「障害」を理由に解雇されて(11)

前回、冒頭部分を引用した、県立七沢リハセンター労組の田中晃氏は、「福祉現場の個人情報、『とられる側』の論理」の「おわりに」に、次のように書いています。

当事者の「自己決定権の保障」すら確立していない現実の中で、多くの課題が横たわっている。(略)指導や専門性のもとに正当化される上下関係。さらに、扱う情報のほとんどがプライバシーのため、プライバシー情報を扱っているという意識すら薄れ、関係者や関係機関とのザックバランな意見交換がむしろ良しとされる職員意識の土壌。事例報告・事例研究など個人情報そのものを発表する際のルール確立の問題。根本的で多様な問題が放置されているのだ。
 私は、福祉労働者総体がこうした現状を変革していく力を持っているとは思わない。「権利擁護」の視点を日本の福祉は置き去りにしてきたのだ。(略)当事者自身が「処遇される側」として、自己情報コントロール権、福祉行政への情報公開制度の活用という権利を武器に、これまで「指導・専門性」という権威の中で行われてきた正体をあばき、福祉政策と予算執行の主導権をにぎっていくことが、日本の福祉の質を転換していく唯一の道だと思う。私達福祉労働者も、やはり国家によって評価され、判定され、振り分けられる側であることを自覚しよう。(季刊『福祉労働』No5091春)

すでに30年も前の文章ですが、田中氏の言う「根本的で多様な問題」は、解決されているのでしょうか? 「『指導・専門性』という権威の中で行われてきた正体」は、あばかれたのでしょうか?
 横リハによって「奪われた」徳見の個人情報は、「情報公開制度の活用」では、「奪い返す」ことが不可能だったのですが、裁判という制度の中で、かろうじて可能となりました。しかし、差別的な裁判という制度の中では、「『指導・専門性』の正体をあばく」ことは、十分にはできませんでした。

 判定書
 前回書いたように、主治医・大成の「入院中からヒステリー的な感情失禁があり」などと書かれた紹介状を持って、90年9月5日、横リハでの3か月間の「通院によるリハビリ(理学療法・作業療法)」がはじまり、およそ2か月後に「入所判定(1030日)」がおこなわれました。
 これは、「福祉事務所の依頼によって、横リハ(身体障害者更生施設)への入所が適当かどうか判定するもの」であり、伊藤医師による医学判定と心理士による心理判定が実施されました。
 この文書は、裁判提訴前に、市に対して「情報公開制度」に基づき、「本人情報の開示請求」をしましたが(92・6)、判定書は「一部開示処分(肝心の部分は墨塗り)」となりました。その理由は、次のようなものでした。

専門的かつ客観的立場から各種診断、行動観察、面接等によって本人の心身の状態・可能性を把握する行為(評価)を通して、現行各種福祉施策が適用される基準に該当するかどうかの行政上の必要から行われる証明行為(判定)について作成したものであり、本人の福祉援護上の必要と思われるプラス面、マイナス面を含む心身の状態や可能性に関する評価が含まれている。したがって、判定における評価内容を本人に開示することは、無用な誤解を与え、時に相互の信頼関係を損なうおそれがあり、本人に対する適正な指導を困難にし、本人の向上心、自立自助心を阻害するおそれがある。

 その「処分」に対する「不服申し立て」をしている最中に、裁判所に請求していた「文書提出命令」が出されて、9411月に、提出されました。
 判定書は、1ページめが「総合判定書」で、医学判定・心理判定1~3と、5ページありますが、説明の都合上、ここでは、総合判定書を最後に掲載いたします。

 医学判定(医師・伊藤利之)
 伊藤医師は、「判定意見」として、次のように書いています。

職場復帰を目的に、当面、筋力強化訓練、歩行訓練を行いながら、障害の心理的受容をはかる必要がある。
 更生施設における通所訓練が適当と思われる。


ここでは、明確に「職場復帰を目的に」と述べていますが、同時に「障害の心理的受容をはかる」とも書いています。なぜここに「障害の受容」が出てくるのでしょうか

 横リハは裁判で次のように述べて、「障害の受容」を目標として設定したことの正当性を主張しています。

入所者は障害の受容により、自己の現在有する能力を見極め、価値観の転換あるいは拡大を図って自己の人生あるいは生活の再構築をすることによって、初めて自立が可能となるものである。障害の受容はリハビリの目的そのものとすらいえる。

 これによると、横リハの入所者は、障害を受容していないことが前提とされており、伊藤がここに「障害の受容」と書いたのも、横リハの入所者の誰にでも書くことなのかもしれません。
 しかし、徳見は、自分の障害の状態(杖と長下肢装具)でどのようにしたら歯科衛生士としての仕事ができるか、そのための訓練と工夫をリハセンターのリハビリに期待したのでした。したがって、障害を受容した上で、横リハに入所を申し込んだのですから(もちろん、その受容の程度については、横リハにも言い分はあるでしょうが)、伊藤の言う「職場復帰を目的に、障害の心理的受容をはかる」というのは、徳見にとっては、「余計なお世話」でしかないのでした。

心理判定 
 「心理判定書」は、1~2ページに心理テストの結果と「所見」を記載した上で、3ページ目の〈判定意見〉は次のように述べています。

・障害に対しての認識はある程度持っているものの、歯科衛生師としてのプライドや今まで自分の積み重ねてきたものに対するこだわりがあり、機能訓練・職場復帰に対して の思いが強い。しかし、休職期間があと1年半あるということもあって、切迫感は無く、現実的な感覚は乏しいように思われる。
・今まで人一倍努力をして生活してきただけに、向上心は強く認められるが、無理な課題設定を自分に課してしまいやすい所がある。
・本人自身が納得するためにも、機能訓練や社会技術訓練など、可能性のあることを試み、実際に体験した上で、みきわめをつけさせていくことが必要で、将来的な生活設計 も含めて、適宜、助言を与え、修正・確認していく体制を整えていくことが望まれる。
・人に対しての防衛は強いが、障害を受けたことで、周囲を見、自分を見る目が出てきているため、話し合いを深め、信頼関係を作りながら、目標を明確化してくことが望ま しい。

「障害に対しての認識はある程度持っている」「障害を受けたことで、周囲を見、自分を見る目が出てきている」という記述からみると、この心理判定員は、徳見が「(ある程度)障害を受容している」と評価していることは確かのようです。
 しかし、「機能訓練・職場復帰に対しての思い」を否定的に評価し、「(職場復帰についての)現実的な感覚は乏しい」として、「(職場復帰は)無理な課題設定なので、訓練の中でそれを認めさせ、納得させた上で、別の目標を持たせる」などと、全体の文脈では、「職場復帰は不可能なのに……」という前提で書かれているように思われます。

総合判定書
 こうして、「総合判定書」は、次のように結論しています。

将来的には職場復帰も含めて職種転換の可能性を探り、可能な場合には身体障害者授産施設の利用も考慮されることが望ましい。

すなわち「職場復帰をあきらめさせて、横リハ内の授産所で、他の仕事の訓練をさせよう」というのです。こうして、伊藤医師が書いた「職場復帰を目的に……」は完全に消えてしまい、「障害の心理的受容をはかる」ことが目的とされたのでした。

判定書には、「プラス面、マイナス面を含む評価が含まれている」そうですから、総合判定書の評価を、次のよう整理してみましょう。

   ○プラス評価
知的には標準レベルで、一般的な知識・常識を備え、論理的思考は良好
移動は装具利用で可能。自動車運転(非改造)により活動的な生活を過ごす
ADL(日常生活動作)はすべて自立
性格的には明るく落ちついた対応をする

マイナス評価
主観的に事柄を判断し、自己主張するタイプ
排泄面で不自由(オムツ使用)
神経質で警戒心が強く、他人の評価を気にして敏感に反応する
障害認識はやや未熟で、復職へのこだわりがあり、現実的感覚に乏しい

これを見る限り、なぜ「復職が不可能」なのか、理由がよく分かりません。

 
伊藤医師は、裁判で次のように証言しています。

一般の歯科衛生士の仕事は我々にもよく理解できますけれども、彼女が具体的にどういうような仕事をしているか、ということについて、私はおおまかなことしか理解しておりません。おそらく、うちのソーシャルワーカーの人は、この判定書を作るときに、そういうことを聞いたと思います。

徳見の仕事の内容を「おおまかにしか理解していない」という伊藤が、「職場復帰を目的に……」と書き、総合判定書を書いた「うちのソーシャルワーカーの人」は、徳見の仕事の具体的な内容を聞いた上で、「復職へのこだわりがあり……」などと書いたのでしょうか。
 判定書にも、徳見が復職を強く望んでいることが書かれており、それにも関わらず、「復職は不可能」として、それを否定し、その願望をあきらめさせようとする横リハの「専門性」とは、一体何なのでしょうか?                             (つづく)