「障害」を理由に解雇されて(3)

 前回は、私が歯科衛生士として横浜市(学校保健会)に就職し、市内の学校を巡回して、「歯科指導」をし、頸肩腕症候群(ケイワン)になったことなどを書きました。今回は、その続きです。

労災職業病認定闘争
 職場に復帰した私は、仕事をしながら、通院治療を続けることになりました。そして、ケイワンの治療をしながら、仕事を続けていくために、また、これ以上職業病の患者を出さない職場にするためにも、職場の労働条件をもっとゆるやかにしなければならないと思いました。
 こうして、治療と共に、当局に「指導しながら、ていねいな検査をしたい」と、職場改善や職務内容の見直しなどを申し入れながら、「この病気は職務に起因するものだ」として、「労災職業病認定闘争」を行なっていきました。
 学校現場での歯科衛生士という職種、そして市の外郭団体という特殊な職場だったので、そこでの仕事は、正規職員の職場より、労働条件がきつく、誰もが、うでや肩の痛み・こりなどを感じており、それは慢性的な疲労からくるものだということは、職場の誰しも認めていました。こうして、職場は、私だけではなく、誰もがケイワンを発症する一歩手前にまでなってきていました。
 そのころ、社会的には「高度経済成長」の時代で、「機械化・コンピュータ化」などの「合理化」に伴い、様々な職種の労働者が、ケイワンに苦しめられていました。
 市教育委員会においては、250人ほどの職員のうち、ケイワンの患者が発生したのは、保健会(私)と図書館(複数)であり、図書館では、急速に業務を拡大しているところでした。したがって、市役所の職員組合でも、職業病予防のために、労働環境・労働条件改善をかかげるようになりました。
 また、そのころ組合が共産党系の「従業員組合」と非共産党系の「自治労横浜」の二つに分裂することになりました。
 私の職場(学校保健会)では共産党系がほとんどでしたので、ただ一人自治労横浜の組合員として、当局との闘いを進めざるをえなくなっていきました。したがって、職業病労災認定闘争は、職場においては孤立無援でしたが、その闘いの結果、81年8月、歯科衛生士という職種では初めて業務上災害の認定がなされ、労基署から、職場に対して、「検査の人数を一日あたり 500人以下にすべき」という行政指導がなされました。そして、以後は、職場の歯科衛生士で、ケイワンの患者が出ることはなくなりました。
 私の「身分」は、市の正規職員ではなく「外郭団体の職員」でしたので、一般の労働者と同様に労災保険の対象であるため、ケイワンを「労災」として認定させる闘争をしましたが、図書館で職業病をかかえている人たちは「公務員」ですから、「公務災害」という、別の制度の対象となります。しかし同じ組合員として、共に、職業病を出さないための闘いを行なっていきました。
 なお、図書館でケイワン患者となって、共に闘ったAさんは、私への手紙で次のように書いています。

 徳見さんの労災職業病認定闘争の過程で、図書館職場では、職業病に対する認識が広がり、作業量や作業姿勢について話されるようになりました。つまり、それまでは労働と労働者の身体との関係を、個別にしか実感していなかったのですが、共通認識として職場で位置付けられるようになりました。その後、このことを知らない若い人たちが入ってきた今でも、横浜市の図書館職場に、大きな影響をもたらしていると思います。
 もし、徳見さんの職業病闘争がなかったとしたら、今の図書館職場は、かなり違ったものになっていたと思います(そして、私など、とうに辞めざるをえなかったかもしれないし、今の私の存在もなかったかもしれません)。

  勤務体制の見なおし、職業病治療体制の確保、不安定な身分の改善などの運動を、職場で、ほとんど一人で行なう中で、上司(学校保健課長)からは、あまり快く思われない存在になっていきました。
 労災が認定されたころ、上司から執拗に退職を勧告されています。ちなみに、上司は何人も代わっていますが、一人はその後、衛生局長となり、定年後はリハセンターに「天下り」して、私がリハセンターに通い、転倒事故が起きたときの専務理事でした。もう一人は、その後港北区長となり、定年後は、リハセンターに天下りし、私がリハセンターを提訴したときの専務理事でした。
 私がリハセンターで、リハビリのあり方をめぐって職員に抗議し、転倒事故をきっかけに、リハセンターから排除されたのは、その遠因がここにもあったかもしれません。 

鍼灸治療費打ち切り
 ケイワンが業務上災害に認定され、治療をしながら勤務を続けていたところ、「長期療養者に対する鍼灸治療費打ち切りの通達(いわゆる「375通達」)」によって、83年、労災保険によるハリ・キュウの治療費が打ちきられることになりました。 それに対して、83年7月、「処分取消の審査請求」を行ないました。その「審査請求書」に添付した「意見書」と題する「審査請求の理由」です。

意 見 書

私は昭和53年6月より、頸肩腕障害を発病し、5年以上になり、現在に至るまで心身ともに、又、経済的にも大きな苦しみを味あわされています。発病以来「鍼灸治療」・体操・理学療法・投薬・温泉等、1日も早く元の身体にもどりたく努力をしております。1日たりとも、この努力をないがしろにしたことがないほど、全生活をこれに終始してきました。
 そして現在6時間勤務(週二日通院休業)、又、作業形態の改善(めまぐるしい学校巡回指導、主に口中の検査・指導の密度軽減)を雇用主にしてもらっています。このような勤務にまでもってこれたのも、上記の治療と努力の結果であります。
 しかしながら、本年3月31日以後「鍼灸治療費」は打ち切られ、これまで週2回、医師の指示にもとづき、鍼灸治療を行なってきましたが、打ち切られた以後、経済的にもきびしく、自費では週一回しか実際には行なえません。今回出された労働省通達75号にもとづく「鍼灸治療費打ち切り」は、患者の治癒に向けての努力をふみにじるものです。
 本来、労働省は「職業病」を出さない労働環境条件を雇用主に指導・監督するとともに、労災患者の治癒に向けての体制を作る義務があると思います。
 現在、リハビリ勤務をしていますが、それでも頸・肩・腕部のコリ・痛み等は、週一回の鍼灸治療ではとりきれず、特に頸部の深い部位のコリ・痛みは増してきています。業務中において、頸部を前傾伸展位にしながら、児童の口中をのぞきこむことが大変つらく、口中を見るために手指で口蓋をおしひろげ、肘を宙にうかしておく作業が大変つらくなっています。
 これが通達によって鍼灸治療が行なわれなかったら、症状がもっと悪化し、とりかえしがつかなくなることは火を見るより明らかです。
 主治医も有効な治療として認めている鍼灸治療を打ち切り、患者の治癒への道をとざす75通達を撤回し、引き続き治療ができるよう、お願いします。
                                                        和58年9月10日 徳見康子

 三年後の86年3月、「処分は妥当」という「神奈川労働基準局」の決定が出されたため、組合の「職対連(職業病対策連絡会)」で検討し、「再審査請求」をしましたが、88年4月1日をもって、「ハリ・キュウ単独の施術期間」が満了となり、労災保険によるハリ・キュウの治療費が打ちきられました。

 頸椎症性脊髄症による手術
 ケイワンの症状がやや改善されてきたと思われたころ、手のひらの筋肉の萎縮が目立つようになりました。そして手の筋力が衰え、歩行も不自由となってきました。
 仕事上では、勤務校に「白衣・上履き・歯の模型・書類」など一式を持って行くときの荷物が重く感じられ、歯の検査のときには、腕を上げ、首をやや前方に曲げた状態で行なうため、手・腕・肩・背中・腰などにこりや痛みがあり、ハリ治療によってかろうじて支えられていたのでした。
 家庭生活では、包丁で野菜の皮をむいたり、食器を洗ったりするとき、指先に力が入らず、作業の速度が遅くなりました。また、右腕が痛んだり、腫れたり、肩や背中のコリがひどくなったりしました。
 字を書くのも長くは続きません。入浴時のシャンプーや身体洗い、洗濯物を干すときなどに、不自由さを感じるようになって、実家の母や近くの友人たちに手伝ってもらったり、週一〜二回は、有料のヘルパーに来てもらい、家事の援助をしてもらうようになりました。
 ある日、おふろに入ったら、足を入れても、熱く感じませんでした。湯船に入ったら、胸、肩あたりが熱くなって、はじめて「このおふろは熱かったのだ」ということに気づきました。お湯をかきまわしても、足は温かく感じないのです。
 88年六月、検査を受けた結果、「頸椎症性脊髄症」という、首の脊髄(頸椎)が萎縮する病気であることが分かり、89年一月、手術を受けることになったのでした。
 頸の手術をすれば、身体は元に戻れると思っていました。ところが、手術後、病院でリハビリをしても、身体の状態は、手術前とほとんど変わりませんでした。普通は三か月、長くても五か月ほどで退院できるのですが、身体症状の改善が見られなかったので、伊豆の温泉病院へ転院して、水中歩行などのリハビリ訓練を受けましたが、途中で体調を崩し、手術した病院に再入院し、結局通算一年半という長期にわたっての入院を余儀なくされました。
 それでも、一年半ほどの入院・リハビリの後、左足に長下肢装具、両手にロフストランド杖をついて歩行が可能となり、車の運転もできるようになって、90年五月に、「頸椎症性脊髄症による両下肢麻痺」により「一種二級」の障害者手帳を交付され、退院しました。

 三年の休職期間は92年4月25日満了なので、それまでの2年以内に、学校巡回の歯科衛生士として仕事を続ける場合に残されている課題――両手にロフストランド杖をついて、どのように歯科指導をすればよいか――を解決して職場復帰をするため、90年9月、主治医の紹介で、横浜市総合リハビリテーションセンターへ通うことになりました。(つづく)