5月25日(木)道の駅「国頭」(沖縄第9日)……第24日
ぬーがやの朝
朝起きると雨である。8時すぎ、知花さんの娘・ミキヨさんが来て、宿泊棟から母屋の知花家へエスコートしてくれる。知花家ではすでに食事は終わり「出勤」の時間らしく、彼女は、別れを惜しみながら「さばにくらぶ」へと出かけてゆく。徳見はサンドイッチやコーヒーをいただきながら、知花さんとお連れ合いの洋子さんのおもてなしで、朝のひとときをゆったりとすごす。
知花さんは、米軍の楚辺(そべ)通信所内の所有地が7月31日に返還されることになり、8月1日に、その土地でお祝いの会をおこなうのだ、とうれしそうに語る。
この通信所、周辺をサトウキビ畑に囲まれた広大な敷地に、直径約200m、高さ約28mのケージ型アンテナがそびえ立っており、巨大な檻(オリ)のように見えるところから、通称「象のオリ」といわれている。
この土地をめぐっては、長く裁判でも争ったというが、裁判は、2003年に最高裁で知花さんの敗訴が確定したという。徳見の裁判も同様の結果だったが、「体制の維持」を大前提とする裁判所は、「はじめに結論ありき」で、そのためにどんな論理(リクツ)をも作り出すのである。
しかし、ねばり強い知花さんの闘いは、裁判では負けたけれど、ついに、来年の春の「象のオリ」全面返還を勝ち取ったのである。そして、ただ一人「契約拒否」をし続けた知花さんの土地は、それに先だって、この7月31日に返還されることになったのだという。
「8月1日におこなう『お祝い』は(沖縄の伝統にしたがって)ヤギを殺して、ヤギ汁をふるまってお祝いしますよ」と、知花さんは楽しそうに語る。
ところで1953(昭和28)年にできた「と畜(とちく)場法」によって、「牛、馬、豚、めん羊及び山羊」は、「と畜場以外の場所において、食用に供する目的でとさつ(屠殺)してはならない」と規定されて、沖縄の伝統的な「ヤギ料理」は、(「祖国復帰」以後は)「違法」となってしまった。知花さんが「沖縄の伝統に従って、ヤギを殺してヤギ汁をふるまう」としたら……「また、刑務所に入ることになるでしょうねぇ」と涼しい顔だ。「これで何回目……?」と、徳見がきくと、「3回目かなぁ」と、知花さんも応じる。
後日、新聞報道によると、〈沖縄県読谷村議で反戦地主の知花昌一さん(58)は(8月)1日、前日返還された米軍楚辺通信所(通称「象のオリ」)内の所有地で、家族や支援者らと返還を祝った。
土地を囲うフェンスには沖縄方言で「みんなの力で取り戻したぞ。どうもありがとう」という意味の横断幕。約100人にビールやヤギ汁が振る舞われた。知花さんは「70坪の小さな土地が解放区になった。(米軍基地に)風穴をあけた。皆さんの支援のおかげだ」とあいさつ。座が盛り上がってくると「象のオリ」の巨大アンテナをバックに三線(さんしん)を奏で、喝采(かっさい)を浴びた。
エイサー隊が太鼓をたたきながらアップテンポの曲を演奏すると宴は最高潮に。知花さんと支援者らが立ち上がり、笑顔で祝いの席の踊り「カチャーシー」を舞った〉という。どうやら刑務所には入らなかったらしい!。
陶芸工房
雨はしだいに激しくなってくる。10時近く、洋子さんの案内で、昨日会った陶芸家の大宮育雄さんの工房を訪問する。車で10分足らずの距離であった。昨日の「宴会」でも話が出たが、彼は、沖縄の「祖国復帰(1972年)」運動の中で、本土から沖縄に渡り、そのままこの地で生活をしている一人である。78年に、沖縄の伝統的な焼き物・壺屋焼きの島袋常秀師事し、84年に現在の地に工房を構えた。
大宮さんは徳見に、沖縄の焼き物について、いろいろ説明してくれる。「壺屋焼は上焼と荒焼があって、上焼は、釉薬をかけ1200度ほどで焼くもので、これが一般的な焼き物である。荒焼は、釉薬をかけないで約1000度で焼くもので、甕などの大型の容器がつくられる」という。荒焼きというのは、いわゆる「焼きしめ」のことらしい。
陶土は、「沖縄には各地に良質な陶土があり、この近くにもあって、私は、基地のフェンス越しに、掘って使っている」そうだ。徳見が、土を分けてほしい、というと、「土が間に合わなくて、買ったのがあるので、それでよければ……」といって、譲ってくれる。
釉薬は、「白釉、黒釉、青磁、飴釉、呉須など、壺屋独自のものがあって、たとえば白釉は、焼いた石灰とモミ灰を混ぜ、さらに具志頭(ぐしかみ)白土と喜瀬(きせ)粘土を混ぜたもの」といい、壁に、その3種類を混ぜ合わせる比率によって、どのような仕上がりになるか、貼ってあるものを見ながら、説明してくれる。
ところで、大宮さんのお連れ合いは、地元・沖縄の女性で、草木染めや織りをやっている。徳見は、こちらのほうも興味があって、いろいろとお話をうかがう。彼女がやっているのは、伝統工芸の「読谷山花織(よみたんざん・はなおり)」のようで、その説明によると、読谷の草木染めは、紺色は琉球藍、黄色はフクギ、茶色はテカチ(車輪梅、奄美ではテーチギといっていた)、ベージュになるシイの木を使う。グール(サルトリイバラの根)やヤマモモ、ゲットウ(月桃)など、まわりにあるいろんな植物を使うという。
こうして、11:30ごろまで、お二人にいろんなことを教わり、沖縄の土のほか、フクギとシャリンバイもいただき、工房を後にする。
本部・国頭
とりあえず、国道を北上して本部港をめざす。伊江島には、木村浩子さんという脳性マヒの方が経営している「土の宿」という「1500円宿(やど)」があるというで、そこへ行くために、船の時間を確認するつもりである。途中、今朝、知花さんのところで話があった「読谷村共同販売センター」の前を通ったので、洋子さんが話してくれたレストラン「ゆいまーる」で食事をすることになる。そして「センター」に入ると、バナナが100円で山盛りになっているのでゲット。昨日三絃を弾いてくれた店番のおじさんがなつかしそうに声をかけてきて、大正琴や朝鮮製のウクレレなどを演奏してくれる。
「ゆいまーる」の場所をきくと、「この隣だけど、今日は木曜で定休日だよ」という。残念!
少し行くと、「沖縄黒糖」という会社の「黒糖工場・見学無料」という看板と共に、大きな牛と豚の「張り子」が目立っている。黒糖工場に牛と豚?……と思いつつ、ちょうど雨も小降りになったし、おなかもすいてきたし(作りたての黒糖の味見ができるかも……!)、というわけで、寄ってみる。
案内の若い女性が「製糖工場」の一部を見せて説明してくれる。その間10分ほど。あとは、会社の製品その他が並んでいる「土産物店」に続いていて、そこで「どうぞごゆっくり、お買い物を……」ということになっている。ハム、ソーセージなどもならんでいるので、「これは……?」ときくと、「隣がその工場になっていて、同じ経営です」とのこと。なるほど、製糖工場に牛・豚の「張り子」の理由が判明。
黒糖の味見を少ししただけで、何も買わずに(買うものもなくて)、引き上げる。
少し先へ進むと、一昨日(23日)に寄った「おんな(恩納)の駅」がある。ここで、のんびりと休み、昼食。売店をひと回り。泡盛の「くーす(古酒)」用の新酒が1升びんで1500円ほどで売っている。これを瓶(かめ)にいれて、3年、5年と寝かせると「くーす」になるというのである。「びんのままでもいいけど、ときどき振動をあたえたり、音楽を聴かせたりするといいよ」と、若い売り子が言う。以前、瓶に入った紹興酒を買ったことがあり、その瓶に入れれば「くーす」ができるかもしれない、などと思って1本買ってしまう。
しかし、実際には、瓶に入れても、どんなに密閉したとしても少しずつアルコールが蒸発して、その分を毎年補充しながら、何年も続ける必要があるらしい。したがって1升びんのまま「くーす」にするのは、売り手の若者が言うように、毎日びんをかかえながら、チターを聴かせればいいのかもしれない……?!
15時過ぎ本部港に着き、伊江島行きの船の便を確認する。毎日9、11、15、17時の4便出ているという。島に渡る前に、もう少しヤンバルを見ていきたいので、本部半島をさらに北へ向かうと、すぐ、左手に大きな橋に結ばれた島がある。瀬底島(せそこしま)で、本島から450m沖にある周囲8キロメートル、人口1000人余りの島であり、1985年に瀬底大橋(全長762m)が完成し、本島とつながったという。
この島の西側に「瀬底ビーチ」があり、「自然のままの姿を保った瀬底ビーチは、沖縄本島に多く見られる人工ビーチとは異なる素朴な雰囲気が特徴です」と、案内書にある。「復帰」以来、沖縄の自然破壊が進んでいる中で、以前のままの海が残されている(数少ない?!)場所の一つだというが、ここでも、大規模なリゾート開発が計画されており、近いうちに、巨大なリゾートホテルの「マイビーチ」になってしまうらしい。
橋を渡って島に入って進むと、道は自然に「瀬底ビーチ」に突きあたる……はずだが、突きあたったところはゴルフ場で、ビーチらしい方向にはロープがはってあり、「立ち入り禁止」の表示がある。売店(レストラン?)があり、人もいるらしいが、そのまま引き上げる。雨はしだいに激しくなる。
「全周8キロの島」というので1周しようと思ったのだが、道路は途中で舗装が切れ、突然サトウキビ畑が広がる農道の狭い道になる。激しい雨で、その道もぬかるみになって、これ以上進むことは不可能と判断、Uターンもできず、そのままバックで舗装道路まで引き返す……。
国道に戻り、さらに10分ほど行くと「海洋博公園」の入り口がある。正式名は「国営沖縄記念公園」というようだが、1975年の沖縄国際海洋博覧会の跡地に設置された公園である。
この近くの備瀬(びせ)という集落に、「フクギ並木」があるという。フクギは、草木染めによく使われる木であることを知ったばかりであるが、台風の多い沖縄では、海の近くにある集落によく植えられたという。数千本におよぶという備瀬のフクギのなかで、もっとも古いものは推定樹齢300年といわれている。
無料駐車場があり、そこから集落の中のフクギ並木を歩くのが「コース」のようである。地図を見るとけっこう距離がありそうだし、。集落を通り過ぎた先に「備瀬崎」という海岸があるらしいので、そのまま車で進む。車道の両脇の家々も、すべてびっしりとフクギに囲まれている。そんな風景を眺めながら、ゆっくりと10分ほど走ると、終点の備瀬崎である。どんよりと曇った海のかなたに(地図でみると5〜6キロメートル先だ)、これから行こうとしている伊江島が浮かんでいる。
途中、ジャスコで伊江島での食料などを仕入れて、そのまま、道の駅「ゆいゆい くにがみ(国頭)」に至る。