「障害」を理由に解雇されて(9)

 前号では、横リハ(横浜市総合リハビリテーションセンター)が、徳見に、「ヒステリーのウソつき女」というレッテルをはって、裁判に勝利したことを書きました。
 自らの優生思想・能力主義、そして女性差別意識に気づくことすらないであろう裁判官の差別性はともかくとして、「障害者のため」を標榜する「リハビリテーションセンター」が、なぜ、裁判に勝つためとはいえ、「ヒステリー」などという差別的な言葉を臆面もなく使って、「障害者」徳見を貶(おとし)めたのか……それは、横リハが、障害者を選別して管理し、社会から排除するためのものであって、障害者の側に立つ存在ではないことを如実に示しています。
 横リハが、裁判に勝つために、なりふりかまわず「徳見・転換ヒステリー論」を展開したのは、徳見の頸の手術をした主治医との軋轢(あつれき)や、「職業病認定と職場改善の闘い」に手を焼いた横浜市教育委員会学校保健課の官僚たちとの確執(かくしつ)がその底流にあったからなのでした。

(なお、以下の文章では、元号表記を西暦に直し、下2ケタのみ表示します)。

 頸椎手術―主治医との軋轢
 徳見は横浜市大病院での検査のあと、横浜南共済病院で頸椎(首の脊髄)の手術を受けました。
 手術をした大成医師は、横浜市大医学部を卒業し、「頸椎の専門医」として、多くの手術を手掛けていました。徳見が入院中、「神奈川青い芝の会(脳性麻痺者の会)」のメンバーも何人か、大成に頸の手術を受けて、入院していました(脳性麻痺は、身体の不随意運動によって、頸椎の損傷が多いのです)。

左欄の「御紹介」は、横リハに「入所」するにあたって、大成が書いた「紹介状」です。徳見は、こんなことが書かれているとも知らずに、これを持って、横リハへ行ったのでした。
 この中で、大成は、「入院中からヒステリー的な感情失禁があり」とか、「当院における治療・リハビリにおいても多々ヒステリックな面がみうけられ」などと、きわめて「感情的」な文章を書いています。裁判で横リハが「徳見・転換ヒステリー論」の根拠としたのが、この大成の「徳見観」なのでした。
 紹介状は、まず「頸椎症性脊髄症」の手術をしたあと、次のように、手術後も、症状が改善しなかったと述べています。

上肢症状は改善傾向を示しましたが、術後2か月より左下肢筋力低下を訴え、その後リハビリを継続。89日~8912日まで、伊東国立温泉病院で加療したが、症状改善せず、8912月4日再度当院入院し、23日軽度改善にて退院、以後通院しているpat(患者)です。入院中からHysterie(ヒステリー)的な感情失禁があり、病態も両下肢痙性麻痺はたしかにありますが、それだけでは説明できない+α(プラス・アルファ)を有しています。

つまり、器質的な障害(痙性麻痺)はあるが、症状が改善しない理由は、「+α」すなわちヒステリーのためだと言っているのです。前回引用した山本真理さんの言葉──治らないのは患者が悪い、というわけです。
 入院中、大成が「手術は成功したが、症状は改善されなかった」と述べたこともあり、不信感をつのらせていきました。
 また、リハビリ担当のPTによるセクハラまがいの行為があり、それに対して大成に抗議したところ、「ヒステリーではないか」として、神経科へ回されています(神経科とは、精神科と同義です)。
 診察した神経科の医師は「リハビリの先生に対するこだわりが強くみられ、感情的になり易いのですが、他の面ではあまり問題ないようです」と回答しています。
 これについて、裁判で提出された「カルテ(医師の記録)および「看護記録(看護師の記録)」には、次のような記載があります。
  (大成カルテ1・19) 「人権じゅうりん」と怒っている。本人、感情的。

 神経科に回されたことについて、抗議したものですが、その日の「看護記録」に、看護師が次のように書いています。

     (看護記録 1・19 1000) 回診時、Dr大成に対して「納得いかない、人権侵害だ」と半ばなき声で少しふてくされている。
             1500) 回診時のことを聞いてみると「人権侵害」と言ったのは、神経科の件の様子。

  また、2月5日には、次のような記載があります。

(大成カルテ2・5) 本日感情失禁
(看護記録2・5 1000) 回診時、色々と不満訴え、涙みられる。

 これは、大成に対して「涙を浮かべながら、いろいろ不満を訴え」たことについて、大成は「感情失禁」としかとらえていないことを示しています。
 こうして、徳見は、大成に様々な不満や疑問、そして抗議をしていました。患者が医師への疑問や不満・批判をもったとしても、それを直接医師にぶつけることはできず、ほとんどは「泣き寝入り」なのです。患者から(しかも「女」から!)そのような「不満や抗議・批判」をされることなど、おそらく大成(に限らず、専門家である医師)の理解を超えることだったのでしょう。
 したがって、それに対して、まともに応えることはなく、そのような時に、(男が女に)貼るレッテルが「ヒステリー」であり、「医学的」には「Hysterie的な感情失禁」となるのでした。

学校保健課の来訪
 大成の「紹介状」には、そのあと、次のように記載されています。

本患者は歯科衛生士で、市に雇用されていました(小学校)が、81年より上肢症状にて公務災害に認定されており、また88年公務災害の打ち切り直後に、交通事故(オートバイにぶつかった?)にて再度病院通いを続けているなど、不審な点があり、当院における治療・リハビリにおいても多々Hysteric(ヒステリック)な面がみうけられました。

 医者が患者を他の病院(大成は横リハを「普通のリハビリ病院」と思っていたようでした)に紹介する文章に、このような患者の「個人情報」を、しかも、ほとんど「悪意をもって」書く大成の、医者としての見識が問われるところです。
 徳見の職場は、横浜市教育委員会の外郭団体・横浜市学校保健会で、その直接の上司は、教育委員会学校保健課の係長です。89・1・20に頸の手術を受け、90・6・23まで入院しており、係長が「面談」に来たのは、退院の半年ほど前でしたが、もちろん、徳見の病状を心配して、見舞いにきたわけではありません。
 90・1・8の大成のカルテには、「学校保健会の人と面談」とあり、次のように記載されています。

   1、  汐田(うしおだ)病院で「公務災害」 8188
   当時から休みがちであり、ヒステリックであったと。
2.公務切れてから、病院通いを再び。出勤途中オートバイにぶつかった(本人の申告のみで、証人いない)。

 先に述べたPT問題で大成が「徳見のヒステリックな抗議」に手を焼いていたころ、学校保健課の係長と「面談」して、徳見の職場での話を聞き、それを(大成の理解した範囲で)書いたのでしょう。
 この連載の第3回にも書いたように、徳見のケイワンは81年に職業病として労災認定がされ、88年ごろまで、職場が認めた「定期的通院職免」によって、医者に通いながら仕事をしていた時期でした。したがって「当時から休みがち」というのは、まさに誹謗中傷の類であり、また、「勤務体制の見なおし、職業病治療体制の確保、不安定な身分の改善などの運動を、職場で、ほとんど一人で」当局と闘ってきたのですが、徳見の抗議(闘い)を、係長は、「ヒステリック」と表現したのでしょう。
 また、2の「出勤途中オートバイにぶつかった(事実は、徳見がバイクに乗っていて、転倒したのですが)」云々は、(本人の申告のみで、証人いない)などと、いかにも悪意に満ちた表現を係長がしているように、当局がいかに徳見を排除したがっていたかを象徴しています。横リハが、「転換ヒステリーで、疾病利得をもとめて、わざと事故を起こした」などという主張の根拠に利用されましたが、これも事実無根であり、誹謗中傷のたぐいであることを、裁判でも明らかにしました。
 大成の記録から推測すれば、係長も大成も、徳見に「ヒステリックに」抗議され、追及されてきたことをめぐって、お互い、徳見の「個人情報」の守秘義務もなんのその、「被害者どうし」で話が盛り上がったことでしょう。
 いずれにせよ、この、係長との「面談」によって、大成の「徳見・ヒステリー観」は、強化され、確信に至ったと思われます。
 なお、92・2・10の大成のカルテに「中山氏来院」とあり、休職期限切れ(92・4・25)を間近にして、学校保健課の係長が「面談」に来ています。内容についての記載はありませんが、徳見の職場復帰をめぐって「情報収集」にきたのは明らかです。

転倒事故後の大成の対応
 転倒事故(91・2・26)後、徳見は、横リハの医師の診察を受けることなく帰宅し、大成の診察を受けました。裁判で提出した「陳述書」に、徳見は次のように書いています。

あれほど転倒したり、首を回したりする運動も注意しながら、とにかくこれ以上頚にダメージを与えてはいけないと思っていた私の状態、つまり頚の脊髄のことを、(横リハの)PTも医者も、何も分かっていないと思いました。リハセンターは「本人の希望を尊重し、南共済H.Pの大成Drの受診とした」などと書いていますが、なぜ私が、苦しい思いをして、人を頼んで、わざわざ遠くの南共済病院まで通院したのかを、まったく分かろうともしていません。
 次の日から吐き気が出てきました。起きてもいられません。その次の日も起きていられません。たずねてきた友人に、「脊髄が心配だから、大成先生のところへ連れて行ってほしい」と頼んで、南共済病院へ行きました。
 1回目の診察は転倒して2日後でした。今まで「絶対に転倒してはいけない」と、大成医師に言われていました(脊髄の悪い障害者はみんな「転倒しないように」と言われます)。「転倒したくなかったけれど、転倒しちゃって、こういう状態です」と言ったら、1回目のときは、きちんと治療してくれました。「とにかく起きていてはだめだ。首を横にして、トイレと食べるとき以外は、寝てなければいけない。1週間それをやり続けなさい」という指示があって(ムチ打ちの処置ですが、私も当初はムチ打ちだと思っていました)、1週間後に再び行きました。
 行くと、医者の対応ががらっと変わっていて、リハセンターからの速達を見せながら(中身は見ませんでした)「リハセンターから心配して手紙が来ている。もうリハビリに行きなさい。これ以上やりようがないから」と言います。
 3回目、4回目、行くたびに、医者の対応が変わっていきました。その間、私の知人の医師が、(横リハの)伊藤医師に「徳見が青い芝と手を切るように説得をしろ」と言われたり、南共済病院では、入院中の「青い芝の会」の患者さんに対して、大成医師から「徳見に協力するなら、青い芝の人たちの頚の手術をやってあげないぞ」という形で、青い芝の方たちにおどしがありました。
 私は大成先生に、どんないろんな動きがあろうとも、患者と医師という関係で患者を診てほしい、治療してほしいということを申しました。また、外来でかかっていた青い芝の事務局長さんの話によると、「自分(大成)とリハセンターは上下関係があるから、(徳見と青い芝が関わることは)困るんだ」という意味のことを言ったそうです。

この「陳述書」にある「リハセンターからの速達」とは、横リハにおける主治医(高塚Dr)が、「紹介患者連絡書」と題して「徳見は故意に倒れた」という事故の報告をして、「先生の診断・今後の訓練について、御指導頂きたく御願い……」という「ごあいさつ」程度の文書なのですが、封筒の差出人の欄「横浜市総合リハビリテーションセンター」の下に「伊藤利之」のサインがあるのです。これは、「上下関係にある」伊藤から、大成への「無言の圧力」なのでしょう。
 こうして、事故から3か月あまりたったころの大成のカルテ(91・5・30)には「信頼関係が失われている」と書いています。およそ医師がカルテに書くような内容ではありませんが、徳見からの批判を受けて、大成にとっては、書かざるをえない心境だったのでしょう。

 こうして、徳見は大成と決別せざるをえなくなり、以前かかっていた汐田(うしおだ)病院へ行くのですが、その医師も「横浜市大卒で、大成の友人」であることが分かり、伝手(つて)をたどって、市大系列とは無縁の、遠くの病院に通わざるを得なくなったのでした。

左欄の「御連絡」は、その医師が「手術前後の評価・所見等」について大成に問い合わせた文書の回答ですが、前記リハセンターへの紹介状と同じような内容の後に、次のように記載されています。

当院退院後、横浜市リハビリテーションセンター受診を希望したため、紹介にて90年8月23日より、通院していましたが、91年2月、通院にてのリハビリテーションの終了を宣告されたのち、2月26日に当センター内で転倒(故意?)し、その事故に対する処置が適切でなかったとの理由で、当センター・横浜市に対し質問状を提出し、未だ決着がついていません。神経科的な治療対象にもならず、とにかく問題の多いpat(患者)です。……(処方した薬品名)……処置に困っております。

  大成は面識もない医師に、医療とは無関係な、徳見への誹謗中傷を書き、さらに「(ヒステリーとして神経科へ回したのに)神経科的な治療対象にもならず、(「青い芝」と語らって、市や横リハにたてつくような)とにかく問題の多い患者で、処置に困っている」などとグチを言うのです。
 受け取った医師は、これを一笑に付したばかりか、前号で書いたように、裁判において「意見書」を書いてくれました。
 陳述書にも書いたように、横リハのPTも医者も、頸椎の悪い徳見の身体状況を理解することもなく「リハビリ」をしてきたので、事故後の医療は、「頸椎の専門医」である大成に頼らざるをえなかったのでした。そのような患者の医療を、横リハとの「上下関係」や、自らを批判する患者を「ヒステリー」ときめつけ、「とにかく問題が多い患者」として切り捨て、さらに「青い芝」にまでおどしをかけるという大成の、医師としての「モラル」こそが問われるべきだろうと思います。  (つづく)