな悩みを持つかも分からない。したがって、当事者の方たちと一緒につくろう」と考え、その学会には、当事者の方たちも当然参加する、という集まりだったのです。
 第一回の大会を東京で開きました。その会場に徳見さんが車イスいらしていたのです。そして発言をされました。切々と訴えているお話をききながら(ぼくは、そのときパネラーだったのですが)、あのときの徳見さんとすぐには結びつかなかったのです。しかし話を聞いているうちに、記憶が、それまで会わなかった空間が、どんどん狭まってきて、あのときの徳見さんだったのです。
 そして、その話の内容は、ぼくが会わなかった間にいろんなことがたくさんあって、一生懸命仕事をしていく中で、職業病になって、そして、職場の中に戻りたいと思ったところが、事故にあって、その事故も、自分から招いた事故ではなくて、リハセンターの不注意から起こった事故にもかかわらず、職を追われていくという、そういう状況だということが分かりました。
学校現場に戻ってほしい…
 そのころ、ぼくは、横浜市立大学に来ていましたので、大学の中で、その社会臨床の勉強会をしたい、ということで、学生たちと一緒に「横浜社会臨床研究会」というのを始めていました。その中のメンバーに徳見さんにもなっていただきまして、ずっと通ってきていただいています。
 今、障害をもった方たちが、社会の中で一緒に生活する、ということからどんどん引き離されて、別のところに、見えないところに連れていかれる、ということが依然としてあると思います。特に徳見さんが小学校の中で、歯科衛生士としてやっているころのことが、鮮明に記憶に残っているだけに、徳見さんという人に、ぜひ歯科衛生士として学校現場にいてほしいと思っています。
 今度、徳見さんが行ったときには、どんな状況になるかというと、徳見さんが車イスで、学校に来てくれるわけです。そして、歯科衛生士として顔を見せているわけです。そして子どもたちが徳見さんと出会います。あの元気だった徳見さんとはちがうけれど、きっと同じ心で、子どもたちと接してもらえることは、はっきり分かります。
 そして子どもたちが徳見さんの身体にあわせて、立ったり座ったりしながら、一生懸命歯を見せるでしょう。そして、きっといろんなことを聞くでしょう。「どうしてこうなったの?」「毎日の生活、どうしてるの?」と。それにまた徳見さんが答えていく……。
 これが国際障害者年のときに、世界中の人たちが、そして日本の多くの人たちが求めていたノーマライゼーションの具体的な姿ですし、教育の本当の姿なのではないか、と思うのです。
 ところが、これを拒否したのが教育委員会です。つまり、「徳見さんが子どもたちと出会って、新しい関係を積み上げていくだろう」ということが、十分予想されるにもかかわらず、それを拒否しながら、もう一方で「いじめは大変だ。いじめ一一〇番をつくりましょう。差別はしません」と、教育委員会は言っているのです。
 しかし、徳見さんを職場と切り離すこと自体が、職場を奪うこと自体が、いじめそのものではないかと思うのです。そのようなことを現実に行なっていながら、言葉の上だけで、「いじめのない学校づくりをする」というのは、まったく自己矛盾だと思うのです。そういう意味から、ぼくは、徳見さんに、どうしても現場に帰ってきてほしい、と思っていますし、そのことを、もっともっと多くの方たちに理解してもらうようにしたいと思うのです。
震災と障害者……
 つい二日前に、神戸で大きな地震がありました。多くの方が犠牲になりまして、まだ今も立ち直れず、回復出来ないで苦しんでいる方がたくさんいます。そこでも同じように障害をもってしまった人たちが、たくさんいると思います。
 今度のことを考えますと、関東大震災のとき――一九二三年、大正一二年九月一日の関東大震災のときに、約一〇万人の方が犠牲になりましたが、あのときに、今まで元気だった方で障害を負った方が 一六五〇〇人いたという記録があります。
 地震によって障害を負った方たちがこれだけいました。これは「障害というのはいつどこで起こるか分からない」ということだと思うのですが、その時、大正期の日本政府は、この方たちの職業斡旋をしようということで、同潤会という財団法人と、啓成社という会社をつくり、職業のリハビリテーションをはじめています。そして、数は少ないのですが、約一〇〇〇名の方たちが、職業訓練を受けて、職場についています。そういうことが実際におこなわれた、という歴史が、事実としてありました。
 その当時も「障害というのは、いつ、どこで、どうして起こるか分からない。誰もが年寄りになるのと同じような意味で、誰にでも起こりうる。そのときに、その人に働く意欲があれば、それを保証しようではないか」という話し合いがされているのです。
 ですから、今回の神戸のことを考えていくと、ぼくは、これは障害だけの問題ではありませんが、誰もがさまざまな生活の上で、障害を負う可能性があるわけですから、生活の上でのアクシデントがおこったときに、これを互いに支えあって行かなければならないと思っています。
 国際障害者年の中では、もっと鮮明にこのことは明らかになってきていると思いますが、先ほどのアピールの中でも、いくつかの団体の方からもありましたが、働こうという意欲があって、しかも働けるのであればサポートする人をつけるなり、補助的な器具を使うなり、というようにして、十分やることができるということであれば、当然やってほしいし、ほかにもそう望んでいる人は多いのだろうと思うのです。
 徳見さんの場合も、職業病やリハビリ中の事故で障害を負ったわけですが、介助者や仕事のやり方の工夫さえあれば、仕事は続けられるのですから、ぜひ元の職場に戻ってほしいと願っています。


燃えつきて、なお……
 この集会の参加者を中心に、「障害者になったことを理由にした解雇は、徳見さんだけの問題ではない」として、「障害者の労働・差別を考える会(障労)」(代表・加藤彰彦)が結成されました。
 その後、「障労」が中心となって、何回か解雇撤回を求めて交渉をもったものの、「(徳見の)身体の状態では仕事はできない」「時間をかけて、十分に検討した」「すでに結論は出ている」というだけでした。
 こうして、「障労」の力及ばず、当局の姿勢を変えさせることはできず、残された手段は裁判しかないと、何人かの「労働問題にくわしい」弁護士に相談しましたが、「自力通勤・自力勤務できない障害者」の「解雇撤回裁判」は難しいとして、引き受けてもらえませんでした。
 その後、徳見の解雇を、「働けない障害者の解雇問題」ではなく、「労働者の解雇」および「障害者差別の問題」として提起することこそ必要であるという新美隆弁護士にめぐりあい、解雇5年目にして、やっと裁判を提訴することができました。
 裁判は、一・二審とも「徳見は健常者と同じように歯科指導ができない」として敗訴、最高裁で上告棄却(リハ裁判同様「門前払い」)となって、解雇後ちょうど10年目に終了しました。
 高裁判決は、「(徳見の主張は)社会通念上使用者の障害者への配慮義務を超えた人的負担ないし経済的負担を求めるもの」などと、時代錯誤的な理由をも追加しており、いくつかの新聞に「小さく」報道され、新聞紙上あるいはネット上などで、賛否両論の議論が巻き起こりました……というほどではありませんが、若干の反響がありました。

 結局、裁判という制度の枠の中では、徳見の願っていた「職場復帰」はかなえられませんでした。

 仕事をしつつ、「共同保育所」を創りながらの子育て、そして仕事の中で障害者となり、それまでの自らの生き方をとらえ返しながら、2つの裁判を、最高裁まで「闘い」ました。その過程で、多くの方々と知り会い、物心両面で助けていただきました。
 まず初めに「子問研」がありました。
 そして、社臨(社会臨床学会)の総会や「脳死・臓器移植」反対行動、「全障連大会」などで、北海道から沖縄まで、「定年後の田舎探し」を兼ねて「旅」をしたり……。
 「闘い」が終わり、わずかに残された自然豊かな里山の谷戸(やと)の片隅で、かつて追及してきた「能力主義」「優生思想」が、ますます強まりつつある状況に、熾火(おきび)のようにふつふつとたぎるものを裡に秘めながら、しだいに麻痺が進行する指でチターを弾いたり、窓辺を訪れる山鳩と「交流」したり、麻痺のある手をかばいながら陶芸作品をつくったり、体調維持のために、プール通いや医者通い……「障害者って、けっこう忙しいなぁ」などとボヤキながら、のんびり?余生を送っています。
 「仕事人間」のときに夢見た「定年後の田舎暮らし」を、今、しているのではないか、などと思いながら……。
 (おわり)