「障害」を理由に解雇されて(8)
 前号では、10年近くに及ぶ「横浜市総合リハビリテーションセンター(横リハ)」での事故の責任を追及する裁判(リハ裁判)が、一・二審で敗訴、最高裁で「門前払い」となったことを述べました。
 提訴以来27年、そして敗訴確定以来18年経った今、あらためて「横リハの専門家は、障害者・徳見に何をしたか」を検討したいと思います。

横リハの事故報告書
 一審判決では「本件事故の事実関係は、宮崎及び秋田理学療法士作成の報告書のとおりであり……」と述べていますので、「宮崎及び秋田作成の報告書(以下「宮崎報告書」)」を左記に掲載します。
 この報告書は、「平行棒で訓練していた患者がロールを落とし、徳見はゆっくりと転がるロールを見ていながら、ぶつかって前に倒れたが、その後、定例の訓練を良好に行なった」というものです。
 この報告書作成の経緯について、裁判で、宮崎は次のように述べています。
 「3月4日に、伊藤利之医師から報告書を出すように言われたので、宮崎がワープロで打って、所属長・秋田の確認をもらい、当日伊藤に持って行った」
 伊藤医師は、横リハの構想段階(
81年)から設立に深く関与しており、徳見の入所時(91)には、民生局(今の福祉局)の部長および更生相談所の所長であり、横リハの医師として「入所判定」をしました。裁判終了後には、センター長になりました。

                      報告書

主治医 高塚 博殿

平成3年3月4日  報告者 宮崎 貴朗

秋田 裕

徳見康子殿について御報告致します。

1.訓練経過(省略)

2.平成3年2月26日の理学療法訓練について

 同日の訓練内容は、定例の訓練内容と同一であり、①階段昇降、②平行棒内での立位保持、③傾斜台での立位保持しての足関節底屈筋群の持続的伸長、④屋内廊下での歩行訓練でした。

 接触は、上記②平行棒内での立位保持の訓練が終了し、③傾斜台での立位保持しての足関節底屈筋群の持続的伸長訓練を施行する為、運動療法室内を両側ロフストランド杖、長下肢装具使用して歩行中発生しました。

 同日午前9時30分頃、徳見康子殿以外の患者が、平行棒上の約30cm径の訓練用ロールの上に上肢を乗せて実施していた上肢の関節可動域訓練を終了し、椅子から立ち上がる際、誤って、高さ82cmの平行棒上より、同ロールを床に落としてしまいました。同ロールは、歩行中の徳見康子殿の約3m50cm離れた右側方から、ゆっくりと本人の方へ近いて行きました。ロールの床に落ちた音にて本人も右側方を向き、ロールを認めておりましたが、ロールは、運動療法室見取り図に示す×印の場所で本人に接触しました。ロールが、右下肢に接触した時は、立位保持しておられましたが、約1秒間の後、前方に両手を接地し、左下肢は、伸展外転位のまま、右膝を接地した後、右大腿外側より床に座り込んでしまいました。その様子は、図1から図5(本稿では省略)に示す様なものでした。その後、本人へ「大丈夫ですか」と問いかけると、「大丈夫です」と返答され、本人は、椅子の座面を使用して立ち上がり、その後、定例の訓練課題を消化しました。この様子は、同人の過去の歩行訓練中に見られていた転倒と同様に、特に危険の認められる様子ではありませんでした。同日の歩行訓練では、比較的に同人にとっては良好なスピードで施行可能であり、訓練終了時に疲労の訴えがあったので、担当指導員へ連絡後、車椅子使用して帰室いたしました。

 なお、発生時、担当理学療法士と他の理学療法士は、同室内にて、他の患者の訓練を行っており、ロールの音により振り向き、事実を目撃しておりました。

 この報告書ついて、裁判で伊藤は次のように証言しています。

 「生活指導員からの転倒事件の報告によると、南共済病院の大成医師(徳見の主治医)の診察を受けたところ、一週間の絶対安静で、電話にも出られないくらいひどい状態だというので、私たちが考えていたような状態ではなかったので、宮崎PTに事件の様子をきちんと書いて、センター長に報告するようにという指示を出した」。
 すでにこの時点で、裁判になった場合も想定しての対応を考えていたのかもしれません。そして、伊藤の意を忖度(そんたく)して!?、秋田が主導して、宮崎と共に作成したものと思われます。
 ところで、横リハは、裁判で、左記の「運動療法室見取図A」を添付して「報告書」を提出しました(以下「リハ報告書」)。内容は「宮崎報告書」とほとんど同じですが、宮崎がいた位置を「入口付近」と具体的に述べています。後述するように、これが、横リハの主張のウソを明確に示しているのですが、それ以外にも、事故に関して横リハの主張のウソや矛盾点などは、裁判で詳しく展開しましたので、興味のある方は、ホームページ「障労」の「裁判資料」などを見ていただくことにして、ここでは、裁判所が「虚偽である」と認定した「森田明弁護士作成の事故報告書」と、「宮崎(あるいは横リハ)のウソ」を、簡単に述べるにとどめたいと思います。

「森田弁護士作成の事故報告書」

一、91年2月26日午前9時、徳見康子(以下「徳見」という)は、横浜市総合リハリテーションセンター2階PT室で訓練を開始した。

 宮崎報告書では「定例の訓練内容と同一であり、①階段、②平行棒、③傾斜台」となっていますが、実際には、「階段」のあと、2台の平行棒は他の患者が使っていたため、宮崎の指示で、先に傾斜台での訓練になりました。傾斜台を使用する場合、見取図の「傾斜台」の位置から見取図Bの平行棒の延長上あたりにPTが運んできて、傾斜台をセットします。他の患者と訓練内容がかち合うことはよくあり、そのときはPTが適宜メニューを変更します。この変更を宮崎は忘れていたのでしょう(その後、平行棒は3台になっていました)


二、階段の昇り降り、傾斜台でのアキレス腱伸ばしをすませた後、平行棒での訓練をするため、平行棒の方向へ向かった。平行棒は2台あり、徳見から向かって左側の平行棒の上にロールが載っていた(見取図B参照)

 リハ報告書では、宮崎は「入口カウンター近くにいた(見取図Aの★)と述べています。これは「他の患者(小栗)が誤ってロールを落とした」と主張しているため、マットで小栗の訓練をしていた事実を認めるわけにいかず、裁判になってから作り上げた虚構であることは、事故直後に書かれた宮崎報告書に、「なお、発生時、担当理学療法士(すなわち、宮崎本人)と他の理学療法士は、同室内にて、他の患者の訓練を行っており……」と述べていることからも、あきらかです。
 また、宮崎は、見取図の平行棒1のの位置で徳見からタイマーを受け取り、のベンチで休憩するように指示したと証言しています。
 この証言に従うと、二人は同時にの位置から出発し、徳見はベンチに向かう途中でロールにぶつかり、宮崎は入り口付近の★の位置まで移動して、「ロールが床に落ちる音により振り向き、事実を目撃して」いたことになります。
 詳しい計算は省略しますが、ロールが床に落ちるまでの時間に、宮崎がから★まで移動するには、時速に換算するとおよそ8km、人が歩く速さの倍ほどになります。宮崎が入口付近にいたとすると、こんなに不自然な行動になるわけです。

三、徳見が指示を仰ぐために平行棒の左側にあるマット上にいた宮崎理学療法士の方に向かおうとしたとき、徳見の見ている前で平行棒上のロールがゆっくり転がり、床に落下して、ドーンという大きな音がした。ロールは徳見の右足外側に前方からぶつかり、止まった。

 宮崎報告書では「訓練していた患者(小栗)が、訓練を終了し、椅子から立ち上がる際、誤ってロールを床に落とした」と述べています。宮崎は、裁判の証言で「訓練が終わったら、ロールは宮崎自身が片付ける」ことを認め、「この時はどうして片付けなかったのか」と追及されると、しどろもどろになって、「(小栗は)自分で片付けられる方だった」「どこに片付けるか、記憶がない」など、日常的に管理している道具のしまい場所をも、答えることができませんでした。
 また、ロールの「落ち方」について、宮崎は「立ち上がるときに多分身体に引っかけたのではないか」といい、伊藤は、「患者の身体にぶつかって、平行棒が動いたのではないか」などと、きわめていいかげんな証言をし、それに対して、裁判長が「立とうとしている患者さんの腰のあたりに、平行棒の片側がぶつかって、その平行棒が動いてしまう……」などと呼応して、長くて重い平行棒(しかも重さ11キロのロールが乗っている)が、そんな程度で動くはずがなく、また、落ちたロールが、90度後ろに転がるはずがない、という「常識」は、通用しないのでした。

四、ぶつかった衝撃で、徳見はバランスを崩し、左足と両手(ロフストランドを装着していた)に力を入れて転倒しないようにふんばったが、約一秒後に後方に転倒した。転倒の際、全身の筋肉が緊張した状態で背中を強打し頚部に衝撃をうけた。

 横リハの伊藤証言では、「背中からうしろに倒れると、必ず頭蓋骨骨折だとか頭蓋内出血によって救急状態になる」と述べています。
 徳見が、転倒事故以来、横浜市大系列の医師からの治療を受けられず、市大とは無関係な病院にかかり、その整形外科医は、「意見書」で、「後方に倒れると、反射的に頚部を前屈して頭部への外傷を阻止しようとすることが一般的で、そのため頭部への外傷は避けられるが、頚部の過屈曲により、鞭打ち症状が引き起こされる可能性が高い」と述べています(杉井意見書)。
 裁判での「被告側の医師の証言」と「第三者的な医師の証言」と、どちらが信憑性があるのか、明らかだと思うのですが、判決では、「杉井意見書」は無視して、伊藤証言をそのまま認めています。
 ちなみに、徳見の娘は、子ども(徳見の孫)が、親の言うことをきかないため、怒って「飛びけり」をして失敗し、あおむけに倒れて背中を強打し、子どもたちに大笑いをされながらも(変な親ですねぇ!)、その後何事もなく?生活しています。

五、転倒直後、宮崎理学療法士が徳見に近づき、仰向けに倒れた徳見を起こそうとして、背中に手を回して引き上げようとしたが、起こせなかった。宮崎氏が「大丈夫ですか」というので、徳見は「大丈夫です(自分で起きられます、の趣旨)」と答えた。

 倒れ方・起き上がり方などについて、横リハは、「五体満足」な職員を使い、写真やビデオなどで、「(徳見のように)ロフストランド杖と長下肢装具でも、前に手をついて倒れることができる」と主張し、森田弁護士は、「徳見の身体の状態では、不可能な倒れ方」であることを、詳細に反論しましたが、この反論も、判決では(虚偽として)無視されました。

六、徳見は右側に身体を横にし、右手のロフストランドをはずし、長下肢装具のロックをはずして左足を曲げ、右足でひざまづくようにしてから、そばにあった椅子の所にずりより、椅子の座面に手をついて起き上がった。

 転倒時にふんばったためか、あるいは転倒の衝撃からか、両足・両腕につったときのような強い痛みがあり、また右足がカクカク小さく痙攣していました。疲労感・倦怠感が強く出て、杖と装具で立つことができそうになく、宮崎に車椅子をもってくるように頼んでもらいました。宮崎はすぐに電話をし、車椅子を持ってきた生活訓練係・井上に車椅子を押してもらい、PT室を出ました。
 宮崎報告書は「その後、定例の訓練課題を消化し……歩行訓練では、比較的に同人にとっては良好なスピードで施行可能」だったと述べており、宮崎のカルテには、「事故後の訓練」で「300mを1226秒で歩いた」というデータが、もっともらしく記載されています。
 このデータは、宮崎がねつ造したものであることを、過去の訓練データなどをもとに、森田弁護士が詳細に論証しましたが、これも判決では(虚偽として)無視されました。

冤罪の構図
「リハ裁判」は、徳見が原告として、横リハのリハビリの在り方や、転倒事故の責任を追及する裁判のはずでしたが、裁判では、あたかも徳見が被告であるかのような判決が出されました。
 「精神病」者集団の山本真理さんは、次のようなメッセージを寄せてくださいました。

 「無知なる障害者の身で、分をわきまえず偉い先生方に逆らうとは不届き者、そこへなおれ、成敗してくれる」という判決ですね。
 誰のための「リハビリ」なのか? 誰のための「リハセンター」なのか? 障害者の分断と選別そして排除の正当化のためのリハセンターとしか思えません。
 今、精神医療の分野でも人格障害という言葉が流行っていて、「うつ病で長く治らないのは人格に問題がある人格障害だ」などといわれます。さらには単に患者を非難するためだけに「お前は人格障害だから治らない、もう来るな」などという医者もいます。治らないことを患者の人格のせいにして開き直るという許しがたい対応です。
いろいろなレッテルは、常にこうした排除と差別合理化に使われてきた歴史があります。そしてそれを、裁判も常に使ってきました。
 赤堀さんに対して、「このような残虐な犯罪は、通常人ではありえない、だから精神障害者の犯行であり、だから赤堀は有罪だ」とし、さらに精神障害者の赤堀には矯正の余地はない、として死刑判決が出されました。
 こうした裁判の差別性は、赤堀さんのみならず、今徳見さんの裁判でも如実に現れています。
 金子みすずの「みんなちがって、みんないい」という言葉を思います。今、いささかの違いも許さず排除する攻撃が強化されています。それは障害者への攻撃、「精神病」者への保安処分攻撃に顕著に現れています。
 一人の「精神病」者として、この時代におびえつつ、それでもささやかに「ノウ」と言い続けようと決意しております。徳見さんの闘いを見つめつつ、共闘と連帯のエールを送ります。(01・3・3集会メッセージ)

 優生思想・能力主義に凝り固まった裁判官の差別性はともかく、「横浜市総合リハビリテーションセンター(の専門家)」が、「徳見はわざと事故を起こした」といい、その極めて不自然な主張を理由づけるために、「転換ヒステリー」という差別的なレッテルをはってまでも、裁判に勝利しようとする……横リハが、どのような美辞麗句を並べ立てて「障害者のため」を標榜しようとも、その本質は、山本真理さんの言うように、障害者を分断・選別して管理し、社会からの排除を正当化するためのものといわざるをえません。
 横リハがなぜ徳見に「ヒステリー」のレッテルをはったのか……それには、真理さんの言う「治らないことを患者の人格のせいにして開き直る」医者(手術をした主治医)との軋轢(あつれき)と、徳見の「職業病認定と職場改善の闘い」に手を焼いた、学校保健課の官僚たちとの確執(かくしつ)がその底流にあったのでした。   

 

(つづく)