「障害」を理由に解雇されて(7)

 これまで、3回にわたり再録した「リハセンターでのありのまま」に書いたように、横浜市総合リハビリテーションセンター(以下、横リハ)の「リハビリ」に抗議し、その一部を拒否し、「専門家」を批判する私を、「センターの方針を拒否する者」として排除を検討していたところに、たまたま、その事故が起こったのでした。
 事故後、職場復帰のためのリハビリ再開を求めて、横リハと一年以上にわたり「交渉」しましたが、「事故ではない、事象(自傷?)」だとして、リハビリ再開を拒否しましたので、やむなく裁判提訴に至りました。それについては、左記の、提訴翌日の新聞記事が、簡潔に書いてくれています。

一審・横浜地裁
 「リハ裁判」は提訴以来、一審・横浜地裁で36回、二審・東京高裁で6回の法廷が開かれました。そして、最高裁で、「門前払い」となりました。
 この裁判は、提訴前の横リハとの交渉から最高裁までおつきあいいただいた森田明弁護士なしには、続けることはできませんでした。
 「裁判費用」についていえば、森田弁護士にお支払いしたのは、なにがしかの着手金だけで、以後の諸経費(弁護士3人と徳見の計4人分の裁判資料のコピーだけでも、膨大な量になり、証人との打ち合わせなどの交通費その他)一切の請求はありませんでした。また、すべて敗訴となりましたので、「成功報酬」もありません。
 このような「金にならない」どころか、「金の持ち出し」になったはずの裁判に、最後まで「共に闘って」いただいたことに、感謝と敬意を表したいと思います(裁判所に収める「納付金(地裁50万円・高裁68万円・最高裁91万円)」は、「訴訟救助」という制度が適用されて、納付が猶予されましたが、未だに「支払い能力」がありません)。
 また、「リハ裁判」中に解雇され、それをめぐって結成された「障労(障害者の労働・差別を考える会)」に、加藤彰彦先生と共に、会の中心になっていただきました。「障労」は、力及ばず、解雇撤回をさせることができず、やむなく、解雇無効を争う「障労裁判」提訴にいたりましたが、この裁判も、森田弁護士が中心となって、「リハ裁判」と同様、全面敗訴となりながらも、最高裁までやり抜くことができました。
 「リハ裁判」第一回目の「弁護団会議」で、「たとえ負けたとしても、最高裁までやりたい」という私に、「一生のつきあいだなぁ……」と応えてくれた森田弁護士の言葉は、今でも忘れられません。
 一審判決では「本件事故の事実関係は、宮崎及び秋田理学療法士作成の報告書のとおりであり、原告代理人森田明弁護士作成の事故報告書、原告本人の陳述書及び原告本人尋問の結果こそ虚偽である」とまで述べています。

 この判決文を読んで、福本英子さんから、次のようなハガキをいただきました。

 

二審・東京高裁
 高裁への「控訴理由書」の冒頭の部分に、森田弁護士は次のように書いています。

 序 はじめに(原判決の全般的な不当性) 

一 本件訴訟は、一九九二年(平成四年)一〇月一三日に提訴され、一九九九年(平成一一年)七月二九日に終結したが、終結時点であらかじめ提出を予告の上、一〇月四日に原告最終準備書面(補充)を提出し、これに対し被告から一一月五日に最終準備書面(補充)が提出された。そのわずか一三日後の一一月一八日に判決が言い渡されたものである。なお、同年五月二七日の期日(終結の一回前)から裁判長が高柳輝雄判事に交代している。
 この裁判は、リハビリ施設内での事故について施設の責任を問う事件として注目を集め、「公正な判決を求める署名」には、わずか二〇日足らずの間に全国から約四四〇〇名分もの署名が寄せられた。
 このような経過で下された原判決は、結論の不当性もさることながら、あまりにおざなりであり、粗雑にして不誠実な判決と言わざるを得ない。

二 「第一」以下で具体的に述べるが、冒頭において、判決全般を通じての原判決の姿勢の問題点を指摘する。
 まず、争点の設定自体が恣意的であり重要な争点に対する判断を示していないことである。
 最も象徴的なのが、「転換ヒステリー」をめぐる議論である。被控訴人(横リハ)は、控訴人(徳見)が意図的に転倒したものであるとの極めて不自然な主張を理由付けるために、控訴人は「転換ヒステリー」であると決め付け、これについて、文献や医師(伊藤証人)によって懸命に立証につとめ、被控訴人の最終準備書面ではこれについての主張に、一〇頁を費やしている。そして、控訴人は、石川憲彦証人の証言、伊藤証人への反対尋問等により反証に努め、その主張の理由のないことを明らかにした(原告最終準備書面三七から四六頁)。しかし、原判決は、主要な争点である、「転換ヒステリー」についての主張を摘示することを怠り、何らの判断も示していない。
 また、控訴人側の専門家証人として、右転換ヒステリーの点のほか、被控訴人の理学療法士の証言の信頼性やリハビリのあり方、リハビリ打切りの問題などについて重要な証言をした石川証人の証言を、証言としての信用性の検討すらせず、全く無視している。重要な証拠にあえて目をつむり、証拠をつまみ食い的に採用して、恣意的な認定をしていると言わざるを得ない。
 さらに、争点についての判決の事実認定及び判断内容そのものの大部分が、被告の主張をなぞっているに過ぎないものであり、「自分の頭で考えて認定し判断した」ことがうかがわれない。
 それでいて、「原告代理人森田弁護士作成の事故報告書、原告本人の陳述書及び原告本人尋問の結果こそ虚偽である」とまで決めつけている。単に「措信できない」というにとどまらず、「虚偽である」とまでいうのは、原告、代理人共に意図的に虚構の事実を作出したとの意味に解せざるを得ない。そこまで言っておきながら、その根拠を何ら示してすらいないのである。
 憚りながら、弁護士森田明は、丸一八年近く弁護士の職にあって、もとより虚偽の証拠や証言を作出したことはなく、結果的にもそのようなことになることのないように注意を払ってきたものである。原判決の認定は、いわれない誹謗であり、到底容認しがたいものである。
 そして、真に許しがたいのは、かかる無責任な事実認定が、ほかの多くの重要な争点について、いとも簡単にされていることである。
 また、控訴人が繰り返し訴えてきた障害者の人権(リハビリ計画策定に参加する権利、プライバシー権など、今日注目されつつある権利)の重要性も容易に無視され、障害者の主張を「独善」と決めつけている。
 現行法上、障害者の権利を守る仕組みが不十分であることは否定できない。しかし、具体的な事件における法解釈を通じて、権利を前進させてゆくのが裁判所の役割である。原判決はかかる司法の役割を放棄するに等しいものである。
 控訴人や我々その代理人が、司法に希望を託したのは誤りであったのか。原判決は、控訴審から見ても、欠陥判決ではないのか。かかる判決が漫然と維持されるようなことがあっては、わが国の司法全体が信用を失うことになるのではないか。このことに答えていただきたい。 
 控訴審において、十分な審理がされ、原判決が破棄されることを求める。                                

最高裁「決定」
 東京高裁での一年・5回の審理の後、判決は、一審とほとんど変わらない内容でした(「虚偽発言」は削除されましたが……)。最高裁へ上告しましたが、書類提出後、わずか3か月ほどで、「上告棄却」となりました(01・7・13)。
 森田弁護士は、次のように語っています。
 
 実は、最高裁に上がる事件の大部分は、このような「処埋」 (3か月で三下リ半の決定)で終わるのが実情ですし、リハ裁判が最高裁で逆転できるかについては、非常に困難だと思っていました。それを承知の上での上告でした。
 それにしても、この三下り半は、何度見ても憤りに耐えません。上告理由の中でおこなった主張は、現在の制限された上告理由には収まらないように見えたのかもしれません。しかし、一審判決も控訴判決も、徳見さんの人格に対する全否定に等しい、あまりに一方的な判断です。それがそのまま通ってしまうことは、どうしても認めさせたくなかった。私なりに懸命に、一審判決と控訴判決の問題点を指摘して、それなりの量の上告理由書を書きあげました。それが一顧だにされなかったこと、そのことが、弁護士の苦労がどうのというのではなく、徳見さんの思いを伝えきることができなかったという点で、悔しくてなりません。
 しかし、こうした裁判所の姿勢が後世から見て、是とされるのか、とんでもない認識不足として嘲笑の対象となるのかは、私たちがこれから、どれだけ社会の認識を変えていけるかにかかります。この事件の一連の判決は、私たちがこれから何とたたかわなければならないかを際だたせてくれたともいえます。
 「リハ裁判」の一連の判決を踏まえた新たな運動を展開し、係属中の「解雇裁判」とともに、「障害者」への認識を転換する一つのステップにしていきたいと思います。(01・9・8) 

(つづく)