「障害」を理由に解雇されて(1)

はじめに
 『ゆきわたり』一月号で、現代書館の小林律子さんが「定年退職」されること、また北村小夜さんが93歳になられることなどを知りました。翻って私、年女の72歳。「身体障害者手帳」受給者となって29年、横浜リハセンターでの事故をめぐる裁判(リハ裁判)と、その事故で車いすになったことを理由に、横浜市から解雇された「解雇無効の裁判(障労裁判)」という二つの裁判が終わってから14年経ちました。
 10年前に「くも膜下出血」で倒れ、「奇跡的な生還(主治医の話)」を果たしましたが、しだいに過去の記憶もあいまいになりつつあります。今は横浜の北の外れ、自然豊かな谷戸で余生を送っていますが、二つの裁判を通して、多くの方々に、物心共にひとかたならず支えていただきながら、その後何も「報告」できていないことを、常々心苦しく思っており、そんな気持ちさえも、少しづつ消滅してきているような気がして、せめて、まだ、記憶が残っているうちにと、ペンをとったしだいです。

職業病
 私は、団塊の世代のド真ん中に生まれ、母はその後離婚して、子ども三人を「立体裁断」という技術をもって、一人で育てあげました。三年前、97歳で「老衰死」しましたが、亡くなる二年前まで、プールへ行き、仕事をしていました。
 私は、「歯科衛生士」という資格をもって、横浜市に就職し、やがて結婚して子ども一人を授かりましたが、一日に多いときには午前中一人で1000人近くの児童の歯の検査をする仕事を続けた結果、「頸肩腕症候群(ケイワン)」を発症したのでした。
 「職場の仕事内容を変えていかなければ、第二・第三の徳見が出るのではないか」と、労働組合も含めて、職場で交渉を行なってきました。
この「職業病闘争」の結果、私のケイワンは職業病に認定され、労基署からの「指導」で、「検査人数は一日あたり500人以下」となり、それ以後、職場での職業病は見られなくなりました。
 その過程で、家庭的には離婚に至りました。そのときに私が選んだ道は「母のように、一人で子どもを育てていこう」というものでした。
 こうして、職場や生活の状況が変わり、このまま、これまで通り、ずっと仕事を続けて行くことができると思っていたのでした。

頚椎の手術
 通院しながら勤務を続け、ケイワンによる体の苦痛がしだいにとれてきたのですが、やがて、立つ力、歩く力、手の力が急激に弱くなりました。
 首の脊髄(頸椎)が萎縮する「頸椎症性脊髄症」という病気で手術をうけ、杖(ロフストランド杖)と、片足に装具(長下肢装具)があれば自立歩行ができる状態で、障害者手帳をもらって、退院しました。娘が小学校から中学にかけてのころで、私の母や姉などに世話をかけてしまいました。
 退院後は、車の運転はできましたし、歩行は、杖や装具があれば、400メートルくらいなら、わりと無理なくできる状態でしたので、建物の中はもちろん、お使いにも行けました。家の中のことも娘と二人で、当たり前に生活ができていました。あともうちょっとで、職場復帰ができそうでした。

リハ裁判 職場復帰をめざして、「片杖で、児童の歯科検診・指導の方法を検討したい」と、「横浜市総合リハビリテーションセンター(リハセンター)」に入所しました。まず最初に、いくつかの「心理テスト」をされ、リハビリがはじまりましたが、その内容は、期待していた「職場復帰のためのリハビリ」とは全く違っており、担当スタッフに抗議をしたりしていました。
 裁判になってから、裁判所の「文書提出命令」によって提出された200ページ余りの「徳見関係文書(カルテ)」や「入所判定書」などによれば、私は、「横浜市からの依頼(措置)によって、障害の状況を判定し、それに見合った処置をするための入所」だったようでした。したがって、リハセンター側の「入所目的」は、「障害の受容と、今後の生活設計」というもので、そもそもはじめから「職場復帰は無理」という決めつけ(判定)をしていたのでした。
 そうこうしているうちに、リハビリ中に転がってきた用具が私にぶつかり転倒する事故が起こりました。リハセンターは、事故の責任を認めず、それ以後のリハビリの再開を拒否、一年以上の交渉の末、やむなく9210月、裁判提訴に至ったのでした。
 裁判は、一審・二審とも敗訴、01年最高裁で上告棄却されて、10年近くかかって終了しましたが、その間、篠原先生には、二通の「意見書」を出していただき、また篠原先生の紹介で、石川憲彦先生に、二度にわたって、「証人」として、リハセンターの主張の矛盾などを証言していただきました。
(「石川証言・篠原意見書は、このホームページ「リハ裁判・資料」にあります。

 自主出勤闘争・障労裁判
 「リハ裁判」提訴の半年ほど前に、三年間の休職期限が切れて、当局(学校保健会)に対して、「介助者つき職場復帰」を申し入れて、労働組合(自治労横浜)の役員も含めて、何度かの交渉をおこなっていました。休職期限が切れても、直ちに解雇できない当局は、「欠勤扱い」として仕事を与えず(もちろん給料はでません)、「自力通勤・自力勤務できない」ことを理由に職場復帰を認めませんでした。
 労働者が「働けなくなったら、仕事を辞めるのが当然」というのは、今でも常識として通用しているのではないでしょうか。組合も、一応、当局との交渉に「立ち合い」はしてくれました。また、大会でアピールをさせてくれたり、カンパなどもいただきましたが、それ以上の積極的な「支援」はありませんでした。
 交渉は、平行線のまま時間ばかりが過ぎていく中で、「介助者がいれば、通勤して仕事ができる」ことを証明するために、「自主出勤」することにしました。こうして、94年一月から、横浜市教育委員会へ「出勤」いたしました。
 この「自主出勤闘争」は、途中中断しましたが、95年四月まで、一年あまり続けました。これは組合の方針とは相いれないようで、組合本部は「ジャマはしないけれど、支援もしない」という態度で、その後の解雇についても、沈黙したままでした。
 その年の12月、自宅に、教育委員会の課長・指導主事二名が「(95年)一月19日をもって免職する」という「解雇通告書」を置いて行きました。
 組合の「支援」がないまま、解雇への抗議の意思表示として、一月19日から23日間、ミネラルウォーターだけを飲んで「ハンスト自主出勤」に入りました。二日前には「阪神・淡路大震災」があり、しばらくすると、どこの店からもミネラルウォーターが消えてしまいましたが……。
 その後、私の解雇問題を契機にして、加藤彰彦先生を代表に、「障害者の労働・差別を考える会(障労)」が結成されて、解雇撤回に向けての様々な行動がなされましたが、力及ばず、当局の厚い壁を崩すことができないまま、障労も、「運動体」としての機能を停止してしまいました。
 このまま解雇が既成事実化してしまうのではないかという不安のなかで、最後の手段として、裁判提訴を模索しましたが、「働けない労働者の解雇無効という裁判は勝てない」として、弁護士が見つからず、あきらめかけていたときに、新美隆弁護士と知り合いました。
 新美弁護士は労働問題だけではなく、差別や人権の視点でも闘っていて、私の解雇問題も、「働けない労働者の解雇」としてだけではなく、「障害者差別の問題」としても受けとめて、「こういう裁判こそ、すべきだ」として、訴状を書いてくれて、解雇五年後にやっと提訴しました。
 裁判は、一・二審とも敗訴、05年最高裁で上告棄却されて、五年で終了しました。新美弁護士は、裁判終了の翌年、59歳の若さで肺ガンのため、惜しまれつつ世を去りました。

子問研・社臨との出会い
 私がはじめて「こもん軒」に顔を出したのは、「脳死・臓器移植に反対する市民会議」で、まだリハ裁判提訴の前でした。「臓器移植法」国会提出の動きの中で、それを阻止するための会議が、月に一度、こもん軒で夜遅くまで続き、「みんなすごいなぁ!」と、ただただ感心するばかりでした。それまで、ひたすら子どもたちの歯の状態を、いかに能率・効率よく、「正しく」検査して、ランクづけするか、それを「(歯の)専門家」の仕事として、何の疑いも持たず、やってきたことを、根底から問い返させられたのでした。
 そして、臓器移植法反対行動の一環で、大阪・京都・広島・仙台などへ、車中泊を重ねながら行きましたが、それらは、裁判や、解雇問題などのなかで、「息抜き」ともなってくれたのでした。
 社会臨床学会(社臨)の設立総会(93)の案内を篠原先生からいただき、そこで、加藤彰彦先生と「再開」したことも、決して忘れることはできません。また、社臨総会にかこつけて、北海道から沖縄まで、車中泊を重ねて、旅を楽しませていただきました。
 初めて「春討」に参加したのは、92年、和光大学でした。そのときのスローガンは「こもん軒は普通の店? こもん軒5周年、子供問題研究会20周年」というものでしたが、「能力主義」を払拭しきれていない私には、「あまりよく分からないなぁ……」というのが、正直な感想でした。その後、何度か春討に参加して、「勉強」させていただきましたが、もし子問研や社臨と出会わなければ、能力主義と優生思想にどっぷりと浸かったまま、障害者となって解雇され、失意のままに後半生をおくっていたかもしれません。 
 私の孫がまだ小さかったときは「クリスマス会」に連れて行ったり、「旅」の途中、青部に「立ち寄り参加」したり、丸太小屋で新年を迎えたり、地引網で魚を獲って食べたり……など、「こもん軒・子問研」を、私の都合に合わせて、楽しく利用させていただくばかりでした。亡くなられた浪川新子さんと、社臨総会や春討の休憩時間にタバコを吸いあったことなども、懐かしく思い出されます。

  新興住宅地の中に、わずかに残された自然豊かな里山に住んで23年、必死で仕事をし、子育てをし、体を壊し、二つの裁判をし、すべてが終わって、窓辺を訪れるキジバトと「交流」しつつ、もしかしたら、今は、昔夢見た「定年後の田舎暮らし」をしているのかもしれない、などと思ったりしています。 (つづく)