判決の差別性
「リハ裁判」は、最高裁で「上告棄却」となって、1審・2審・3審とも「完全敗訴」が確定しました。
「精神病」者集団の山本真理さんは、高裁の敗訴判決の後、次のように述べています(2001.3.3集会に寄せられたメッセージより)。
いろいろなレッテルは、常にこうした排除と差別合理化に使われてきた歴史があります。そしてそれを、裁判も常に使ってきました。
赤堀さんに対して、「このような残虐な犯罪は、通常人ではありえない、だから精神障害者の犯行であり、だから赤堀は有罪だ」とし、さらに「精神障害者の赤堀には矯正の余地はない」として死刑判決が出されました。
こうした裁判の差別性は、赤堀さんのみならず、今徳見さんの裁判でも如実に現れています。
法廷での審理は1審・横浜地裁で36回(7年)、高裁で6回(1年)でした。しかし、判決を書くまでの期間は、地裁の高柳裁判長が3.5か月、高裁の石川裁判長は2.5か月でした。最高裁は法廷が開かれず、「決定」まで2か月でした(「裁判年表」参照)。
7年近くにわたっておこなわれた1審での審理の過程では、徳見自身の4回に及ぶ証人尋問、石川憲彦さんの2回の証言、被告・宮崎や伊藤医師の証言、涙ながらに訴えた徳見の冒頭陳述……、それらの「肉声」は、書類の行間の中に埋まり、それをきいた裁判官はすべて去って、結局、書類だけによって差別的な「徳見像」がつくられ、わずか3か月あまりで判決が書かれたのでした。
高裁以後、その差別的判決はそのまま踏襲され、原告側の主張はまったく検討もされずに高裁・最高裁の決定に至ったのでした。
こうした「裁判の差別性」を、被告リハセンターは、徹底的に利用してきました。
裁判所に提出された「徳見関係文書」は、すべてリハセンター側が作成したものであり、改竄したり、都合の悪い部分は提出しなかったりしています。臨床心理士や理学療法士のカルテなどは、リハビリのあり方を批判し、「専門家」に抗議する徳見の言動を、「ヒステリック」「情動失禁」などときめつけ、「リハビリの成果があがらないのは、徳見の心理的な問題のためである」として、自らの指導のあり方に対するとらえ返しはまったくなかったのです。
そして、裁判になると、リハセンターは、これらの資料をもとに、「徳見は転換ヒステリーである」という主張を展開し、「転換ヒステリー患者は演技的な転倒をする」「徳見は疾病利得を求めて、わざと転んだ」といい、「事故の前後で、徳見の身体の状態は変わっていない」とも述べたのでした(つまり、徳見が車椅子に乗っているのは、演技だということになるのです!)。
これらの主張に対して、逐一反論し、また、石川憲彦さんの証言や篠原睦治さんの意見書などによって、「転換ヒステリー論」は論破したと思ったのですが、裁判所は、このお二人の証言・意見書は一顧だにせず(まったく無視して)、「リハセンターの心理判定の結果からみると、徳見の言い分は信用できない」として、被告側の主張をすべて認めたのです。
まさに、山本真理さんがいうように、「(専門家のはった)レッテルが、排除と差別合理化に使われ、裁判もそれを使った」のでした。
事故そして解雇
そもそも、横浜リハセンターへは、原職復帰のリハビリをするために行ったのですが、リハセンターの「専門家」は、「身体的・心理的判定」の結果、「徳見の身体の状況からみて、復職は無理。それにこだわるのは、障害の受容ができていないため」と結論づけ、徳見自身には何の相談もなしに、リハビリの目標を「障害の受容を図り、復職の可能性を見極める(すなわち、「復職の不可能性を認識させる)」と一方的に決定し、そのプログラムを押しつけ(強制し)たのです。
このようなリハセンター(の専門家)に対して、批判し抗議する徳見に、「(リハセンターのつくった)プログラムを拒否することは、当施設の方針を拒否するもの」として、(リハセンター内にある)市の更生施設からの排除を検討していました。事故はその最中におこったのでした。
そのころ、リハビリのあり方に不満をいだいていた何人かの「患者」が、徳見の言動に共鳴し、心理のカリキュラムを徳見と共に拒否したり、「専門家」を批判し始めていました。もし事故が起こらなかったら、そのような人たちと共に「患者会」を組織して、リハセンターに対して、要求を突きつけることができたかもしれません。このような「不穏な」動きをする徳見を排除するためには、リハセンターにとって、事故は最大のチャンスだったのでしょう。
その後1年近く、リハビリの再開を要求しましたが、担当の部長・庄子哲夫(横浜市福祉局部長兼務)がのらりくらりと引き延ばし、最終的に更生相談所長(現・リハセンター長)伊藤利之が「首の脊髄の患者は責任が持てない」という理由で拒否しました。3年の休職期間が切れる1か月前のことであり、これ以上交渉に時間を費やす余裕もなく、リハビリ再開要求をあきらめて、リハセンターに対しては裁判闘争に切り替えることにして、職場復帰の闘争に全力を投入することになりました。
こうして10年が経ちました。その間、職場からは「自力通勤・自力勤務できない」として解雇を言い渡されました。「障労(障害者の労働・差別を考える会)」が結成され、横浜市大の加藤彰彦さんを中心に、当局に対して解雇撤回の交渉をおこなってきましたが、それも力及ばず、結局これも裁判に訴えざるをえませんでした。
闘いは終わらない
裁判が終わった後、再びリハセンターに「原職復帰するためのリハビリを提供せよ」という申し入れをいたしました。
私が原職復帰するために、どういうサービスをしてくれるのか、そして、リハセンターのレールに合わせるのではなくて、「どういうサービスがリハセンターではできますか」という形で追及していきたいと思っています。
しかし、リハセンターはまたも拒否いたしました。福祉事務所が、「なんとかリハビリ再開をしてほしい」と、リハセンターに申し入れをいたしましたが、「徳見に必要なのは、リハセンターのリハビリではない」というのです。いったい、リハセンターにおけるリハビリとは何なのでしょうか。
私の職場は横浜市の第三セクターですが、リハセンターも第三セクターです。市行政の中で、結託して私を排除をしてくるのは、やっぱり許せません。「障害者になった」ことを理由にした差別・排除を認めることはできません。こうした宿題を残したままにしないで、宿題は宿題でやりきっていきたいと思います。
それから、「立ったり座ったりして仕事ができない」という保健会の主張に対して、「車椅子でできる仕事を作ってほしい」という申し入れをしていきたいと思っています。多分裁判で、その結果が出ると思いますが、それとは別に、やり続けたいと思っています。
あくまで原職復帰を
また、いわゆる「何でもできる子」だけを存在させようとする教育の現場はおかしいのではないでしょうか。今の社会が要求する「いい子」「できる子」「早い子」「競争に勝てる子」を育てるためには、徹底した「個別化」「特殊化」が不可欠になってきます。そこでは「いい子」「できる子」「早い子」「競争に勝てる子」に向かって総動員態勢をとらないと成り立たちません。したがって、どうしても「できない子」「ダメな子」「遅い子」が作り上げられます。こうして、「ダメな子」が、特別な「囲い」の中に隔離され、排除されていきます。
こうした状況の中で、子どもどおしの関係は、社会の中にある競争や蹴落とし・いじめ・排除などの反映として、その縮図として現れてくるような気がしています。
このような、教育現場に「あってはいけない現実」がたくさんあって、その中で障害あるものが教育現場で踏みとどまる、それは非常に大変ですが、これは一般の労働現場もさることながら、教育現場だからこそ、子どもたちに、「できなくてもいい、ゆっくりでもいい、みんなで支えあって、工夫しあって、考えてやっていこう」ということを、人間関係含めて存在しつづけることがひとつの教育だと思っています。
学校保健会は、「徳見さんは立って仕事ができない」「中腰で仕事できない」から、教育現場で仕事をするのはふさわしくない人間だと主張しつづけていますが、それそのものがおかしい、ということをきちんと言いつづけていきたいと思っています。「がんばる」というのは嫌いな言葉ですが、やっぱり踏みとどまってがんばらなければいけないのでないかと思います。
蛇足ながら……
「リハ裁判」は、地裁・高裁・最高裁のいずれも、「訴訟救助」が認められ、裁判費用の納入が「延期」されています。今回の最高裁の決定により、その費用(合計約210万円)の支払い義務が生じることになります。請求がきたら、さて、どうしましょうか?!
訴訟費用
横浜地裁 50万 600円
東京高裁 68万4900円
最 高 裁 91万3200円
合計 209万8700円
裁判費用は、損害賠償請求金額によってきめられます。リハ裁判の場合は、リハセンターの事故によって、将来的にも必要になった介助者費用(1日1万円として計算)7700万円あまり+弁護士費用1000万円、事故よる慰謝料2500万円の合計1億1千万円あまりの請求額なので、裁判所に納める金額も、このように高額になりました。
なお、解雇無効を求める「障労裁判」は、解雇されてから裁判提訴までの給与相当額から計算して、訴訟費用は17万円あまりですが、これも訴訟救助が認められて、支払いが猶予されています。
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