5月18日(木)「万座毛」(沖縄第2日)……第17日

道の駅・国頭
 車の音や人声などで、7時前に目が覚めてしまう。外を見ると、夜中じゅう明かりのついていた野菜売り場に、搬入の車が2〜3台来ていて、わが徳見車が、その入り口をふさぐ形となって、作業のじゃまになっているらしい。こちらは「車椅子マーク」の場所に停めたのだが、そこが野菜売り場の出入り口の近くなのである。
 向こうから見れば、「他にいくらでも駐車場所があるのに、何でこんなところに停めるんだ!」という気持ちになっているのではないか……という状況であった。
 急いで「道の駅・おおぎみ」を出て、さらに北へ向かう。15分ほど走ると「道の駅・ゆいゆい国頭(くにがみ)」に到着する。大宜味村のすぐ北の国頭村にある道の駅である。昨夜の「おおぎみ」は、何もない(失礼!)ところだったが、ここにはテーブルや椅子もあるし、駐車場の雰囲気もいい。「昨夜はここに泊まればよかったね!」と後悔するが、初めてのことで、何の情報もないのだから、やむを得ない。
 まだ売店などは開店前なので、誰もいない。静かで落ち着いた雰囲気の中でチターの練習をする。道の駅・国頭でチターの朝練のんびりとチターの練習をしていると「珍しい楽器。何というの……」と声をかけてくる人がいる。子ども連れのご夫婦である。聞くと、「これから比地大滝(ひじおおたき)へ行く」のだという。このへんの観光スポットの一つらしい。あとで地図を見ると、山の中なので、車椅子ではとても無理のようだ。
 9時になると、売店が開店して、スピーカーから大きな音でラジオの音楽が流れ始めて、チターを弾く雰囲気ではなくなってしまい、朝練は終了する。

 掃除などしている職員の女性に、「ゆいゆい」ってどんな意味?と聞くと、「沖縄の民謡の安里屋ユンタ(あさどやユンタ)をご存じですか。『ユンタ』は、ゆいうた(結い歌)のことで、「ユイ」は、お互いに助け合って労働不足を補いあうことをいいます。この歌にあるサー・ユイユイというはやし言葉は、そのあたりからきたのではないですか」とのこと。そして「〈ゆいゆい〉は、商店の名前とか、いろんなところに使われていますよ」と教えてくれる。

辺戸岬
 道の駅で地図などの資料をもらって、さらに国道58号を北上する。ところで、奄美大島も、島を縦断する幹線道路は国道58号だった。同じ国道が海をへだててがつながっているのだろうかと、ふと疑問がわく(後日調べてみたところ、「国道58号は、鹿児島市から沖縄県那覇市へ至る一般国道で、途中、種子島、奄美大島を経て、沖縄本島に達する。鹿児島市内ではわずか700mほどで、海上区間が大部分を占める」という。海をへだてて道路がつながっているという発想は、どこからくるのだろうか?)
 道は海岸沿いを走っている。きれいな海が広がっている。この沖縄の海でのんびりと過ごしたい。あわよくば、海に入りたい……と思う徳見だが、コンクリートの護岸が続いていて、車を停めて下りるような場所は見つからない。ただひたすら(のんびりと)走り続ける。梅雨入りしたというのだが、ときどき強い日差しが照りつける。
 10時前に、沖縄の最北端「辺戸岬(へどみさき)」に着く。
広い駐車場と土産物店がある。障害者用のトイレはあるが、大分痛んでいて、ドアのカギがかからない状態である。それでも使用可能ではあった。
 駐車場に車を置いて、岬まで車椅子で行く。天気はよいのだが、風が強い。岬の先端は高さ20メートルほどの絶壁になっていて、見下ろすと、崖の下には珊瑚礁に打ちつける青い波が激しく砕け散っていた。
 その岬の先端に「祖国復帰闘争碑」が立っている。「どうせ行政が作った『復帰賛美』のモニュメントだろう」と思って読んでみると、どうやら雰囲気が違う。そこには、次のように刻まれていた。

全国のそして全世界の友人へ贈る
吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ。打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ。
"鉄の暴風"やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、一九五二年四月二八日サンフランシスコ祖国復帰闘争碑を読む「平和」条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声は空しく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬された。
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ、全国民に呼びかけ、全世界の人々に訴えた。
見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。
今踏まえている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ。
一九七二年五月一五日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和への願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。
しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのでもなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。
闘いをふり返り、大衆が信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の攝理の下に生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。
1976/4 碑文 沖縄県祖国復帰協議会 第3代会長 桃原用行)……裏面

藍染め着物を着た人と…… ちょうど観光バスが2台、名古屋からの団体客を運んでくる。添乗員が、「祖国復帰闘争碑」の前で、説明を始めるので、一緒に聞く。「ここから与論島まではわずか約22キロ。小舟でも2時間の距離です。1972年に沖縄が日本に復帰するまでは、与論島と沖縄の間にある北緯27度線が『国境』でした。祖国復帰を願う当時の沖縄の人々は年に一度この辺戸岬の広場に集まって大集会を開き、夜には巨大なかがり火をたいて、同様にかがり火をたく与論島の人々と呼応し合いました。また、辺戸岬近くの宜真名(ぎまな0)の港から出た小舟の群れは北緯27度線を越え、与論島からやってきた小舟の群れと合流し、灯火をともして祖国復帰実現のための海上集会を催しました」というような説明をする。バスの観光客は、碑文を読むこともなく、また添乗員の説明も聞き流して、風景を眺めたりしてそのまま引き上げていく。
 天気は良いのだが、残念ながら海の彼方はかすんでいて与論島は見えなかった。

 徳見は、団体客の一人が着ている藍染の衣装に興味を持って、話しかける。徳見と同様に?草木染めをして、織りまでもやってしまったといい、強風の中で、染めや織りの話がはずむ。
ビーチで遊ぶ
マイ・ビーチ
 10時過ぎ、辺戸岬を出て東海岸を南下する。いつのまにか国道58号がなくなり、県道70号となる。県道から左へ入る道があって、その先に小さなビーチがあるのを、めざとく見つける。石ころが転がっているガタガタ道を2〜30メートルほど進むと、小さな浜辺である。今回の旅で初めて、海に入ることができる場所をみつけたのだ。車を浜に乗り入れると、徳見はさっそく靴をぬいで海水に足をつける。やがて、しゃがみ込んで、小さな巻き貝を見つけて集めはじめる。そのうち水の中に足を入れて、腰まで水につかって、カニを追いかけたりしはじめる。やがて、シャツを着たまま、泳いで、少し先の岩場まで行ってしまう……。
 その間に車を移動しようとしてエンジンをかけると、浜辺で食事タイヤが砂にはまってしまい、動けなくなる。車をジャッキアップして、タイヤの下に木や石や、毛布などをあてがってたりして、あれこれやってみるが……。
 いったんあきらめて、徳見がとってきた手のひらいっぱいの小さな巻き貝をダシにとって、ラーメンなど作り、ゆっくり食事をする。その後再び脱出に挑戦するが、結局3時間ほどかかったあげく、独力で脱出は不可能、と判断する(その間、徳見はずっと海の遊びを満喫する!)。
 2〜3人ほどの人手があれば、何とか脱出できるだろう……と思い、2〜3分ほど歩いて国道に出ると、すぐ脇に家がある。とにかく「誰かいたら手伝ってもらおう」と、声をかけてみる。
 徳見と同年齢ほどの男性が一人いて、状況を説明すると「今自分が考えている方法で、どうにかなると思うよ。もしそれでだめなら、この車で(と、自分の車を指す)引っ張ればいい」と、自信ありげにスタスタとビーチへ向かう。
荷台に石を積む 砂浜に立ち往生している徳見車をみて、「後ろの荷台を空っぽにして、なるべく重い石をそこに乗せて……」と言う。言われたとおりに、大きな石をいくつも抱えて乗せる。「うん、このくらいでいいだろう」というところで、彼がゆっくりと車をバックさせると、車はなにげなく動き出して、「砂地獄」から抜け出してしまう!
 砂に空回りしているのだから、車体を重くして、空回りを防いだのだ。これぞ「逆転の発想」というべきか! このすばらしい発想の持ち主は、このビーチと県道をはさんだ自宅も含めて2万坪の持ち主であるコバさんだ。徳見はそうとも知らずに、コバさんの「マイビーチ」で勝手に遊び、しかも窮地を救ってもらったわけだ。
 さて帰りがけに、足下に生えている植物を見ると、コバさん、「これはハマチシャといって、ホーレンソウみたいな味で、おいしいよ」と言って、採って帰る。
コバさんと木の船 コバさんにすすめられるままに、彼の自宅へ寄る。招かれて「居間」にあがると、ボートのテーブルがある。それは彼の子どもが小さいときに作ってやったボートなのだという。今はそれを改造してテーブルとして使っているのだ。
 その「テーブル」に乗っている「蛇のようなもの」は、この家の敷地に出没するハブである。捕まえて、皮をはがして、ていねいになめしたもので、たとえばライターなどに貼り付けると、みごとな「ハブ皮のライター」ができるのだ、と言って、その一つを見せてくれた。
 コバさんは、もともとは熊本の人だが、那覇で仕事をして、この「奥(国頭村奥という地名である)」に土地を買ったのだという。敷地には3棟ほどのログ風の建物があり、それもすべて彼の手作りなのである。わけあって、今は一人で「悠悠自適?」の生活をしているというが、その「わけ」も含めて、話はつきない。
 しかし、明日には那覇に着きたい徳見は、16時半ごろ、コバさんに別れを告げる。

やんばるの米軍基地
 とにかく、今日はなるべく那覇の近くまで行こう、という気持ちで、県道70号を南下する。道はほとんど「やんばる」の西海岸沿いの山の中を通る。ところどころに「米軍ヘリポート建設反対」という看板が立っている。こんな北部の山の中に米軍基地があるのだろうか、と思い、先ほどもらった資料にある地図をみると、広大な地域が「軍用地」になっているのである。
 ここは米軍の「北部訓練場」なのである。あるレポート(森住卓さんのHP)によれば、そこではアメリカ海兵隊が「連日、激しい人殺しの訓練が行われている。ジャングル内での対ゲリラ戦訓練、斥候訓練、困難な地形での接近戦訓練、ヘリコプター降下訓練、中でも最も過酷なのがジャングルでのコンパスだけを頼りに、食糧無しに1週間過ごすサバイバル訓練だ。時にはハブを捕まえて食べる……」「命や人権とは相反する殺人の訓練を日常受けている彼らは、正常な人間の神経がマヒさせられている。 放火、ひき逃げ、交通事故、レイプ、強盗、住居不法侵入など、彼らの沖縄県民に対する犯罪は後を絶たない。沖縄の地元紙に海兵隊員が引き起こす事件の記事が載らない日はほとんど無い。『良き隣人』でありたいと言い、綱紀粛正を何度米軍が叫んでみたところで、効果を表さない。その理由は彼らの訓練を見れば納得できる」という。
 この基地は、1996(平成8)年12月に、北部訓練場の半分(約3,987ヘクタール)の返還が日米間で合意されたという。その条件として、返還される区域にあるヘリコプター着陸帯を、返還されない部分に移設することになっている。しかし、この北部訓練場がある一帯は、自然林(亜熱帯林)が良好な状態で残されており、地球上でこの地域にしか生息していないノグチゲラ、ヤンバルクイナなどの固有種を含む、希少な野生生物が生息しているとして、自然保護団体などがヘリコプター着陸帯の移設に反対しているのである。
道の駅・許田で食事
万座毛
 もう日も暮れたころ、4つある沖縄の「道の駅」の3つめ、「許田(きょだ)」に到着する。ここで車中泊のつもりだったが、もう少し那覇に近づきたいという気がして、夕食だけにして、さらに先へ進む。
 地図を見ると、途中に「○○ビーチ」がいくつもあるが、車を停めてゆっくり過ごせそうな雰囲気ではない。その一つの「万座ビーチ」に入ろうとすると、ガードマンがいて「どちらへ……」という。「ここは?」ときくと、「ホテルの利用者以外は入れません」という。「9時から19時までなら、ホテル利用者以外でも、入場料(大人500円、小人300円)を払って、利用できます」とのこと。「沖縄のビーチは、本土資本のリゾートホテルに買い占められている」という話は聞いていたが、ここもその一つのようだ。
 万座ビーチから少し先進むと、「万座毛(まんざもう)」という標識があった。案内書によると風光明媚な「観光地」だというので、国道から少し寄り道をする。広い駐車場のまわりに土産物店が並んでいるが、すでに21時を過ぎていて、どこも真っ暗である。しかし一番奥に、男が二人いて、お酒を飲んで何やら楽しそうな雰囲気万座毛で夜の宴である。
 一人は「万座毛おみやげ品店」の亀浜さん、もう一人はその「友だち?」のツハコさんだ。ツハコさんはすっかりできあがっていて(つまり、いい気分に酔っぱらっていて)、「この先は景色がいいから、ぜひ見ていけ。オレが押してやる……」と、ふらつく足で車椅子にしがみつく。とにかくそれだけは勘弁してもらう。
 しかし、おすすめに従い、すけっとが車椅子を押して、岬をめぐる遊歩道をのんびりと一回りするが、夜の海は真っ暗で、遠くに町の灯りが見えるだけである。先ほど断られた「万座ビーチホテル」の明かりがすぐ近くに見える。
 一回りしても15分程度である。もどると先ほどの二人はまだ飲んでいて、一緒におつきあいをさせてもらう。ツハコさんは交通事故で「脳挫傷」して、今でも後遺症が残っているというが、「海のことなら、何でもまかせて! 釣りでも、潜りでも……。この近くの海でも、シュノーケリングのできるところがあるから、明日でも案内するよ」と言ってくれる。
 ヤシガニの話になると、亀浜さんが「ここにもいるから……」と、ソテツ林の中をゴソゴソと分け入って捕りに行くが、残念ながら見つからなかった。

 亀浜さんは商売用の泡盛「万座」の封を開け、「海ぶどう」やら「島らっきょう」「さしみアロエ」などを惜しげなく出してきて、ふるまってくれる。こうして「宴」は、「翌日」にまでおよんだ。

Data:大宜味〜万座毛 153.6km


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